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【小説】深淵の井 1


はじめに

 小学生のころからミステリィが好きでした。
 自分の手で創作できたら楽しいだろうな、と思っていました。
 しかし読書をたくさんする子どもであっても文章が得意とは限らなくて、作文は大の苦手でした。
 それから何十年も生きて、クリエイティブな仕事に深く関わるうちに文章が最も伝達能力のある媒体だと感じるようになっていきます。
 芸術作品を作っても、結局は言葉で説明します。
 そして「出版」のハードルが近年どんどん下がってきました。
 ついに無料で本を出せるようになってしまいます。
 さまざまな出逢いもあって、文筆を執るようになりました。
 書き始めるとたまらなく面白くなりました。
 創作の「面白さ」とは「苦しさ」と同義です。
 ウンウン唸って頭を抱えたり、ふらりと散歩に出ることもあります。
 ちょうどゲームにハマってしまう楽しさに似ています。
 この作品を着手してから構想が膨らんでいき終わりまで筋が見えていました。
 でも書くうちに「やっぱりこうしようかな」と何度も軌道修正しています。
 創作は生き物なので、作者の手を離れていく部分があります。
 そんな作品を作るクリエイターの刺激になれば、と今日もワープロを叩いています。
 では果てしなく広がる世界をお楽しみください。

雑踏

 八十八夜が過ぎ、五月さつき晴れの空はとても明るい。
 デパート前の歩道には宝くじ売り場がある。
 ロト6など、くじの のぼりが立ち、鮮やかな黄色や赤に染め抜かれた。
 都会の街は灰色だなどという唄があるが、どこが灰色なのだろう。
 看板もみな極彩色である。
 ひっそりと店を広げた行商人らしき者の前には、レタス、ごぼう、さくらんぼなどが並ぶ。
「今朝取れたての野菜だよ」
 足を止めた人に声をかけていた。
 新鮮な野菜や果物は、人の目を引く。
 つい手に取りたくなるが、持ち帰れないので断念したことが多々あるはずだ。
 車道はひっきりなしに車が横切り、タクシーが目立つ。
 世界一の乗降客数を誇る新宿駅前に、パイプ椅子を出してぼんやり座っている男がいた。
 春らしい菖蒲しょうぶ色と若竹色のチェック柄のシャツ。
 パンツはグレーを合わせている。
 春らしい鮮やかな色を着こなし、
 手には人数カウンターを持って、カチカチと何かを数えている風だった。
 眼に生気がなく、機械的に数える。
 すっかり地面と一体になった様な、地味な雰囲気が街に溶け込ませていた。
 朝9時ごろだが初夏の陽気といっていいほど暑い。
 空いた左手を庇にして、額に当てた。
 眼は相変わらず往来を注視したままである。
 男の背後を何人かが通り過ぎた。
 まったく気づかない風だったが、一人が足を緩めて少しかがんだ。
 そしてまた歩き去った。
 注意深く左手を開き、何かを確認する。
 そして立ちあがり軽く伸びをした。
 大口を開けて欠伸あくびをすると、パイプ椅子に手をかける。
 後ろ足をちょこんと蹴って持ち上げると、ガチャリと閉じた。
 陽射しに当たっていたのでパイプが思いのほか熱い。
 陽光の不意打ちにちょっと手を振って、椅子を片手に速足で歩き始めた。
 動作に淀みがなく、言い方を変えれば気配がない。
 地面を滑るように足を運び、こぼれやすい水を持つかのように椅子を水平移動していく。
 両手はほとんど振らず、極力動きを少なくしている。
 デパートの入口はガラス張りで、熱線反射フィルムが手前を眩しくしている。
 敷かれたタイルもライトグレーなので照り返しが凄い。
 建物の中が一層暗く見え、外の陽射しを白く際立たせた。
 男は闇の中へ身体を溶け込ませ、吸い込まれていった。

