コンサル一年目が受けるすごい研修| 『コンサル一年目が学ぶこと』
部下育成についてときどき意見交換する現場の方がおすすめしていたのを見て、『コンサル一年目が学ぶこと』を読んでみました。
私も著者と同じ会社に新卒で入ったので、本書は「読む」のではなく、「追体験」できるはず。と勝手に解釈したうえで、人材育成担当者として本書の内容から感じたことを書いてみます。
待ってくれる上司
本書を追体験していて一番共感したというか、「ああ、たしかにそうだったなあ」と、当時お世話になった上司の顔が浮かんできたのは、こんな場面たちです。
本書が思い出させてくれたのは、「待ってくれる」あるいは「時間をかけてくれる」上司の存在でした。
コンサルティング会社というと、ものすごいスピード感のなかで仕事をしているイメージがあるかもしれません。それは確かにそうなのですが、部下育成においては、それとは別の時間軸があったような気がします。
もちろん、部下であった当時の私が、「待ってくれる」「時間をかけてくれる」などと、感謝や敬意を含んだ心持ちでその時間を過ごしていたかというと、100%そういうわけではありませんでした。素直な心情としては、「できるまで逃してくれないな…」でしょうか。
いまは立場が変わって、上司の側の心情が理解できるようになったり、また、人材育成担当者として育成を生業とするようになったことで、「待ってくれる」「時間をかけてくれる」ことの大変さや大切さが強く立ち上がってきます。
育成に対する冷静と情熱
コンサルティング会社において、忙しいなかでも上司が部下育成に時間を割く理由とは一体なんなのでしょう? その上司が「優しい」から、あるいは「熱心」だからでしょうか?
《そうまでしても、一年目のコンサルタン トに議事録を書けるようになってほしかった》というのは、一見、その上司個人の「熱意」と読み取ることができそうです。しかし、私はこんなふうに読みました。
上司にはこういった「理解」あるいは「割り切り」があるのではないか、と今は思います。それも、その上司「個人」としてだけではなく、コンサルティング会社という「組織」として。
コンサルティング会社という玉手箱
上司「個人」、あるいは、コンサルティング会社という「組織」のレベルにおいて、育成に対する「理解」または「割り切り」があるのではないか、という仮説を考えてみるために、「コンサルティング会社では一体どんなことを身につけて(身につけさせて)いるのか?」という問いを考えてみます。
そう、コンサルティング会社に《何か特別な方法論》や《何かすごい裏ワザテクニック》があるわけではないのです。そこにあるのは、近くの本屋で売っていて、誰もが手に取ることのできる《とても基礎的な方法論》でしかないのです。
ちなみに、私が《とても基礎的な方法論》を体感した本は、『考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則』です。「やべー、今まで悩んでたこと、全部ここに書いてあるな」と感じたのを、いまでも強烈に覚えています。
基本的な誤解
基礎や基本というと、研修のタイトルに(「上級編」などと並んで)「基本編」とついていたり、部下育成についての会話においても「基本的なことができない」などと使います。
実は、私はこの言葉遣いにいつも違和感を感じています。基礎や基本という言葉に、「易しいこと」「簡単なこと」(≒「すぐにできるはずのこと」)という、無意識の含意がなされているのではないか、と。
基礎と基本について、人材育成(学校教育)の観点から説明したこちらの記事においても、「易しいこと」「簡単なこと」(≒「すぐにできるはずのこと」)といったニュアンスはいっさい読み取れません。
むしろその逆で、《繰り返し学習することにより身に付き》、すなわち、繰り返し学習しなければ身に付かない、すぐにできるわけではない、と言っているわけです。
そう、基礎や基本というのは、とても大切なことであるのと同時に、本人が「ひとりで」「すぐに」できるわけではないのです。そこには、「ひとりで」「すぐに」の逆、すなわち、「他者」と「時間」が必要なのです。
「待ってくれる」「時間をかけてくれる」上司というのは、部下が基礎や基本を身につけるために、「時間」を提供してくれる「他者」なのです。
壁打ち相手としての上司
上司は、「時間」だけを提供してくれるわけではありません。
ここではロジック・ツリーが例として挙げられていますが、それに限らず、人がなにかを身につけるというプロセスにおいては、「自分でやってみる」「やった結果に対して、(すでにそれができる人としての)他者がフィードバックする」「フィードバックを受けて、自分でやってみる」という、自己と他者の間での、無限のキャッチボールが必要です。
