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秋葉の山にルーツを探る

あなたふと 秋葉の山にまし坐せる この日の本の 火防ぎの神

 秋葉山は、静岡県浜松市天竜区春野町領家に位置し赤石山脈の南端を占める標高八六六mの山である。山頂近くには、火防(ひぶせ)の神である秋葉大権現の後身である秋葉山本宮秋葉神社があり、秋葉山は同神社の俗称ともなっている。秋葉山本宮秋葉神社は、東海随一の霊山との呼び声も名高い秋葉山を神体山と仰ぎ、創建は和銅二(西暦七〇九)年と伝えられている。中世には「秋葉大権現」と称して、その御神徳は国中に知れわたり、朝廷からは正一位の神階を賜り、著名な武将からも数多くの名刀が寄進された。更に江戸時代には全国に秋葉講が結成され、街道は参詣者で賑わった。明治以前は秋葉大権現として秋葉社と秋葉寺の両方が存在する両部神道であった。しかし、明治初めの神仏分離・廃仏毀釈によって、秋葉山は神社と寺院とに分離されることとなった。現在は、秋葉神社上社は秋葉山の山頂にあり、曹洞宗の秋葉寺は秋葉山の中腹の杉平にある。

 また電気街で有名な東京都千代田区・台東区の秋葉原の地名由来としても知られている。明治二年一二月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生した。

 AKB48は女性アイドルグループで、「ヘビーローテーション」や「恋するフォーチュンクッキー」などの楽曲がヒットし、紅白歌合戦出場も果たしている。AKB48のAKBは、ホームグラウンドであるAKB48劇場が位置する秋葉原(あきはばら)または、秋葉原の俗称の秋葉(あきば)に由来するものである。48の由来は、プロデューサーである秋元康氏いわく「『おにゃんこ』とか、何か単語が入ると、古くなるので、商品開発番号みたいな無機質なものにしたい。」とのことである。このような理由からAKB48という名称が生まれたわけであるが、秋元康氏は秋葉山とのつながりについては特に言及していない。

 秋元康氏から頼まれたわけではないが、秋葉山にAKB48のルーツがあるのではないかとの仮説を立て、下社から上社まで表参道を登った。

 下社駐車場に着き、まず腹ごしらえ。腹が減っては何とかの如く、準備を万端にする。長く続く階段を上りきると鬱蒼と繁る杉林の中下社があらわれる。下社に手を合わせ旅路の安全を祈願する。ふと社殿横を見ると巨大な「十能」や「火箸」がある。説明文には『日本一の十能・火箸 「十能」(じゅうのう)とは炭を運ぶ道具のこと。日本最大。火の神である秋葉山に技術向上、作業安全を祈願して奉納された逸品です。』と記載されている。後でインターネットでも調べてみると、火の神様への信仰で昔から鉄鋼業の崇敬者が多く、鉄の工芸品が数多く寄進された。巨大な理由は、秋葉山に奉納するということから、職人が大きさや精緻さで技術を競ったからとのことであった。AKB48で競うといえば、選抜総選挙が思い浮かぶ。AKB48のファンは、願いを込め、信仰するメンバーに対して投票する。得票数が多ければ選抜メンバーに選出され、メンバーの夢実現が一歩進む。職人は大きさや精緻さで信仰心を体現し、ファンは投票数で信仰心を体現する。表層的には全く異なることをやっているが、深層的には同質の行動ともとれる。

下社「十能火箸」十能・火箸

 下社を後にし、いよいよ上社まで表参道を登る。その前に案内板を見る。下社から上社まで四.八km、一二〇分。秋葉山表参道ウォーキングブックによると、登山口にある九里橋の標高が一〇六mであるため、平均一五.八%の勾配を登ることになるが、どんな感じか予想が出来ない。インターネットでの事前情報では「ゆるやかな勾配が続く」と記載されていたから、大丈夫だろう。しかし、九里橋を過ぎ、石畳に入ると、いきなりの急勾配。先が思いやられる。石畳の前方左にはおしゃれなカフェがある。帰りによることにしようと考えた瞬間、午後四時閉店の文字が視界に入る。午後四時までにはとても戻れそうもない。今回はあきらめることにする。今日は運がないのだろう。

 三の鳥居跡を過ぎると、海抜二〇〇米の目印がある。そういえば、事前のインターネット情報で、大体海抜一〇〇米おきに目印があると書いてあった。上社までは永い道のりだが海抜一〇〇米ごとの目印は目先の目標になる。

 表参道を進むが、山の中のため景色は見えない。海抜一〇〇米ごとの目印、次の海抜三〇〇米の目印は全く見えない。急勾配が続く中一歩ずつ歩を進める。道は曲がりくねり、時には九十九折りになる。九十九折りは大変助かる。勾配が幾分和らぐのと、目先の目標が出来るからだ。海抜一〇〇米ごとの目印とあわせて、良い目標になった。目標と言えば、AKB48では毎年「選抜総選挙」が開催され、楽曲を歌うメンバーをファン投票で決めている。最上位に進出できなくても、下位は下位なりにポジションや役割を与えられるため、メンバーにとって良い目標になっている。

