見出し画像

悲劇のヒーローでありたいという欲求



善意の奥にも「満たしたい感情」がある


必要以上に頑張ったり、他人の仕事まで奪って自己犠牲的に「いい人」を演じてしまうこと
がよくあります。
本当は、楽をしたいし辛いのは嫌なのに、ついつい自分にとって不幸な方/辛い方/損な役回りを選んでしまうことってありませんか?

世のため人のために身を削って働くことこそ、素晴らしいことだと日本では美談のように語られ、自己犠牲信仰のようなものがあるようにも感じます。

ただ、人間の「どんなに清く正しい行い」や「どんな善意」の奥にも必ず満たしたい感情があるといいます。

今回は、自身の中にあった「悲劇のヒーローでありたいという欲求」=英雄願望について深堀りしてみました。

悲劇のヒーローでありたいという欲求


昔から、「怪我により包帯を巻いて登校してきた同級生が、クラスのみんなに注目されているところ」や、「みんなのために居残りや残業をしている仲間が、感謝され心配されているところ」を見ると、胸がざわざわとして嫉妬のような、ドス黒い感情が湧くことを感じていました。

「悲劇のヒーローへの憧れ」、「悲劇のヒーローでありたいという欲求」です。

深堀っていくと、長男である自分はそれまで親の愛情を一身に受けていたのに弟や妹ができて、"両親を取られた、もう愛して貰えなくなった"と勘違いをしたように思います。

・「もっと自分を見てほしい、構ってほしい」という悲しさと怒りがあったのだけれど、「お兄ちゃんなんだから」という一言に感情を心の奥に押し込しこめていい子を演じた

・いい子にしているのに、両親は自分ではなくて、まだまだ小さくて手の掛かる「弱くて何も出来ない」弟たちばかりを気にかけている。悔しい。悲しい。

・だから、みんなに心配され注目されるような状況を作り出すためにしたくもない自己犠牲をして、弱くて不幸なフリをし続けていた。

このような観念を持っていることに、気付きました。

人生のパターンから抜ける


未消化な、イケないものと蓋をして気付かないふりをした感情は、開放されるのを求めて、何度も何度も無意識的に似たような体験を人生に引き寄せるといいます。

認知行動療法では、条件反射的に無意識にしている行動や浮かんでくる感情の一つ一つを観察し、棚卸しをして意識にあげていくこと。そして、そこから意識的にどんな行動をしていくか決定していくことが大切だとされています。

自分自身、長い年月をかけて身につけてきたクセですから一朝一夕で改善されるということはありませんが、ゆっくりとこれまでの人生のパターンから抜け出しつつあるように感じています。

自分を犠牲にして、他人に尽くしてしまう優しいひとはどこでもよく見かけます。もしかしたら、自分のように幼少期に心に同じような傷を負った同志なのかもな、とも思います。

同じようなことで、悩んでいる人の何かの気付きになれば幸いです。
読んでいただきありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?