【小説】深淵の井 2
孤高の探偵
極秘の調査のため、限られた人数だけで向かうことにした。
清水がステアリングを握る。
「森さんにも来てもらいましょう」
「いまやってる」
スマホを取り出し電話をかける。
着信音3回でつながった。
「永井だ。
大木さんの例の件で、これから動く。
一緒に来てほしい。
場所は ───」
「あわわ…… 大変なことになったぞ」
菊池は禿げ上がった頭を抱えて身を縮めた。
「そうだな。
慰めの言葉も見つからないぜ」
新宿駅からほど近い路地に「幸田探偵事務所」と小さな看板が出ている。
ロビー横のエレベーター室に入り、3階のボタンを押した。
通りを行き交う人が妙に気になり始める。
雑居ビルが集まった一角には、飲食店が多かった。
日が暮れ始めると、人通りが増えてきた。
「まあ、ビクビクしなさんな。
百戦錬磨のガイさんがついてるぜ」
ふんと鼻を鳴らしてエレベーターから降りる。
ドアは空いていた。
小さなビルなので、このフロアには他のオフィスがない。
中から話し声がした。
「幸田さん、清水です」
入ろうとすると、見知らぬ男が話し込んでいる様子だった。
「永井さん。
連絡をいただいたとき、近くだったので先にお邪魔しました」
始めに目をひいたのは、天井までぎっしりと本が詰まった左側の壁だった。
部屋の作りは人となりを表すというが、勉強家なのかも知れない。
奥は全面ガラス張り。
通りを行き交う人を見下ろすことができた。
右側の壁には、ティーセットとIHヒーター、レンジ、冷蔵庫、流し台が並ぶ。
ここで生活できそうだった。
「ああ、ここで生活できますよ」
スーツ姿の。生真面目そうな青年が窓を背にして椅子に腰かけている。
向かい側に40代と思われるスーツを着こなした男。
まずは名刺交換会が始まった。
幸田 陽介30歳 幸田探偵事務所 探偵
森 修一郎 大木 健一郎 参議院議員 私設秘書
菊地 響 首都新聞編集長
永井 寛英 首都新聞政治政治部長
清水 斎騎 首都新聞政治部記者
「私がまずは説明するべきでしょう」
永井が幸田の向かい側に座って、話し始める。
「いやね、人間というものは年月を重ねるほど肩にいろいろしょい込むのですよ。
その点私という人間は、ただの政治記者だ。
部長なんて書いてますけど、実態はただの捨て駒。
なにかやらかせば、すぐにトカゲのしっぽ切りあう身です。
嫌味を言っているのではありません。
真実だからです」
滔々と語りながらも、目つきは鋭い。
幸田は口を一文字にしたまま黙っていた。
「探偵事務所としては、主にどんな仕事をしていますか」
4人の立ち居振る舞いを見て、ただ事ではないと察している。
だから慎重に言葉を選ばなくてはならない。
そして、言葉の裏に隠している意味をつなげていく。
「探偵事務所というものは、地味な調査が大半です。
浮気調査と失踪者探しが多いですね。
私は、依頼された調査をするだけでなく、アフターケアが重要だと考えています。
真実を暴き出せば、人間は傷つきます。
人間関係が破綻するので、修復する必要があるのです」
「ほう。
なぜそのようなことを」
菊池が身を乗り出して口を挟む。
「ただの仕事ではないからです。
探偵は割に合わないし、しょっちゅう逮捕されます。
高い志がなければ長続きしません。
自分が納得できる仕事をしてモチベーションを保っているのです」
「調査を進めているときに、犯罪が発覚する場合もあると思いますが、どうされますか」
幸田は本棚に目をやった。
少し間を置いてから、
「犯罪の程度にもよります。
軽微なものなら見逃すかもしれません。
重大な犯罪ならば通報します」
少し考え込んでからつけ加えた。
「犯罪にあたらなくても、社会的信用を傷つけるような行為であれば見過ごしたりはしません」
「少し時間をください」
永井は森に目くばせをして外へ出た。