 表参道には、ずっと常夜灯が設置されている。秋葉山表参道ウォーキングブックによると『秋葉詣での旅人で賑わった時代には、夜になればロウソクか菜種油による灯明が点され、人々の足元を照らしていたのだろうと思われます。』と記載されており、常夜灯に浪漫を感じる。AKB48のファンはサイリウムといわれるスティックライトを振って応援をします。AKB48のグループカラーはピンクであり、応援する際はピンクのサイリウムを振る。振ると同時にAKB48を照らす。その行為は秋葉山の常夜灯と同じく、信仰と同義と言える。

常夜灯

常夜灯


 そうこうしているうちに、標高五三〇米にある富士見茶屋跡に着く。説明書きの看板には『ここは表参道の三十町目。往時は富士山をはじめ遠州灘や天竜川、そして犬居の町並みまで見渡せる景勝地でしたので、数多くの秋葉道者が店に立ち寄ってくださいました。しかし昭和十八年三月の大火で家屋が全焼、茶屋としての歴史の幕を閉じました。その後住居を再建して暮らし続けるも、寄る年波には勝てず昭和六十二年に山を下りることになりました。いまは、思い出の詰まった母屋を残すのみ。 平成二十七年十一月八日 内山淑子 記 九十九歳』と記載されている。昭和の時代まで賑わっていたことに少し感動。世が世なら八兵衛もここで団子を食べていたのかと想像する。

富士見茶屋跡

富士見茶屋跡


 標高五九〇米にある送電線鉄塔に着くと休憩している登山者が居る。話を聞くと、ここから富士山が見えるらしい。目を凝らしても、カメラのズームを一〇〇倍にしても見えない。今日は霞んでいるのだ。富士山を見るには一月が最適らしい。自信はないがまた来ることにしよう。山の中をひたすら歩みを進めてきたが、景色が見えるのはここだけらしい。少し気分が晴れ、疲れが幾分和らいだ。景色は見たものにしか分からない。山頂の方が標高が高く広く見渡すことは出来るが、山頂は自動車でも行くことは出来る。しかし送電線鉄塔付近は、自分の足で表参道を登らない限り見ることが出来ない景色である。AKB48第4回選抜総選挙で第一位となった大島優子は「本当にこの景色をもう一度見たかったんです。」とスピーチした。一度は頂点に立ち、その後陥落し、再度頂点に立った時の言葉である。それはもう一度その景色を見るために、どんな困難な道のりでも本気で努力しようと思わせる壮大な景色だと思われる。表参道中唯一景色を見ることが出来る送電線鉄塔付近の絶景は、大島優子同様、自分の足で登った者にしか分からない。

 歩みを進めると、標高七一五米、秋葉山秋葉寺に着く。登山道と比較すると広々している。入り口には仁王門があり、阿形と吽形が迎えてくれた。境内に入ると更に広々としており、休憩をしている方が何人かいた。秋葉山表参道ウォーキングブックによると、『秋葉山頂にあった秋葉寺は、明治に入り、政府の神仏分離令により廃寺となり、秋葉三尺坊大権現の御真躰は袋井の「可睡斎」へ遷座されましたが、秋葉山秋葉寺は明治一三年に復寺されました。本堂に「聖観世音菩薩」を安置、真殿に「秋葉三尺坊大権現」を祀っています。』とのこと。秋葉山といえば、山頂にある上社が有名であり、何回か訪れたことがあるが、歴史ある秋葉寺について初めて知見を得た。

秋葉寺

秋葉寺


 秋葉寺を過ぎ、更に進むと、表参道の真ん中に大きな杉の木が立っている。秋葉山表参道ウォーキングブックによると「天狗杉」と言うそうだ。幹周りは、子供六人が手を繋いでようやく届くほどの太さで、参拝者の行く手を阻んでいる。参拝者は天狗杉の左右どちらかを迂回しなければならない。大げさに言えば人生の分かれ道か。意味もなく、また迷うことなく、左側を通った。これが今後の人生にどう影響するのかは現在では分からない。良い方向に進むことを信じよう。AKB48仲川遙香は二〇一二年にインドネシアの首都ジャカルタにある姉妹グループJKT48へ移籍した。仲川は「秋元先生からJKT48移籍という話が上がって私は真っ先に行きたいと思いました。自らジャカルタへ行って可能性を試したいと志願しました。ジャカルタは日本から遠いけど私はどこにいってもかわりません!」と日本のファンへ伝えていた。その後仲川は、JKT48で成功を収め、JKT48への移籍は、人生の分岐点だったと語った。天狗杉の分かれ道も、JKT48も本人にとっては大きな分岐点である。

 立派な秋葉神社随身門を通り、振り向き坂を過ぎると、ついに上社に到着した。約二時間の歩みであった。山頂からは遠くまで景色を見渡すことが出来、天竜川、太平洋、エコパ、アクトタワー、浜名湖が一望できる。が、今日はあいにく霞んでおり見ることは出来なかった。運がないことを更に実感する。