秘密の部屋

 新宿駅と直通している某デパートに、スーツ姿の男がいた。
 貫禄ある50代の白髪頭の男は、惣菜売り場のど真ん中を、のっしのっしと歩いている。
 ただならぬ雰囲気にすれ違う人は、皆道を譲った。
 5メートルほど離れて、同じくスーツに身を固めた男が1人ついていた。
 彼は買い物客を掻き分けて、必死に追いかけている。
 つかず離れず、前の男が悠々と売り場を見渡しにこやかに挨拶を交わす様子とは対照的だった。
「おい」
 前を歩いていた大木は、頭だけを少し後ろへ回して行った。
 慌てて駆け寄るとポケットに手を差し込まれた。
「ちょっと飯を食ってくる。
 お前も何か食え。
 30分後に例の場所へ」
 数歩進むと惣菜屋のおばちゃんが大木に耳打ちした。
「今日は何を」
「いつものやつでいい」
 奥に引っ込んで何かしているようだった。
 昼時の惣菜屋は、てんてこ舞いの忙しさである。
 ショーケース前に列ができ、注文を取る店員の声がひっきりなしに響いていた。
 迷子のアナウンスも聞こえる。
 焼き鳥屋にはこげ茶色タレの色。
 串を縦に並べたバット、トレイが規則正しくガラスケースに並ぶ。
 揚げ物屋はチェーン店の参入が目立つ。
 とんかつ専門店や天ぷら専門店、コロッケ専門店、唐揚げ専門店まである。
 店先に衣のベージュやオレンジがかった渋い色。
 キャベツがアクセントをつける。
 デパートやスーパーへおかずを買いに行くと つい買ってしまう。
 口当たりがよくて、強い味が疲れた身体を満たしてくれるが、毎日食べていると心配になる。
 健康志向の惣菜を買い求めると値段が高くなる。
 最近は試食を配る店はなくなった。
 感染症対策もあるし、人も材料も余裕がないのだろう。
 ぼんやりと眺めていた森は、ハッとして時計を見た。
 もう10分過ぎてしまった。
「どんな現象にも眼を向けろ。
 政治家として世相を読む姿勢を忘れるな」
 大木がいつも言い聞かせる言葉だった。

歴史を紡ぐ男

 総菜コーナーの奥に、秘密の入口がある。
 関係者以外立ち入り禁止の看板を乗り越え、大木はドアを開けた。
 戸口に立つと見知らぬ男が後ろに現れた。
 顔だけ半分後ろへ向け、のけ反らせた態勢で話しかける。
「首尾はどうだ」
「ずっと張っていますが、手がかりがありません」
「中へ来い」
 小さな個室の中央にダイニングテーブルと椅子が設えてある。
 白布で覆われ、深い緑のランチョンマットの上にカレーが一皿。
「お前も食うか」
「いえ、結構です」
 いつも大勢の人間に囲まれ、贅沢な食事をしている政治家にとって、この空間は貴重な憩いの場だった。
 外部の人間が一緒に入るなど異例である。
 新波百貨店の地下一階にこのような空間があるなどと誰も考えなかった。
「ここを、何て呼ぶか知ってるかい」
「ゼロキュー号室ですか」
 カレーをゆっくりと口に運びながら、人を値踏みするように聞いてくる。
「ほう。
 調べたのかい」
「ブン屋の知り合いに聞きました」
 幸田は聞かれるままに、包み隠さず答えた。
 大木 健一郎おおき けんいちろうは参議院議員である。
 虚構にまみれた政治の世界で、剛腕を振るう。
 一人の人間を社会から抹殺することなど造作もない。
 段々息苦しさを感じ始めた。
 部屋は6畳ほどの広さである。
 床には赤い絨毯が敷かれ、毛足が長い。
 当然掃除が行き届いているので、清潔感がある。
 壁は真っ白だった。
 飾りや間接照明などの演出もなく、電球色のLEDシーリングライトが4機天井から照らしているのみである。
 照度は意外なほど高かった。
 リラックス空間と言うよりも、素早く食事を済ませる空間といった部屋である。
「この部屋にはな、限られた人間しか来ないのだ。
 国会議員とその関係者。
 ブン屋の中でも一握りしか入れない」
「そのような部屋にお招きいただいて光栄です」
「なあ、幸田さんよ。
 短い付き合いだが、私はあんたを信頼しているんだよ。
 信頼には誠意で応えにゃならんぞ」
 語気が強くなってくる。
 幸田の背中に冷汗が伝った。
「新宿駅の前で張っていたようだが、空振りだったな。
 奴は一筋縄では行かないぞ」
 ギロリと睨みを利かせ、次の失敗は許さないつもりだった。