「森さんはどう思いますか」
「一般的な探偵事務所といった印象です。
社会的影響の大きさを考えれば、慎重に判断すべきでしょう」
政治家として、当然の発言だった。
個人的な印象だけでは決められない。
やはり、大木議員自身に決めていただくべきだ。
「わかりました。
日を改めましょう」
事務所に戻ると、幸田の正面に永井が座った。
重苦しい空気が流れ、全員の視線が向けられる。
テーブルに両肘をつき、手を組んだ。
手を何度か組み換え、ため息を漏らす。
「幸田さん、今は何も申し上げられませんがまたご連絡します。
私は信用できる人物だと思いました。
でもそう簡単ではありません」
みな立ち上がり、エレベーターホールへ出た。
幸田はエレベーターのボタンを押して、
「みなさんがお越しになった事実は、もちろん口外いたしません。
ですが、何を依頼されようとしたのか、大いに興味があります。
申し上げた通り探偵という仕事は、調査ばかりで単調なものです。
いつも受けている仕事とは違う、込み入った話であればぜひお受けしてみたいと思います。
大変な案件でも、私は負担だとは思いません。
むしろ逆なのです。
スリリングな事件に関わって、探偵としての能力を存分に発揮したいのです」
冒険に胸を焦がす少年のように澄んだ目をしていた。
小説に出てくる名探偵は、殺人事件を華麗な推理で解き明かす。
真相は人間の愛憎が入り混じったドラマチックなもので、結末をあれこれ予想しながら楽しむ。
そんな本物のミステリィを求めていた。
道を究め人は走る
事務所に残された幸田は、パソコンを立ち上げてメモを取り始めた。
剛腕で知られる大木参議院議員の私設秘書の森。
政治家秘書という仕事は、簡単に勤まるものではない。
私設秘書だから、大木が個人的に採用している。
アポ取りなどの事務仕事とスケジュール管理の他、身の回りの雑用もしているだろう。
立ち居振る舞いから、森自身も政治家を志している気がする。
だとすれば、探偵に依頼する内容は私事ではない。
浮気調査など身辺調査だけなら本人が直接話す方が自然だ。
依頼主は大木議員だと考えて間違いなさそうだが、話をしたのは首都新聞のベテラン記者の永井である。
政治部長だから政治家とも深いつながりがある。
だから森も大木も信用して任せたのだ。
話し方は堂々としたものだった。
記事を書くペンが鈍れば、政治記者はただでは済まされない。
相手はなんでもありの国会議員である。
政治記者はいつも神経を張りつめているため、反動で感情的になりやすく深酒などをして私生活は乱れ、粗暴な記者も多い。
幸田もそんなタイプに見えた。
そして、菊池編集長。
いつ記者から連絡があるかわからない新聞社において、編集長自ら外へ出ること自体異例である。
神経質そうな風体を、不安がさらに顔をゆがませ身を縮めさせていた。
依頼はかなり重大な内容だったに違いない。
身が震えるほど燃えてくる。
ぜひ依頼を受けてみたい。
どうすればいいだろうか。
考えていると、インターホンが鳴った。
「清水です。
ちょっとお話があります」
エレベーターから出てきたのは1人だけだった。
「何度か取材協力をしていただいたりしましたね」
「そうですね。
失踪事件の被害者が売春宿で保護された件とか」
「ヤク漬けにされて、遺体で見つかったりもしました」
失踪者は、精神的にも経済的にも追い詰められていることが多い。
最悪、自殺している場合もある。
「心が熱くなるような冒険を求めている、というようなことを考えているようですけど、新聞記者は事件後の現場しか知らないので、ずいぶんスリリングだと感じます」
「僕は、本気で小説のような名探偵を目指しています。
難事件をパズルを解くように解決し、真相を明らかにする。
そんな仕事をしたいのです」
「依頼は、そんなものではないかもしれませんよ。
