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知的権威の形骸化をどう抑え、学問はどう機能するべきで、その種の改善は個人とどういう関係にあるのかについて

2020-12-005

文系域での知的権威の言動の内容が、過去の理論に対する盲信なり、近代枠組みの外に出てない類の捉え直しなりに留まるから、

ポジショントークや冤罪的非難の側面を意図せずとも持ってしまってる肯定否定が、権威の有する影響力を備えてるだけの話でしかなくて、負う根拠の十分でないものを負わされる社会状況が改善されない、

少なくとも、いらぬ飛躍に対し彼らの負ってる責任が果たされてない(いらぬ飛躍をむしろ生んだり流通させてるケースへのその可能性低減努力や自責も疑わしいのに、権益は得てる)のだろうし、


肩書きの有する影響力と肩書きに期待される実力(対飛躍の能力)との間にギャップ(形骸状態)が生じてる原因として、

文系域での検討能力にいらぬ上限を与えるこれまでの教育
(文系域での対飛躍の能力に対する評価が的を外したままの振り分け)があり、その教育(と評価体系)が前提にしてる世界標準の知性や倫理を縛ってる近代パラダイムがある、という構造でしょう。

(場の代替不可能な要素を埋没させているいないで知性や倫理は、構造化や割り振りは評価されるべきでないかと疑います。)



通用性の広狭の判定精度が低い(その場で問われてる差異を過不足なく取り出せていないという、場の性質把握の深浅問題)から、
特殊性(限定通用物)を普遍的(通用が行き渡ってる)と取り違えたあげく、肯定否定が上のような実質を欠く事態となるわけで、

通用が限定的な状態を、行き渡ってる状態へと持ってく(レベルの検討)能力が機能してれば、

個々具体(個々の特殊性)の差異から、それらを参考に抽象次元へと一旦遡り、
引き受けざるを得ない類の具体化条件(抽象物が置かれる場の、代替可能な要素を削ぎ落としてく処理を経てなお残ってるものとしての固有性)を付し直したという内容の、

規準形(及び、抽象と具体の関係構造全体)を踏まえた肯定否定も期待できるだろうに、

同種の他との共通要素の捨象アプローチを埋没させる近代パラダイムの中にいる限り(学校の先生が教えてくれなかったからできないといった類の言い訳含む)は、
文系域での抽象化や具体化条件割り出しが、ひいては、その能力が阻害を受けてる形であり続ける以上、

形骸権威の弊害を抑えるには、
知性や倫理が現在置かれてる、文系域では代替不可能な要素が埋没してしまう(確定性の高低に扱い差がないなど)枠組みを、埋没させない枠組みに更新する必要があると捉えるべきでしょう。

(認識も存在もより確からしいものが取って代わる運動性の上に成り立っていて、
文理の違いはその運動性への限定の仕方が、同種の他との共通要素捨象から成る次元の付与か、差異要素捨象から成る次元の付与かの違い、

この理解をもって学問の体系を捉え直す事が、抽象と具体の行き来から成るところの歴史性に見られる、確からしさと偏りの蓄積作用に対し、
蓄積を実質の詰まったものにするという機能を、その不全回避状態を学問に可能にするのでないかと期待します。)



代替不可能な固有性を取り出せない有り様は、理想なり自身なり他の何らかの主題を具体化する作業が、いらぬ限界を負ってる

(例えば、無限性に対する限定化作用を、無限性が置かれる場の個性の反映と言える加工のみに抑えてる形ではないのに、
つまり、過剰に割り引いてるのに無限性を実質としても尊重してる事になるとはとても思えません)状態を意味し、

せっかく何らかの形式に長けてたり相性が良くても、本人がどう思ってようとそれに関して振り回されてる上に、尊重できてるとも言えない、

少なくとも、場の個性を損なわないように形式や帰結を組み上げる事ができてるとは言えない(管理者ポジションとしては責任を果たせてない)わけです。


フェアを越えて他者を助ける、つまり、アンフェアな願いまで叶えてあげる事で分捕り確定(いらぬ非とその責任の発生)を幇助する(分捕り合戦の外に連れ出してはいない)よりも、

救済行為の引き受ける役回り(引き受けてなく見えるケース含む)であれ帰結であれ、場の個性に帰属させる、
例えば、フェア化(場の代替不可能な固有性に即した割り振りへの支持)を働きかける事で、選抜精度を上げてもらい、
悩み苦しみに際する取り上げ価値の見出し(その人の選抜原理としての内在性)から過大過小を排する

(反応を局面と乖離させない方針で臨む対自我や対文化、ひいては対多様性をもって、差異への大騒ぎや見て見ぬ振りを抑えてもらう)方が実質的な救済や尊重と見なせるとして、それは対自己でも言えるでしょうし、

フェア主体だけから成るレースの結果には受容に値するだけの確からしさがあると期待できるように、

社会を構成するフェア主体の割り合いが高い程、その社会の場の性質として立ち上がってるもの
(割り振りの原理となる需給事情など)には、体系やそれが負わせてくるものの根拠に据えるだけの確からしさがある(据える事で理不尽さを抑えられる)と期待できる為、

自他へのフェア化働きかけこそが自分を尊重し助けてる事になるはずです。

そして、そこにはフェアアンフェアを区別せずに保障する近代権利観はじめ、近代パラダイム(近代人な処理センス)からの脱却(先の枠組み更新)働きかけ

(差異への大騒ぎや見て見ぬ振りに相当する部分の反映領域を、いらぬ飛躍や不当な不利益回避なり利得と見なしてもらう、
見なせてない類の情報取り扱いや多様性確保に、実質の有無差異を取り出せないセンスや形骸性を見出してもらう、という非妥当性や不当性に対する感度や抽象度の引き上げなど)も含まれてるし、

近代パラダイム内にいる人がそのまま留まろうとしても、理想を抽出したり過不足なく割り引く事が枠組みレベルで阻害されてる事情で、理想と現実を排安易にバランスさせた実質ある根拠が示される事はないと捉えましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。