首都新聞社

 東京都千代田区大手町。
 日本の中枢である、この場所に首都新聞社本社ビルがある。
 地上10階建て。
 熱線反射ガラスで全面が覆われた、近代的な新しい建物である。
 周囲にはオフィスビルが立ち並び、グレーの街並みが続く。
 地下鉄が網目のように張りめぐらされているため、少し歩けば都内ならどこへでもすぐにアクセスできる。
 朝のラッシュ時にはスーツ姿のサラリーマンであふれかえる。
 清水は地方版の社会面などを担当した後、念願の政治記者になった。
 本社ビルの前を慌ただしく歩いてロビーへ入った。
 今日は編集長室へ直接来るように言われている。
 通勤カバンを抱えたままエレベーターで最上階へ向かった。

 窓を背に大きな机を設え、入口の左側に応接セット、右側に仕事机がある。
 たっぷりと自然光を取り込み、座っていると後光が差したような厳かさを醸しだす。
 首都新聞の編集長室には、大机に向かう男が一人。
 ちょうど一区切りついて、応接ソファに座っている男を見た。
 定年をとうに過ぎた男は、老人と言ってもいい年齢である。
 白髪に皺を深く刻んだ顔には、気苦労の跡が見てとれた。
 新聞を広げ、足を汲んで投げ出している。
 時々唸っては紙面をたたいたりしていた。
「ガイさん、機嫌悪そうだね」
 永井は他紙で政治記者を長く勤めた後、菊池が引っ張ってきた敏腕記者である。
 噂では、並みの記者の5倍給料を払っていると言われている。
 旧知の仲であればこそ、第一線で記事を書いてくれているのである。
「なあ、キクさんよ。
 俺は、何歳になったと思う」
「いやあ、それを言われちゃうとね」
 禿げ上がった頭をピシャリと叩いて苦笑いをして見せた。
 だが、永井は入口を向いたままだった。
「『いやあ』じゃねえってば。
 もう棺桶が恋しくなった歳だぜ。
 寝るのは死んでからにしろってか」
 大きなため息と欠伸あくびをして、足を大仰に組み替える。
「俺なんかいなくたって、揺らぐような首都新聞サマじゃねえでしょ」
 小走りで向かい側に座った菊池は、困りながらも笑顔を作った。
「そう言わないでくださいよ。
 近頃は新聞も売り上げが落ち込んでましてね」
 新聞を畳んで、ソファの隅に投げやると、身を乗り出して菊池を見た。
「いやいや、キクさんに頼まれちゃ嫌とは言えないぜ。
 でもな、今年で最後にしてくれや」
「娘さんは、どうしたんですか」
「自分の家庭を持って、平穏に暮らしているよ。
 気楽な独身貴族としちゃあ、稼ぐ理由がねえのさ。
 豪華に墓を奮発してもつまらねえし」
 ふんと鼻を鳴らして天井を見上げた。
 腕をソファの背もたれに乗せ、ひっくり返るようにしている。
 編集長の前でこんな態度を取れる人間は、他にいなかった。
 永井の記事がなければ政治面は成り立たない。
 情報は他紙でもある程度共有するから、いなくなったら業界全体の損失になる。
 菊池は細心の注意で永井の機嫌を窺った。
「実はね、記事のイロハを一通り教えた若い記者に、教えてやってほしいんですよ」
 また大きなため息をついて、天井を見上げる。
「はあ、またかい。
 大抵長続きしないんだよな」
「最近の若い記者は、どこの新聞でも書いてるような無難な記事しか書かないから。
 ぜひガイさんの取材術を伝授してやってほしいのです。
 最後の仕事だと思って、お願いしますよ」
 深々と頭を下げる。
「へえへえ。
 キクさんも悪い奴だよな。
 こんな老いぼれから、若い奴に生気を分けてやれってんだから。
 俺もな、余生ってやつを楽しみたいんだぜ。
 政治家相手にゃあ、寿命が縮む思いを散々させられたんだ。
 あと何年生きられるかの方が重要だぜ」
 ボヤキながらも笑顔を覗かせた。