ただの身辺調査どころか、何も掴めない可能性の方が高い」
「探偵の直観が、そうではないと言っています」
清水は幸田という男を見誤っていたかもしれない。
永井の指示で、もう一度話しにきたのだ。
恐らく年齢が近くて、何度か取材で顔を合わせた自分が話せば、幸田の気持ちを深く知ることができると思ったのだ。
「ちょっと、これを見てくれ」
パソコンを開いて、ブラウザを立ち上げる。
出てきたのは数字の羅列だった。
8桁の同じくらいの数字が上から下へとスクロールしていく。
「これは」
「仮想通貨のブロックチェーンの動きを数値にしたものです。
あまり変化がないように見えるが、1日たち、2日たつと少しずつ変動しているのがわかります」
「へえ、いかにも理系っぽいビジュアルですね。
僕は文系なので、数字を見ると少し苦手意識があります」
「では、これなら」
画面には、ブラックホールの写真が表示される。
ブラックホールは、光さえも吸い込んでしまうため どうやって可視化するのか疑問だった。
本屋で見た化学系雑誌には、赤いブラックホールの写真が載っていた。
だから、実際には光っていたのか、と思っていた。
「どうです。
『なんだ、ブラックホールって、見えるんだ』と思ったでしょう」
「えっ、違うのですか」
「違うも違う。
大違いです。
これは観測者が勝手につけた色です」
もう一度数字の羅列をだす。
「これをよく見てください。
微妙な変化に、ある程度の規則性がある。
だから、図像にできるのです。
数字の上下を色みと明るさの変化に置き換えれば」
「なるほど。
だったら、嘘ではないわけですね。
一種のダイヤグラムのようなものだ」
「僕が求めているのは、一本の線ではなくて、一枚の絵になる事件なのです」
輝く瞳でパソコン上で流れる数字を眺めた。
そして、日が落ちかけた裏通りに視線を移す。
「窓の下を、毎日たくさんの人が行き来しています。
みんな小さな事件を抱えているし、明日には大事件に巻き込まれる可能性がある」
「まあ、そうとも言えますね。
僕も明日死んでいるかもしれないし、社会から抹殺されるかもしれない。
後者はリアリティがありますけど」
「小さな変化をよく観察すれば、エキサイティングな宇宙につながるのです」
秘密の部屋へ
ゼロキュー号室へと続く惣菜屋に、幸田がやって来たときには、すっかり陽が暮れていた。
店員のおばちゃんは、小太りで色つやがいい。
感染症による不景気の煽りをもろに受けるはずの店で、幸せそうな満面の笑みを見せるところがプロなのだろうか。
それとも、後ろにある通路が未来への不安を取り除いてくれているのだろうか。
仕事柄、違和感のある人物には嗅覚が働く。
この店には何かあると感じた。
「誘置く来ていただきありがとうございます。
昼間事務所へ来た秘書の森が出迎えた」
「こんな空間があったのですね。
秘密の部屋といったところですか」
「限られた人にしか教えない場所です。
くれぐれもご内密に」
通路の先に階段がある。
「薄暗いのでお気をつけください」
ドアは軽い開き戸だった。
まったく音を立てずに開く。
強い光が漏れ、通路に一筋の線が描かれる。
しだいに太くなり、中が見えてくる。
毛足が深い、深紅の絨毯が敷かれている。
間取りは6畳ほど。
中央にダイニングテーブルがある。
白い布のしたにがっしりとした黒い脚が4本。
椅子は4脚あった。
いずれも格子模様に穴が開いたハイバックチェアである。
街のレストランではあまり見ない、デザイナーズチェアといった雰囲気である。
飾り気はないが威厳をたたえていた。
「こちらへどうぞ」
椅子を引いて森が勧める。
出て行こうとしたところを引き留めた。
「お前も一緒に聞くんだ」
奥の席にいる男は天井からの照明を受け、スーツが輝くように見えた。
眼には相手を威圧する力があった。
