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映画や小説について、僕や僕らの世代が思うこと

このマガジン(「小説とかドラマとか映画とか」)を読み返してみると、映画の見方や小説の読み方などについて、僕はいろんなことを書いちゃっています。例えば…

※    この後いっぱいリンクが示されていますが、いちいちクリック/タップして読んでいただかなくても大丈夫です(若い世代の使い方が僕らには気持ち悪い「大丈夫」という言葉を、ここではわざと使ってみました)。タイトルを見て、もし気になったものがあったら、その投稿だけ読んでみてください。

カメラの動きを意識して映画を観るともっと楽しめるよ

とか、ネタバレ映画評のほうが良いってほんと?

とか、『映画を早送りで観る人たち』を読んで呆然と立ち尽くした

とか、ハッピーエンドにしないでほしい

とか、伏線を回収しない終わり方のほうが好きだ

とか、オープン・エンディングを糾弾するよりも大切なことがある

とか、主人公が共感の持てない人物であっても全く問題がない

とか、大事なのは設定のリアリズムではなく進行のリアリズムだ

とか、「癒やし」「泣ける」「実話に基づく」を謳う映画は避けている

とか、洋画の邦題の付け方はもうちょっと考えてほしい

とか、読書は著者と読者の真剣勝負であり、読者と著者のめぐりあいである

とか…。

変わった見方、歪んだ鑑賞の仕方ばかり書いているように思われる方もおられるかもしれませんが、僕に近い世代の方だと、僕の見方/読み方に共感してくれる方もそこそこおられるのは事実です。

いや、いずれにしても、別に「これが正しい鑑賞の仕方だ!」とか、「お前らは分かっていない。俺が教えてやる!」なんてことを言うつもりは全くありません。

ただ、自分の鑑賞の仕方、自分の感じ方は、最近主流のそれらと随分食い違ってしまっているんだなと、時々愕然とするんです。

人々の見方、読み方が変わってくると、作り手は当然それに合わせた、そこを狙った作品作りをしがちだから、そうなると、これは、この先映画もテレビドラマも小説も、根本的にその本質が変わってくるのかもしれんなあ、と思うのです。

そうすると、僕が大好きだった映画や小説は、僕とは違う角度から、全く別の見方/読み方で評価されない限り、歴史に残らず消えて行くのかな?と思うわけです。そう思うと少し淋しいのも事実です。

ただ、その一方で、本当にそうだろうか?という気もしないわけではありません。

例えば 19世紀に書かれた小説であれば、名著と言われる作品であっても、今読むとなんか違うな、のめり込めないなと思うことがあったり、一世を風靡したヌーベルバーグの映画なんかでも、今見るとなんだかかったるいなと感じたりもするんですが、それでもしっかり歴史に残っていて、いまだに少なくない人たちに繰り返し鑑賞されています。

僕が僕の見方/読み方で大好きだった映画や小説は、そんな風に残るんでしょうか?

問題は変化のスピードのような気もします。世の中の移り変わりがある程度連続的で、あくまで徐々に徐々にであったから、いにしえの作品も生き延びられたのではないかと。

でも、21世紀の映画や小説について言えば、僕らと下の世代との間であまりに感性が食い違ってしまったために、その下の世代の人たちが逐一否定してしまって、その結果、例えば“伏線を回収できていない”作品や“共感を持てない人物が主人公の”物語などは、全部見事に駆逐されて、消えて行くんじゃないかという気さえします。

そうならないでほしいな。

僕らも若い人たちの感じ方を全面否定したりしないので、「はー、昔の人たちはそんな感じ方をしてそんな風に捉えていたんだ」と鷹揚に構えて、横目で見ながら置いておいてほしいのです。世の中にいろんな見方、感じ方があったほうが絶対良いですから。

そして、僕らはやっぱり僕らの感じ方でものを言って行きます。でも、それは決して若い人たちを否定するためではありません。

ただ、ひょっとしたら 100年後ぐらいに、僕らの見方を再評価してくれる誰かが現れるかもしれん、現れたら良いなあと、そんなことは時々考えます。

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