次代へ渡すもの

「そろそろ来る頃ですよ。
 さっき見ていた新聞の社会面は、彼に任せたのです」
「まあ、文章なんかどうでもいいんだよ。
 無難な記事を書く根性を、直してやらなきゃあな」
 ニヤリと笑うと、別の新聞を手繰り寄せた。
 編集長室のドアは、開けっ放しにしてある。
 各部の記者が、気軽に入って来られるように配慮しているのだ。
 隣には広報部があり、広告マンが慌ただしく出入りする。
 そんな中、近づいてくる足音が聞こえた。
「おはようございます。
 政治部の清水 斎騎しみず さいきです」
「へえ、こいつが若い敏腕記者さんかい」
「清水くん、こちらは永井 寛英ながい かんえい記者だ。
 他紙の政治部で、バブル期の勢いがある時期からずっと書いてきた大先生だ。
 一緒に行動して、政治記事のイロハを吸収してもらいたい。
 キミに、首都新聞社の未来がかかっているのだ。
 よろしく頼むよ」
 立ち上がった菊池は、肩をポンと叩いて激励した。
 清水は少しオドオドとして永井の方へ向き直った。
「清水です。
 よろしくお願いいたします」
 腰を90度に折り、最敬礼の姿勢を維持した。
「まあ、堅っ苦しいのは抜きにしようや。
 まずは仕込み甲斐があるかどうか、何でもいいから記事を書いて見せてみな。
 先にデスクに戻ってろ」

 席についた清水は考え込んだ。
 政治記者ならば誰もが知っている大御所に見せる記事である。
 何でもいいなどと言われると、なおさら重くのしかかってくる。
「どうしたもんかな」
 ワープロソフトを立ち上げたまま、壁を見つめて唸った。
 今、世の中は景気対策に注目を集めている。
 参議院議員である大木 健一郎おおき けんいちろうは税制改革を掲げて法案提出の動きを見せている。
 反対派の急先鋒は衆議院議員の大木 健一郎おおき けんいちろうだ。
 この2人を中心に次の動きがあるはず。
 政治の核心を突いた記事を書けばきっと認めてもらえるはず。
 インターネットで情報を集め、20分ほどで仕上げた。
 永井が入ってくると、記者が立ちあがって挨拶をした。
 清水もそれに倣う。
 部長席にどっかりと座り、足を投げ出してスマホをいじり始めた。
「ほれ、見せてみろ」
 永井が手招きをする。
 打ったばかりの記事をプリントアウトして、手渡した。
 ふんと鼻を鳴らし、一息に読むと投げて返す。
「ま、こんなもんだろうと思っていたぜ。
 文章は悪くない。
 だが内容がダメだ」
 言ったきり黙り込んでしまったので、清水は席に戻るしかなくなった。
 永井はずっと座ったまま新聞を読んだりスマホを読んで唸ったりしている。
 そして、くるりと椅子の向きを変え窓から空を眺めてため息をついた。
 首都新聞社の中でも永井に気さくに話しかけられるのは菊池編集長だけである。
 新入りの清水など、何を言えばいいのか見当がつかなかった。
 時計を確認していた永井が立ちあがった。
 そして清水に耳打ちした。
「おい、取材だ。
 メモ用紙持ってついてこい」
 返事も聞かずにつかつかと出て行ってしまう。
 手元にあった手帳を掴んでバッグに放り込み、後を追った。