キッと結んだ口元からは活力ある声が発せられる。
眉間と頬に刻んだ皺は、今までどれほどの苦しみを乗り越えてきたのかを想像させる。
森は椅子を一つ持ち、少し離れた場所に腰かけた。
いよいよ何かが語られる。
重大な何かが。
参議院議員 大木 健一郎と差し向かいになると、息も止まりそうな威圧感だった。
「キミは、日本の行く末を考えているか」
正面から見据えるように眼光を煌めかせる。
国会議員らしい言葉だ。
「はい。
考えています」
「では、探偵として日本のために何をするか言ってみろ」
「探偵は、人の過ちをただすために存在します。
浮気調査では、感情的になったクライアントを最期まで面倒を見て本来あるべき関係を取り戻すのです。
失踪者の捜索では、生活に行き詰まったり精神的に追い詰められた人を探し出し、生きる希望を取り戻させます。
長い人生の旅路においては、谷へ沈むときもあります。
暗闇から人を救い出すためにあらゆる手段を講じて救うのです。
一人の人間を救うことが、関係する人たちにも影響を与え、地域を救い広がって行って国を救うのです」
「一燈照隅 万燈照国 か。
確かに、口先で政治家が理想を語っても、身の周りを照らしていなければ国は変わらぬ」
「社会の病を一つずつ解決していけば、日本の病が治っていきます」
「ほう。
日本の病とはなんだ」
「グローバル化の波が押し寄せ、急激に社会が変化しています。
情報通信や経済も国の垣根がなくなると世界基準で物事を判断する必要が出てきています。
その狭間で喘人たちを探偵が救っているのです」
「日本経済は破綻寸前なのだ。
ニュースで知っていると思うが、インフレが加速している。
もう肝胆には止められぬ。
だれかが泥を被り経済政策を押し進めなくてはならない」
「そのためにできることがあれば、微力をつくします」
大木は重々しく頷いた。
「最近は議員も質が下がってな。
青雲の志を胸に、どんなに高い山でも登りつめようと努力する気骨を欠いているのだ。
目先の人気取りのうまい奴がマスコミに取り上げられ、耳当たりのいい話をする。
派閥の意見に流され、命を投げうって戦おうとしない。
自分という土台を失った政治家など、もはや病原菌でしかない」
さも苦々しいとばかりに、テーブルを叩いた。
近々なにか法案を提出するつもりなのだろう。
肝入りの改革を進めるために、邪魔な政治家を探偵に調査させようとしているのだ。
状況から簡単に読み取れる。
「衆議院議員 越野 五男を洗え。
日本の命運がかかった仕事だと思え。
私にとっても、政治家生命を賭けた仕事になる。
一蓮托生だ。
森、アレを」
小さなアタッシュケースをテーブルの下から取り出した。
「では、日本をよろしく頼む」
椅子の横で腰を折り、90度の最敬礼をした。
慌てて幸田も倣う。
踵を返して反対側のドアから出て行った。
張りつめた空気が、喉をカラカラにした。
ちょうどその時後ろのドアから惣菜屋のおばちゃんが入ってくる。
「私も私設秘書の1人でね。
こう見えても夫は外交官さ。
用があったら『おばちゃん』と声をかけてくれればいいよ」
コップが曇った冷茶をテーブルに置いていった。
講究
事務所に戻ると、下調べを始めた。
衆議院議員宿舎は6カ所ある。
まずはどこに住んでいるのか。
森に聞いたところ、新宿御苑衆議院議員宿舎だとわかった。
新宿が調査のポイントになりそうだ。
議員宿舎は衆議院と参議院で分かれている。
国会の構造を考えれば、ごく自然な配慮である。
ちなみに大木は八丁堀参議院議員宿舎に住んでいた。
インターネットで調べると間取りと家賃までわかる。
周辺の物件と比べると、4分の1ほどで借りられるのだ。
地方から出てきた議員は、宿舎を借りる場合が多い。
この宿舎がスクープネタの宝庫なのである。
「宿舎で張り込みを擦れば簡単に何か掴めそうだ」