本書で紹介されている、そして私が出会った、コンサルティング会社の上司は、単に「待ってくれる」「時間をかけてくれる」だけでなく、その時間のなかで、「見て」「声をかける」ということをしています。そこまでして初めて、基礎や基本というものが身につくということを、上司個人として、あるいはコンサルティング会社という組織として、理解しているのではないかと思います。
育てる側が襟を正す
本書は、《コンサル一年目が学ぶこと》を自分でも学びたいと思っている、「部下」に向けた一冊です。もしくは、部下の育成に悩んでいる、コンサルティング会社以外で働く「上司」が手に取る一冊かもしれません。
もし、本書を手にした「上司」が、コンサルティング会社には《何か特別な方法論》や《何かすごい裏ワザテクニック》があって、自分の会社でも《コンサル一年目で受けられるような研修》を部下にやってくれたら、自分の仕事がもっと楽になるのにな、と考えているとしたら、本書の終盤にある《師匠を見つける》というセクションをあらためて読んでみてほしいです。
こういった言葉が、《師匠を見つける》というタイトルのもとに、「部下」に向けて書かれているわけです。
「上司」であるあなたは、《いっしょに仕事をする人》として、部下から選ばれるでしょうか。
《人格的に、能力的に、この人だと思う人》として、部下から見られているでしょうか。
《言語化できない暗黙知》を、時間をかけて、言語に変換して、部下に伝えているでしょうか。
《技術のほかに、独自の美学や哲学》を持ち合わせているでしょうか。
部下が《一年目には、徹底的にそういう人のそばにいる必要》があるとしたときに、《そういう人》たりえているでしょうか。
コンサルティング会社にいて良かったこと
私の経歴を話すと、「コンサルティング会社にいて良かったことは何ですか?」と聞かれることがあります(特に学生さんや若手から)。
《何か特別な方法論》や《何かすごい裏ワザテクニック》を期待しているのかな、と邪推しつつ、いつもこう答えます。
「『コンサル流』とか『外資コンサルの』といった本のタイトルやキャッチコピーに惑わされなくなったことですかね。中身をちゃんと見れば、コンサルティング会社かどうかに関係なく、どこでも必要なことだな、と落ち着いて見れる気がします」
就活のときの業界研究を除けば、「コンサルの」と謳った本を買ったのは、実は本書が初めてかもしれません。
そう、「コンサルの」と謳った本に、あまり良い印象を持っていなかった、というか、それを理由にあえて手に取る(タイトルに釣られる)必要はないかな、と感じていたのは確かです。「中身をちゃんと見れば、コンサルティング会社かどうかに関係なく、どこでも必要なこと」だからです。そういう意味で、本書があとがきでしっかりとその点に触れて、「コンサルの」という意味合いを冷静に相対化していたのは好感が持てました。
手順書ではなくリスト
そしてもうひとつ、このあとがきが重要だと思うのが、本書を《普遍的に役立つスキルのリスト、それぞれの日々の仕事のなかで学び、磨いていくべきスキルのリスト》というように、身につけるための手順ではなく、身につけるべきことの《リスト》と定義していることです。そして、そのリストの内容は、研修という現場の「外」ではなく、《日々の仕事のなか》という現場の「中」で身につけていくものだとしているところです。
ビジネス書をはじめとする「本」というのは、習得(これを読めばできるようになる)を謳っていても、実際のところは、習得を保証するところの「手順書」(このとおりやればできる)にはなっておらず、習得すべきことの「リスト」に過ぎないことがほとんです。
なぜかと言うと、これまで書いてきたとおり、習得のためには「他者」が必要だからです。本単体では、手順書たりえません。習得のための「他者」の筆頭は、現場の「中」にいる「上司」です。(研修という現場の「外」にいる講師や人材育成担当者は、あくまでその「上司」を支援する立ち位置だと思っています)
著者と同じ会社にコンサルタントとして入社して、いまは人材育成担当者として育成を生業にしている私が、本書を「読む」のではなく、「追体験」して思い出したのは、現場の「中」において、「待って」「時間をかけて」「見て」「声をかけ」てくれる、習得のための「他者」として振る舞う上司の存在でした。
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