ベテランの取材術

 ビルの表通りでタクシーを拾う。
 どうも急いでいる様子だった。
 舌打ちをしながら時計を確認する永井。
 振る舞いの割には、チープな腕時計だった。
 清水の視線を感じたのか睨みつけ、
「よく覚えとけ。
 記者たるもの、常に相手を立てるのだ。
 身につける物は最低限でいい」
 あわててメモ用紙に書き留めた。
「バカ、こんなこと書かなくていい」
 タクシーは新宿駅へ向かっていた。
 途中まではスムーズに流れた。
 駅前は混雑しているようなので、手前で降りて歩くことにする。
 駅近くはデパートや雑居ビル、オフィスビル、専門学校などさまざまな看板が目についた。
 飲食チェーンの看板も目立つ。
 道路は整備されたが街並みは日本らしい雑多な様相である。
「ちっ、こんなぐちゃぐちゃな街にするから、日本はなめられるんだぜ」
 同じことを考えていたようである。
 国際部の記者でなくても、日本の大都市は急成長の弊害をもろに受けている。
 日本の文化を感じさせる街並みは、どこにも見当たらない。
「こいつはメモしとけ。
 言葉の裏にある文化的背景を読め」
「文化的背景 ───」
 含蓄のある言葉だった。
 速足で歩きながら素早く書き留めた。
 どうやら新波百貨店を目指していたようだ。
 露天商や宝くじ売り場を通り過ぎ、入口へ入っていった。
 エレベーターの奥の階段を駆け降り、地下に入る。
 お昼時なので、買い物客でごった返していた。
「おばちゃん、いつもの頼むよ」
 惣菜屋の店員に話しかけると奥に案内された。
 従業員用と思われる廊下を突き当りまで進む。
 そして階段を上がる。
 現れたドアを開けると小部屋に男がいた。
 驚いた顔でこちらを見る。
 どうやらカレーを食べていたようだ。
「やあ、ガイさんか」
 中にいたのは、大木 健一郎だった。
 参議院議員がなぜ。
 この部屋は一体。
 様々な疑問が一度に浮かんだ。
「マージャン、上手に打ってくれて助かったよ。
 これを取っておいてくれ」
 茶封筒を無造作に永井の手に押しつけた。
 中身は金だろう。
 接待マージャンだろうか。
 議員仲間の噛ませ犬にしてお礼を渡した。
 清水は頭の中で情報をパズルのように組み立てていった。
 これくらいの想像力は持ち合わせていた。
 問題は、ほとんどサシで取材できる状況を、どうやって作りだすのかである。
 この部屋には、誰でも入れるわけではないだろう。
 6畳ほどの広さがあるので、一人で食事するには広すぎるくらいである。
 だが、国会議員が使うスペースにしては殺風景だった。
「後釜を連れてきたのかね。
 ガイさんもそろそろ引退かな」
「ははは。
 そう行きたいところですけどね、この歳まで引き留められています。
 まあ、記者冥利とも言えますがね」
「いやあ、ガイさんには散々お世話になったからね。
 私が政治家秘書やってた頃からだよ」
 清水に聞かせようとしているようだった。
「ところで、今度の法案はどんな塩梅あんばいですか」
「んっ、ガイ三に聞かれちゃあ、答えないわけにはいかんな。
 ぼちぼち原稿はできあがる。
 そしたら会見するさ」
 永井は肘で清水を突いた。
 ハッとしてメモ用紙を取り出す。
 書けと言っているのだ。
「ちょっと、邪魔する奴がいてね。
 何とかならないかと思うんだけど」
 口ごもりながら言う言葉の橋端に殺気がこもっている気がした。
 大木議員ほどの大物が恐れる人物といえば。
 情報量は少ないが、線になってつながった。
「時間はあるかい」
「はい」
「ガイさんには世話になったから、私も協力したいと思ってね」
 ちらりと清水を見た。
「キミは、マージャンとゴルフの方はどうだい」
「学生時代にマージャンはやってました。
 ルールはわかります。
 ゴルフは勉強中です」
「そうか。
 議員の中には、マージャン好きが多くてね。
 気分よくさせてやるには良いんだよ」
 接待で気分よく勝たせるテクニックが必要になるだろう。
 自然に負ける方法。
 しくじれば政治記者として二度と表に立つことはなくなる。
 真っ白な壁を背に、カレーを食べ終えて口元を拭く大木の仕草にも威厳がある。
 目元には確固たる意思を込め、失敗は許されないと暗に言っているようだった。
 内に秘めた政治への情熱は、炎のゆらめきのような絨毯じゅうたんの赤である。
 国の行く末を左右する構想が見え隠れする会話を、細心の注意で聞かなくてはならない。
 ひときわ鋭い眼を永井に向けると切り出した。
「実はね、いろいろ調べたいことがあって信頼できる人を探しているのだよ」
 ただならぬ殺気があった。
 部屋全体を張りつめた空気が満たす。
 腕組みをして思案した後、
「選りすぐりの人物を紹介しましょう」
 永井の眼も真剣そのものだった。
 短いやりとりだったはずだが、何時間も話した気がした。
 大木は会釈をすると立ちあがった。
「また打とう」
 牌を打ち付ける手つきをして見せて、反対側のドアから出て行った。
 2人残されると、部屋が広くなったように感じた。
 大きくため息をついて、どっかりと椅子にもたれた。
「こりゃあ、記事にはならんな」
「はい」
「分かってるだろうが、ココでのやり取りは一切口外するな」
 ジロリと睨みつけた。
「あの」
「なんだ」
「一人で探偵をやっている知り合いがいます」
「命を預けられる人間か」
「仕事はきちんとやる奴です」
 ポンと膝を叩いて立ちあがり、元来た道を引き返していく。
「おばちゃん、いつも悪いね」
 さっき受け取った封筒をそのまま手渡してしまった。
「多分、10万入ってるぜ」
 清水に耳打ちをしてから、惣菜売り場を物色し始めた。
 昼時が過ぎれば人混みがウソのように空いていた。
 売れ残りは まかないにするのだろうか。
 平均して値段は高めである。
 普段使いなら近所のスーパーで買って帰った方が安上がりになる。
 新宿という立地と、明治から続く新波百貨店のブランド力で成り立つ商売であろう。
「ヒレかつ弁当2つ頼むよ」
 ガラスケース越しに永井が注文をした。
「ゲンを担いでカツにしようぜ」
 ホカホカの弁当を片手に、タクシーに乗り込んだ。

