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まだコピーライターではない君へ。

社会人1年目の自分へ。どうも、今年30歳になった君です。

あの頃の君を振り返りつつ、君への手紙をここに贈りたいと思います。え、今、自分はどうしているかって?きっと想像もつかないでしょうが、君はプロの「コピーライター」になっています。しかも会社員を辞めてフリーランス。社会人になってからだいぶお酒の量は増えたものの、元気でやっていますよ。ちなみにビールでは、キリンの一番搾りが一番好きになります。東京暮らしも10年を超え、ありがたいことに知り合いや友達もそれなりにできました。あと、少しの恋も、ごくたまに。ヘタレは当時と相変わらずで、よくクヨクヨしたりもしていますが、日々自分にできることを頑張っています。

でも…あの時の君はそこまで胸躍らせていませんでしたね。

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2011年4月1日ー。

よく晴れた入社初日の朝、僕は京都にいた。スーツに身を包み、朝陽に包まれながら、会社への道を履きなれない革靴を鳴らして急ぐ。その顔がどこか険しかったのは、ただ単に眩しかったから、という理由だけでは全くなかった。

大学ではずっと野球に打ち込んでいた僕は3年の秋を迎え、就活をする時期に突入していた。東京に住んではいたものの、昔から親が好きだったこともあって、京都という土地にひときわ憧れがあった。大学受験も京都の大学を中心に受けたし、就職活動も何の縁もゆかりもないのに地銀を受けた。それくらい、あの街で日々を過ごしてみたかったのだ。

しかし僕らの代はちょうどいわゆる"就職氷河期"にあたる世代で、内定をもらうのはなかなか難しかった。おまけに就職には大して強くない、いや、むしろ弱い文学部。とはいえ、徐々に周りは就職先を決めていった。自分も何とかなるだろうと思いながらも、そこにはもう焦りしかなかった。

特に行きたい業界があるわけでもなく、かたっぱしから応募し、ことごとくお祈りをされる。そんな心の折れそうな4月の晴れたある日、僕は近所のヴィレッジヴァンガードにふらりと入った。特に用があるわけでも欲しいものがあるわけでもない。ただ何となく、面白いものでもないかなと思って寄ってみただけだった。

そこで僕は、一冊の分厚い冊子を目にする。表紙には、何やら綺麗な女性のビジュアルと『SKAT』の4文字が。何だ、これ。強烈な違和感と興味を覚えた。そっとページをめくる。そこには1行の文章がところ狭しと並んで書かれていた。しかも読んでみると、どれもこれもやたらと面白い。笑える。泣ける。次のページをめくる手は止まらなくなった。

「キャッチコピー」「宣伝会議賞」「コピーライター」知らない単語たちがどんどん目に入ってくる。「キャッチコピー」とはその名の通り、読んだ人の心を捉える目的があって書かれる言葉であるわけだが、自分にはどこかその本に"引っかかる"ものがあったのを覚えている。

家に帰ってもその引っかかりは消えない。気になって気になって、実家に帰った際にダメ元で親に頼んでみると、その講座、つまりコピーライター養成講座に行かせてもらえることになった。これは親が宣伝会議(講座を運営している会社)のことを知っていたことも大きい。最初に通ったのは基礎コース。決して安くはない値段のこの講座に通わなければ、僕のコピーライター人生はなかった。ここが大きなターニングポイントとなったのだ。

広告のことを何も知らなかった僕は、毎週土曜日の表参道で、クリエーティブやコミュニケーションの世界の面白さ、奥深さに惹かれた。そこには確かに自分の好奇心をそそるものがあった。書いたコピーの評価は、後にプロになるとはまったく思えないようなものだったけれど、9月に修了式を終えた時、はじめて明確に「コピーライターになりたい」と思った。しかし、もう大学4年の秋。新卒採用は、代理店はもちろん、制作会社の選考ですらもう終わっていた。せっかく広告を好きになったのに、これではコピーライターになれない。困った。