と呟いてみて、違和感を感じた。
確かに不祥事の温床だが、簡単にしっぽを掴めるとは考えにくい。
プライベートを万全の対策で隠しているだろう。
いかにも怪しいポイントこそ、気を引き締めるべきである。
まずは、ターゲットの新宿御苑宿舎を張ることにした。
探偵の仕事の中でも張り込みはかなり大きなウエイトを占める。
長い時間一定の場所にいると怪しまれる。
例えば暑い日にエンジンをかけて車の中でクーラーに当たっていたら、すぐに注目を集めるだろう。
また、道端に突っ立っていたら、何をしているのか怪しまれるし警察に通報される恐れがある。
探偵が軽犯罪でしょっちゅう逮捕される原因の一つである。
大作としては、通行人を装って何度も通る。
宅配業者の恰好をしていれば自然に見えるだろう。
大通りの傍ならパイプ椅子を持ってカウンターをカチカチやっていれば交通量調査にみえる。
深夜に越野が帰って来た。
年齢は67歳。
初老だが、肌の色つやがいい。
メディアに出るときには化粧をして強いライトを当てて影を消すため、実物を見ると老けている場合が多い。
写真や映像では皺やシミ、できものを消して肌を処理できる。
だが越野はほとんどギャップを感じさせない。
気力がみなぎっていて、シャキシャキと歩いていた。
どうやら新宿駅方面から長い距離を歩いてくるようである。
国会議員は大抵玄関横付けで送迎されるものだ。
空には星がまたたき、満月が辺りを優しく照らす。
街灯がリズミカルに街路樹を照らしだす。
通行人はほとんどいないが、明るい道で車の行き来はあるからさほど寂しい場所ではない。
まっすぐに家路を歩く越野の目線は前だけを見ているようだ。
周囲の眼を気にしなくなるほど日常的に歩いているのだろう。
外から眺めているだけでもかなりの情報を集められる。
5階の右から2番目の部屋に入ったようだ。
手前の部屋の電気が点いた。
ゴミ出しは妻がするのだろうか。
調べればライフスタイルなどたくさんの情報がある。
一般人なら言い争いなど目立った行動を取っているか聞き込みでわかるが、議員が周囲に分かるほどの言い争いをしているとは考えにくい。
悪い噂は政治家としてマイナスイメージになるからだ。
大木の計らいで、翌朝から清掃業者として宿舎に入ることになっていた。
朝6時。
新宿御苑の周りには、ジョギングや犬の散歩をする人などが現れる。
業者用のカードキーで入口を開ける。
床材を叩くと乾いた高い音がする。
磁器質タイルのようだ。
床はコンクリート打ち放し。
モダンな印象を与える。
共有スペースは基本的に掃き掃除とモップ掛けで済んでしまうだろう。
掃除をしながらピンホールカメラを設置するポイントを探す。
当然防犯カメラも各階にあった。
火災報知器を装ったピンホールカメラを、越野の部屋周辺に設置。
1ミリの穴から広い画角で撮影できる。
映像はダイレクトにパソコンへ送られる仕組みだ。
玄関付近とエレベーターにも設置した。
これで自宅への出入りを監視できる。
7時半。
玄関に秘書と思われる女が現れた。
久保田という秘書だった。
一般的に国会議員は朝一番に所属政党本部に顔お出す。
アサイチのお勤めなどと言うらしい。
越野は自治党本部に行くだろう。
大急ぎで外に出て車を出した。
エンジンをかけっぱなしで外に十数台止まっている。
お互いに毎日のことだから、車種と色、ナンバーも把握しているだろう。
近くにいては悟られる。
設置したばかりのカメラで越野が乗車するタイミングを計り撮影しながら尾行を始めた。
潜入
刑事ドラマの尾行はカッコよくスリリングに描かれる。
だが実際には、見つからないように細心の注意で行うものである。
近づきすぎては見破られるため、一定の間隔で走り、信号待ちで差を詰め過ぎないように先読みしなくてはならない。