 上社社殿の前には金色の鳥居が聳え立つ。横にある解説板によると、金色の鳥居は「幸福の鳥居といい、『昔、秋葉山に正一位の勅額を掲げた金銅の鳥居が建っていた。秋葉大神は火難を始め諸厄諸病の難を免れて幸福を恵む厄除開運の神徳がある。神徳は神意に沿った行為に依って授かると信ぜられた。幸福を象徴する黄金で造った鳥居を奉納して神にあやかり人々に幸福があたえられるよう冀ったのである。混迷の世に、人々の幸福を望み、昔に傚い黄金の幸福の鳥居を建てたのである。』と記されている。幸福の鳥居を潜ったことで、自分にも幸福が訪れることを期待する。

幸福の鳥居

幸福の鳥居


 鳥居右にはジュビロ磐田の大絵馬が奉納されている。毎年ジュビロ磐田の選手がシーズン前に祈願に訪れるほか、ジュビロ磐田にあやかり将来のサッカー選手を目指すサッカー少年も参拝に来るようである。

 最後は上社社殿への参拝。階段を登るとついに到着した。ここまでの長くつらい歩みが報われるような感覚である。手を合わせ旅の安全に感謝した。

秋葉山本宮

秋葉山本宮


 山頂でいただいた秋葉山のパンフレットによると『御祭神は、火之迦具土大神(ヒノカグツチノオオミカミ)と申し上げ、伊邪那岐・伊邪那美二柱の神の御子で火の主宰神である。火の光は時間的、空間的に人間の活動範囲を拡め、その熱は人間に冬の寒さも克服させ、食生活を豊かにし、そのエネルギーは工業・科学の源になると共に、その威力は総ての罪穢れを祓い去るのである。光と熱と強いエネルギーを与えられたこの神は、文化科学の生みの親として畏敬され、崇められて来たのである。』と記されている。他の神話を読んでも、「伊邪那岐と伊邪那美二柱の間に生まれた」となっており、伊邪那岐と伊邪那美二柱の神が重要な役割を果たしています。AKB48の公式ファンクラブは「二本柱の会」という名称である。AKB48は専用劇場を保有する稀なアイドルグループです。AKB48劇場は、東京都千代田区外神田(秋葉原電気街)のドン・キホーテ秋葉原店8階に所在するAKB48専用のライブハウスである。劇場内前方には、左右に大きな柱が2本ある。耐震構造の観点からこの柱は不可欠なため、撤去されずに残っている。柱によってステージが左側四分の一、中央四分の二、右側四分の一の三つに分断されている。そのため、最前列を除くと客席のどの位置からもステージ全体を一望することができない。この柱の内側の面は観覧の支障となる柱を少しでも目立たなくするための工夫として鏡張りとなっている。この2本の柱はAKB48の公式ファンクラブだった「柱の会」と、二〇一一年一二月に発足した新たな公式ファンクラブ「二本柱の会」の名称の由来ともなっている。二本柱の会公式ホームページによれば『以前のオフィシャルファンクラブは「柱の会」には、「劇場のシンボルである柱の元に集う会」という意味合いがありました。この「二本柱の会」という名称は、”劇場を支えている二本柱のようにファンのみなさんでAKB48を支えて頂きたい”、”二本の柱は劇場にとって無くてはならない存在であり、AKB48にとってファンのみなさんも無くてはならない存在である”という思いが込められております。』と記載されています。劇場の構造物としての二本柱、AKB48を支えるファンの象徴としての二本柱、AKB48にとっても、伊邪那岐・伊邪那美の二本柱同様、重要な役割を果たしている。

 秋葉山は、長く果てしない登山道を登ることで達成感を得て、それが強い信仰心につながっていると思う。AKB48のメンバーもつらい下積みを経て、芸能界の坂道を登り、輝かしいステージへと進んでいる。今回の登山では、秋葉山とAKB48の関係における決定的な証拠は見つからなかった。そのため登山とAKB48のエピソードを絡めて話を進めた。秋葉山にはAKB48のルーツは無いのかも知れないが、どこかにあるとを信じていよう。

長く険しい登山道

長く険しい登山道

追記

 今回の登山とは直接関係ないが、AKB48の楽曲「心のプラカード」のプロモーションビデオの撮影が春野中学校で行われたり、同じく楽曲「願い事の持ち腐れ」のミュージックビデオの撮影が鏡山小学校で行われたことがあり、天竜区と関係が深い。AKB48は秋葉山とのつながりについて言及してはいないが、プロモーションビデオやミュージックビデオの撮影地に選ばれていることから、AKB48は秋葉山やその周辺と繋がっているのだろう。

文献

(一)秋葉山ホームページ

(二)秋葉山本宮秋葉神社パンフレット

(三)秋葉山表参道ウォーキングガイドブック「秋葉山表参道を歩く」 春野観光協会

(四)フリー百科事典「ウィキペディア」

(五)AKB48の戦略! 田原総一郎 二〇一三年 ㈱アスコム

(六)AKB48の経済学 田中秀臣 二〇一〇年 朝日新聞出版


天竜文芸第9号(浜松市天竜区 天竜区文芸誌発行事業実行委員会)に掲載されたものを再掲しました。

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