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「お客様は神さま」問題とHSP
お守りとしての言葉が人を傷つける
HSP(Highly Sensitive Person)、繊細で感受性の高い人を表す言葉はここ2.3年で誰もが知る言葉になりました。
最近、これに関してSNSで目にとまったエピソードにこんなものがあります。
新入社員として入ってきた女の子を、教育係として指導している女性がいました。こんなご時世なので傷つけないよう割れ物にさわるように、言動に注意して接していたけれどあまりに勤務態度が悪いので、「このようにした方が社会人として、きっとあなたのためになるよ。」と優しく諌めると、「私、HSPなので傷つきました。今後そういうことは言わないように、気をつけてください。」というようなことを言われて、これではコミュニケーションどころではない、どうしろというの?というものでした。
かくいう自分も、少なからずHSPの気質があって「HSP」という言葉と概念を知ったことと、それが世間に広く知られていくことで生きやすくなった者のうちの一人です。
このエピソードを読んだ時に、過去に何気なく「自分HSPだからさ」と発した言葉が自分のお守りとしての役割を通り越して、相手に「気遣ってよ。」という圧力をかける凶器になっていたのではないか、とふと思いました。HSPという言葉に限らずこういうことって結構あるよなと思ったので、反省もこめて深堀りしてみました。
この世はグラデーション
HSPというコトバに限らず、人間の個性を分類するたくさんの言葉と概念が生み出され認知され広く受け入れられる世の中になってきました。
一昔前は、自分の中のマイノリティーな部分は恥ずかしいものとして隠されてきたけれど、最近は自分を特別な存在にする材料として、強く主張する人が増えたようにも思います。
繊細な人/鈍感な人、センスがいい/悪い、陽キャ/陰キャなど。ついつい0/100の二元論で人間という存在を考えてしまうけれど、全てはパラメータのようなものでそれぞれの"その時の"個体値があるだけで、「ここからは繊細な人、ここからは鈍感な人」なんて一般化出来るようなものじゃない。人間は歳をとり、変化する生き物なのだからなおさら。
「私は〇〇だけど、あの人はそうではない。」という二元論の奥には、自己重要感を満たしたいという気持ちと、自分だけは特別でありたいという思いがあるようにも感じます。この世はグラデーション。同じ感受性の人、同じ見方でこの世界を見ている人なんて一人もいなくて、最初からみんな特別な存在なのに。
少し前に流行ったSEKAI NO OWARIの「Habit」や紫 今の「凡人様」がこんなにたくさんの人に聞かれたのも、個性史上主義時代への反骨精神みたいなものが人間の心の奥底にあるからかもしれません。とてもいい歌なので、ぜひ聞いてみてください。オススメです。
「お客様は神さま」問題とHSP
「お客様は神さま」という言葉があります。サービスを提供する側がこういう心持ちで仕事をすることは、とても素晴らしくて素敵なことだと思いますが、客が店側に「自分のことを神さまのように扱え」と要求するのは筋違いだし厚かましいにも程があるとも思います。
これと同じことを、やってはいないか。
世間や社会が「人間には感受性や共感能力の差があって生きづらい思いをしている人がいる」ことを認知して、気を遣うことはとても愛のある素晴らしいこと。
けれど、当事者が「私は繊細です。傷つきやすいです。気遣ってください。」と主張しだしたらそれは、果たして弱者なのか?傲慢で自己愛が肥大化してしまってはいないでしょうか。
改めて、自分のマイノリティーな部分や生きづらさを感じるような特性に関して、
・相手にも少なからずそのような要素は必ずあること
・生きづらさや悩みは誰でも何かしら持っていること
・自分だけが特別な存在なのではないということ
という視点を忘れずにいたいなと思います。
読んでいただいて、ありがとうございました!
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