特に左折するときバックミラーに映って気づかれる場合が多い。
だから、しばしば見失うものである。
完全に見失ったらスピードを上げて直進すると6割程度の確率で見つけられる。
振り切られたらやり直せばいいのだ。
朝はトラックも多い。
大型車両は視界を塞ぐので、後ろにつけないように注意する。
方角が特定できたので、尾行を中断して流れに乗ってスピードを落とした。
自治党本部へ向かっているようだ。
最近は予約できるコインパーキングがあるので、あらかじめ行きそうな場所を押さえてあった。
路上駐車をしてレッカー移動されたらレッカー代と罰金を取られるのだから避けなくてはならない。
カーフェリーに潜入したときに、ターゲットが急遽降りたため車だけ運ばれてしまったケースさえあった。
もちろん警察沙汰は避けられなかったと聞いている。
また、FBIの尾行術では、ターゲットを追いかけない。
生きそうな場所をすべて押さえておいて、待ち伏せするのである。
こんな尾行をされたら逃げ切る術はないだろう。
幸田探偵事務所のスタッフは1人だけなので、現状では地道に調べるしかない。
依頼の性質から、応援を頼むのも難しい。
詰将棋のように先の先まで読み切って、行動しなくてはならなかった。
自治党本部へ入るため、設えておいたスーツに素早く着替えた。
今度は政治家秘書として入ることになっている。
協力者の 水主 昭衆議院議員 の私設秘書という肩書きである。
カードキーでロックを解除した。
本部の入り口には、若手議員や秘書などが並んで挨拶をしたり立ち話をしたりと賑やかである。
水主の本部内事務所があるため、まずはそこへ向かう。
しばらくまてば勉強会が始まるはずだ。
有識者から政策についてや、外交などの講義を受けるのである。
廊下を通る人が減ったタイミングを見計らって、ピンホールカメラを設置していく。
越野の本部事務所は7階にあった。
水首と同じフロアなので都合がいい。
入口を広く見渡せる小ホールに設置することができた。
エレベーターと入口ロビー付近にも取りつけた。
これで、朝夕の行動を把握できる。
極端に早かったり遅かったりしたら、その日の足取りを追えば何か掴める可能性がある。
余った時間でゴミの状況を調べる。
作業服に着替え、清掃を装ってゴミ収集所の位置を調べた。
シュレッダーゴミは、情報の宝庫である。
縦に細く切るタイプであれば、素人でも時間をかければ再現可能である。
だから、最近では縦横に切るクロスカットシュレッダーが普及している。
さらに安全性を高めるなら薬品で溶かす方法もある。
個人情報漏洩事件では、ごみ集積所の管理が杜撰だったり、個人情報や極秘などと書いた箱を放置していたりしたために起こっている。
党本部ともなれば、情報漏洩は致命的になりかねない。
だから、探偵としては宝探しのようなものである。
人間は、重要だと認識していても忙しさを理由にして手抜きをする。
調べればどこかに調査ポイントが隠れているはずである。
「やあ、水主さんとこの秘書だよね。
掃除もやらされるなんて、大変だな」
気さくに声をかけてきたのは後藤という秘書だった。
「ええ。
まあ、業者を入れるのも不安があるから秘書がやるのでしょう」
同い年くらいだと思ったのか、笑顔を向けて近づいてきた。
想定外だったが、アリバイ作りに利用できるかもしれない。
そして、地道に調査を擦すよりも友だちを作った方が話が早い。
「機密文書を集める場所に、鍵をかけてないようだけど」
「ああ、みんな忙しいからね。
あまりいいことじゃないけど、事件が起こったことはないよ。
公務員は危機管理が甘いからな」
「僕たちも公務員でしょ」
と言って笑い合った。
同じ境遇を語り、笑うことができればある程度フランクな関係を作ったと思っていい。
利害関係の繋がりよりも、仲間意識の繋がりを大事にするべきである。
尾行