しかし、その時にはありがたいことに、ある印刷会社から営業として内定をもらっていた。それでもまだ僕はコピーライターに未練があったので、講座で名刺をいただいた講師など、プロの方に会いに行って諸々を相談してみることにした。まだアポの文章もロクに打てない大学生が、何とか約束を取り付けて時間を取ってもらう。結果として何人かの方にお会いすることができたものの、その方たちが口を揃えておっしゃったのは意外な一言だった。

「営業は一度やっておいた方がいいよ」

僕はコピーライターになりたい。なりたい。なりたい。なりたい。営業なんてできるわけない。やりたくない。でも、これだけプロのコピーライターがみんな言うのなら、きっとそこには理由があるんだろう。何の根拠もなくそう信じた僕は、就職留年も浪人もせずに、その会社に営業として入社することを決めた。そう、それが冒頭の京都にある会社だったわけだ(勤務地は東京だった)。

そうして営業として新卒入社してからも、コピーライターになりたいという想いは消えるどころか、むしろ強くなっていくばかりだった。あの社会人1年目の1日目の朝、さぁここからが本当のコピーライターへのスタートだ、なんとしても営業の経験を糧にしてプロになってやるぞ、くらいに思っていた。今となってはその会社には大変失礼なことをしてしまったなぁ、とも思ってはいるのだが。コピーライターを辞められない理由が、ここでできた。

自分には明らかに合わないことを自覚しつつも、営業として働く日々は思ったより楽しかった。毎日スーツを着て満員電車に揺られ、始業30分前には営業所へ。会議室のデスクを除菌ペーパーで拭き、コーヒーを飲みながら9時を迎える。電話が鳴れば、3コール以内にとれと教わった。

クライアントや社内とのやりとり、見積もりの作成、納品までのケア、その後のフォロー。一日の仕事が終われば先輩たちに連れられて、高架下の居酒屋へ。仕事の話をメインに、ときにはプライベートな話も混ぜ込みながら、グダグダと終電近くまでビールやハイボールを流し込む。その時間は決して自分にとっては無駄なものには感じられなかった。

社会人になってからも、コピーの講座には通い続けた。課題で書いたコピーや宣伝会議賞で応募したコピーをポートフォリオにまとめながら、制作会社に手当たり次第に郵送した。コピーライターを募集していようとしていまいと、だ。しかし、平日は仕事があって、その作業ができるのは土日しかない。転職に何の進展もない日が続くと、胃がキリキリと傷んだ。誇張なく、なかなか眠れない夜も正直あった。あの時のつらさというか、先の見えない不安はなかなかキツいものだった。今あれを超える苦痛はなかなかないのでは、と思う。まぁ、今更比べようもないものではあるけれど。

それでもコピーライターに「なる」という想いは消えなかった。「なりたいな」でも「なれたらいいな」でもなく「なる」。デザイナーに手伝ってもらって、ビジュアルつきの広告も公募に出すようにもなった。コピーの神様にその尋常ならぬしつこさは届いたようで、社会人2年目の半ばごろ、ついにある制作会社でコピーライターとしての内定を得ることができた。一般的には難しいと言われる未経験からの転職だ。みんなが「おめでとう」と言ってくれた。めちゃくちゃにうれしかったのを覚えている。

その後も細々と、ではあるが、コピーライターを続けることができ、ありがたいことに公募で賞をいただくこともできた。様々なクライアントやツールを制作させてもらい、ついには昨年、会社を辞めてフリーランスにまでなってしまった。気づけば、京都のあの朝からこんなところにまで歩いてきた。

今回こうして社会人1年目を振り返ってみると、自分の場合はどちらかというとつらく感じる時間が多かった。うまくいかない現実に振り回されて、必死で抗うようにもがくしかなかった。でもその時の経験が、今の自分を力強く支えてくれていることも多いと感じている。

遠回りに見えたあの道は、実は一番の近道だったのかもしれない。

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社会人1年目の自分へ。

今の君は、頑張ったときやクライアントが喜んでくれたとき、
いつにも増してお酒がおいしく感じられる、そんな仕事を見つけたよ。

そして、その仕事を心から楽しんでいるよ。よかったな。

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