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政治がひいては社会が宗教の為にこうなってる、という最近のトピックを踏まえて(千葉雅也さんの思考様式への疑念を踏まえたツイートの修正版を付記)

2022-7-004

社会が資本主義の為にこうなってるとか、宗教の為にこうなってる、といった話よりも、
社会が既存の教育の為にこうなってる、という話の方が先立つべきと考えます。
前者に関する解釈が表層的な水準(内実の確からしさの差異に関係なく、表層形で断罪する思考様式)に留まるのも既存の教育に原因があるからです。


歴史性を抽象と具体の行き来と捉えて(例えば、仮説や言葉の変容などから)、
抽象化具体化が、何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない条件の割り出し、これらの最大限化
(有限の与件性の下での通用領域最大化、という選ぶに値する状態に持って行ってる)の意味で精度が最大化されてるなら、その時の歴史の表層形は肯定されると解し、

社会の表層形に対してもこの視点を持ちましょう。
この時、理系的局面では同種の他との差異要素の捨象を用いた抽象化具体化が、文系的局面では同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化や具体化が取られる事で、精度最大化が可能になるとすると、

後者捨象(内実を確からしくする働き)を養成しない既存教育は、選ぶに値する歴史を紡げない人(通用の行き渡ってる状態を保持しつつの表層形変転として論理を捉えると、
文系的局面で選ぶに値する論理を紡げない人でもある)を作ってるとも言えます。



社会の具体化条件の精度は、フェアを越えては自他を助けない需給方針を、経済においても宗教においてもそれ以外においても、採用してる人が増える程、最大化に近づくと推測します
(場の疑似でない固有性に着目無視を合致させてる状態をフェアと規定すれば、それは具体化精度を最大化させてる振る舞いを意味するので)。

その場合、市場や民主制は、アンフェア(場と着目無視とが乖離してる状態)な個々事情が場の性質(場の割り振り原理)に反映されてる程度について、
何も保証しない為、それらが即、社会に選ぶに値する歴史を齎すとは言えない事になります。


また、信仰を無限存在と有限存在の関係正常化として見ると、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像
(内在的問題解決スタイルとしての自我や外在的問題解決スタイルとしての文化との付き合い方込み)は、
理想を割り引く程度が有限の与件性の下での最小となる具体化条件と言えますから、

その主体像でない信仰は、無限存在を過剰に割り引いてる形であって形骸化と見なせます。
(より確からしいものが取って代わる運動性を内容とする無限性が、自身たるべく、
有限性を、さらには、その無限性が阻害なく反映された帰結としての有限性形態を、フィードバック対象として要請してる形は、先の歴史観をさらに遡ったものであると想像します。)

この構造は経済に対しても、分業の集積全体と個人の有限性との関係として言えるのでないかと推測してます。
なので、フェアや上の主体像を、それらに必要な後者捨象を、文系的局面での具体化精度最大化と結び付けてる教育に替えるよう、
教育者に(個人や社会の歴史の紡ぎ方を改善すべく)求めていくべきと考えます。




(以下は、千葉雅也さんの思考様式に対する疑念を踏まえたツイートを、まとめサイトへの投稿用に修正したもの)


文系的局面で理系的論理を持ち出すのは不当な合理化を生じさせるため止めましょう的な話をせっかく持ち出しても、
(内在や外在の)特殊性を同種の他との共通要素の捨象に十分にさらす事で、振る舞いをそれがそれである限り引き受けざるを得ないものだけから成ってる状態
(存在に即した振る舞い)に持ってく処理を経てないものまでをも通す為に、持ち出してる形(リバタリアン型)であったなら、

内実が確からしい場合どんな表層形だろうと肯定される社会(表層形断罪の乗り越え)に向かう上での、不当合理と共にネックと思います。


局面(例えば、余裕の有無)等の場の性質との合致問題(具体化の精度問題)と無関係に、形式なり形態なりを肯定否定するのを繰り返さないよう、
対象の肯定基準の中に、その場が持たざるを得ないものだけから成ってる事をもって場の有り様を肯定する、という要素を含めましょう。

対内在(例えば、対身体性)でも、上で言ってる処理(自身に帰属してないものを帰属してるものとして扱ってる可能性をできるだけ潰す処理)を、
負わせる負わされるに値するもの(限定通用的な都合ではないもの)と見なせる為の条件と位置付けましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。