10時半。
朝食兼勉強会終了後、公益社団法人 日本建築士会連合会が越野の事務所を訪れた。
このまま昼食を取るようである。
近所の寿司屋か料理屋から注文を取るのだろう。
一旦探偵事務所へ引き上げて、出直すことにした。
調査報告書を書きながら、仮説を立てていった。
今日は、国会も委員会もないので来客対応などを夕方までするだろう。
清水の話では、接待ゴルフやマージャンは日常的に行われている。
銀座のバーなどへ繰り出す日もあるだろう。
酒・金・女は男の三大欲求と言われる。
議員は聖職であるからこそ、かえって浮き彫りになってしまう。
役職は人を作る、というが理想像を演じてばかりもいられないのである。
15時半。
市議団が訪れた。
バッジの種類を見れば、越野の地元議員であることがわかる。
地方の諸問題を話し合うのだろう。
夜の会がある可能性もある。
やはり、議員を失脚させるほどのインパクトを求めるならば、夜の行動を洗うべきだろう。
念のため、報告書はクラウドで管理して、紙に印刷せずにおいた。
自分の身に何かあったときまで考えてのことである。
駐車場へ向かう。
幸田の車は苫田自動車製の軽ワゴンである。
色は黒。
探偵は風景であれ、の原則に従い大衆車の人気色を選んだ。
夜目立たない黒は調査に都合がいい。
黒の視認性はは白の半分になると言われている。
念のため議員が出入りすると言われている割烹、寿司屋、居酒屋は下調べしておいた。
議員たちと一緒に自治党本部事務所を出てきたところで、本部近くの路地に車を止めて歩いて玄関を確認しに行った。
車が5台玄関前に付けられていた。
越野が乗った車を確認すると、尾行を開始した。
進行方向から、寿司、割烹、飲み屋などメモしたデータと付き合せていく。
永田町から、赤坂方面へ進んでいく。
距離はほとんどなかった。
人通りが多いため、大通りで降りて歩いて行くようだ。
100メートルほど離れて車を停め、歩いて尾行する。
割烹の場所を突き止めた。
「飛燕」という一番人気の店である。
中までつけていく必要はない。
食事会ならば長くても2時間程度だろう。今6時だから8時くらいまで出入口を張ればいい。
交通量が多い道なので、一度コインパーキングに車を停めてくる。
すぐ発車できるよう月額契約をしているところを探した。
飛燕は瓦屋根の木戸がついた和風の造りである。
戸口から庭が見える。
植木はきれいに丸く刈られ、色とりどりの花が咲いている。
店構えからも、いかにも政治家御用達といった趣である。
8時を少し回ったころ、市議たちが出てきた。
中に越野の姿はない。
二次会でもなければ別々に出てくるのが自然だろう。
だが、なかなか姿を見せなかった。
もしかして、裏口から帰ったのだろうか。
しばらくすると、若い女性がやってきた。
一人である。
顔立ちが整った、スラリとした体形。
肩出しと短めのスカートで、浅黒い。
アイラインとつけまつ毛で、目の周りが黒く見えるほどである。
探偵の勘が、女を調べろと訴えた。
だが、どうやって。
秘密裏に調べなくてはならない。
聞き込みは極力避けたい。
しばらく待つと、タクシーが横付けになる。
そして、さっきの女が乗った。
その後にもう一台来る。
そして、越野が出てきた。
急いで車に滑り込んだ幸田は尾行を再開した。
つづく
了
この物語はフィクションです
「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。 不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。 人の心を動かすのは「物語」以外にありません。 心を打つ物語を発信する。 時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。