スクープをあげろ

「それで、さっきの話だがどんな奴かこの目で見たい。
 その前に、編集長の意見も聞こう。
 しくじったら、この業界では仕事ができなくなると思え」
 紙の箱に詰められたヒレカツは、柔らかくておいしかった。
 永井のプレッシャーのせいで充分味わえないが、それでも疲れた神経が癒された。
 柔らかく刻まれたキャベツ。
 機械で作ったのだろう。
 カツに使う豚は、養豚農家で大量に飼育されているのだろう。
 チェーン店の強みを生かすには、年中一定品質の肉を大量仕入れを続ける必要がある。
 屠畜場とちくじょうへ送られた豚たちは、すぐに部位を切り分け冷凍する。
 デパートで見る肉は「物体」だが、生物の一部であることに変わりはない。
 新聞記者にとって記事が商品であるとすれば、とんかつ屋の豚肉と同じようなものだ。
「おい、ぼーっとすんな。
 すぐに行くぞ」
 永井はジャケットにそでを通し身支度を始めた。
 残りを慌てて詰め込み、お茶で流し込む。
 さっさと出て行ってしまったので、走って追いかける。
 少しむせながらメモ用紙を片手に廊下の端を歩いてついていく。
 エレベーターで最上階に着くとまっすぐな廊下がガラス窓へ向かって伸びている。
 赤い絨毯と白い壁は「ゼロキュー号室」と似ていた。
 首都新聞社は、政治家御用達の部屋に似ている。
 偶然だろうか。
 何かが引っかかった。
「おい、大丈夫か。
 正念場だぞ。
 しっかりしろ」
 また考えごとをしてしまった。
 開け放たれたドアをノックしながら入っていく。
「キクさん、大木さんに会ってきたぞ」
「何か掴めましたか」
「10万掴まされた」
 ニヤリと笑って清水の方を一瞥いちべつする。
 身振りで「なっ」といたずらに言っていた。
「はい。
 まあ」
 曖昧に返事をして、次の言葉を待った。
「ちょっと、込み入った話なんで、ドアを閉めてくれ」
 顎をしゃくった。
「残念ながら記事にはならんネタだ。
 超ド級のシークレットだ。
 漏れたら首都新聞社を消されかねない」
 また清水を睨む。
 菊池は少し怯えた顔をした。
「おいおい、ガイさん。
 大丈夫なのかい」
 かぶりを振りながら、
「いや。
 大丈夫じゃないさ。
 この件は、数多あまたの修羅場を知っている俺にしか扱えない。
 この目で見て、全身で感じ取ってくるつもりだ」
「何を」
「これから探偵に調査を依頼することになる。
 ただし、命を預けられる人物じゃなくちゃいけない。
 仁義ってやつだ」
「凡人にも分かるように説明してください」
「政敵のスキャンダルをスッパ抜けとさ」
「何だって」
 菊池は声を大きくして飛び上がった。
 目がぎょろりとして2人を見回している。
「じゃあ、これから面接に行ってくるぜ」




「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。 不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。 人の心を動かすのは「物語」以外にありません。 心を打つ物語を発信する。 時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。