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知識を得る悲しさとクマ

論理思考を勉強している。
ストーリーテリングやUXデザインなどの影響で、最近は「論理」よりも「感情」を重視する傾向があるみたいだけど、さまざまな場面で議論が噛み合わない様子を見るかぎり、議論している人の「論理思考力の欠如」がその根本問題なのではないかとぼくは目をつけている。そんなわけで、すくなくとも自分の論理思考力だけは鍛えておこうと思って何冊か本をパラパラとめくっている(めくっているだけで読んでいないという説もある)。

感情優位の世界だと議論するのかなり厳しい

世の中が感情優位になれば感情系の脳みそをフル稼働させて議論が進められることになるが、感情で議論を進めればそれは議論というよりケンカになる。殴り合いのケンカなら疲れ果ててケンカも終わるかもしれないし、一緒に暮らしている人との議論なら、これ以上はやめておこうというストッパーが機能するかもしれない。でもネット上の議論は赤の他人同士のケンカで疲れ知らずでつづいていくし、ケンカは別の誰かが引き継いでいく。

自分だけは論理的だと思ってしまう

とはいえ、論理系優位の世界でも、議論は実にややこしい。
人は大抵、自分だけは「論理的に話している」と思っていて、聞き手が鼻水をたらしながら「わかりまへん。もうすこし論理的に話してくだはい」と言ってくると怒る。確かに怒りたくもなるわけだけど、「果たして自分は論理的なのか?」と振り返るほうが怒るよりも有意義かもしれない。

感情系優位でも論理系優位でもどちらでも議論は難しいのだが、技術として伸ばせるとしたら論理系かなあという仮説を今は持っているので論理の勉強をしている。

わかると何かを否定したくなる

ここで話は変わるが、SNSを見ていると「(何かを)図解しました」というツイートがちょいちょい現れる。ぼくもイラストレーターの端くれとして、持っている技術を「図解」に活かせないものだろうかと考えており、どういうふうに図解が描かれているかを見ている。しかしあれこれ見ているうちに、「図解とはなにか?」がわからなくなってきている。というか、論理思考が何かがわかってきた過程で、誰かが描いた図解が「論理的でないこと」に気づいて否定したくなってきているのだ…。

わかるとはなにか?

よく言われることだが、「わかる」とは「分ける」に由来する(らしい)。わかるとは、目の前にいるクマがクマだと認識できること。目の前にいる「茶色い生き物」が熊だとわかるには、熊についての情報を持っていなければならない。熊についての情報を持っていれば、目の前の茶色い生き物が熊かどうかを判別できる。
目の前の生き物から得る情報と、既存の知識を照らし合わせて、その情報が同じだと認識した瞬間に、「クマだ!」と「わかる」のだ。

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ところでこの「目の前の生物がクマだとわかっている人」の横に、鼻水をたらした坊主がいて「なんだろ〜この生物は。クワガタかな?茶色いし」と言っている状況を想像してみてほしい。坊主の頭の中には「茶色い生き物だから、クワガタである」という因果関係ができあがりかけている。しかしクマだとわかっている人からすれば、「クワガタなわけないだろ!アホかお前は〜!鼻水もたれてるしやな〜」という怒りがわいてくる。要は鼻水をたらした坊主を「否定」したくなるのだ。否定も無意味にカッコでくくるで〜。

わかることの悲劇

ここに、わかることの悲劇がひそんでいると言えます。
わかることによって、わかっていない人を否定したくなるのです。
わかることは、ある意味で不幸なのです。わかることによって、わかっていなかった状態と切り分けられて、そこに断絶が生まれるからです。
その結果、「わからないほうが幸せ」という状況が生まれます。わかったあとに、やっぱ今のナシ!わからないほうに戻りたい、と思っても戻れない。

ここでの「幸せ」の定義

ここで「ちょっと意味がわからない」という人がいると思うので補足します。

世の中の秀才の多くは、自分は「知識を得ることで幸せになる」と思っているはずです(決めつけ)。勉強することによって地位を得たり、マネーをゲッツできるというメリットを享受できると思っているとそういう認識になると思います。地位があったりマネーをゲッツできること自体を「幸せ」とする認識を持っていれば「わからないほうが幸せ」はおかしいかもしれません。でもここでぼくがいっている幸せは、他人と調和できている状態のことで、調和できないのがここでいう「ある意味での不幸」です。
要するに、知識を得ることの結果で自分だけを考慮すればそこには「メリットしかない=幸せ」になりますが、周囲の人間関係までも含めて結果を見たらどうでしょうか。知識を得ることで「周りにいた友達と見える景色が変わってしまったとしたらどうか=不幸?」という問題です。景色が変わったり、認識が周りにいる人とずれていく。それって悲しいことだと思いませんか?ぼくは悲しいと思います。かつての友達を「こいつ小学校のときと同じバカのままじゃん…」と思う悲しさ。または、かつての友達から、「こいつ、高校生のときと同じバカのままじゃん」と思われてるかもという恐怖。

補足の補足

でも、新しい知識を得ようとする人がいないと世の中は破滅に向かっていくだろうということもうっすらわかっています。

「自分だけがわかっている場合」の困難

目の前の茶色い生物がクマだとわかったら、クマなりの対応をすべきですが、クワガタだと思っている鼻たれ坊主は、クマなりの対応ができないでぼーっとしている。その結果、坊主はクマに襲われ、生き残るのはクマだとわかったほうの人間かもしれない。しかし、もし100人中99人が「目の前にいる生き物はクワガタです。だから大丈夫です」と自信を持って断言したとき、残りの1人であるあなたは「いやいやクマですって!だから、逃げるなり身をひそめるなりしないとヤバイって!」と言い切ることができるでしょうか?叫んだらあなたから襲われるかもしれませんけど。

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民主主義国家なら

ともかく、知識を得て「わかった」と思ったとき、人は何かを否定したくなるちゅうような話ですね(今回、図を入れてみましたが、図が入ることによってわかりにくさが増してますかね)。
民主主義国家なら、みんなで知識をブラッシュアップしないと、100人中99人がクマをクワガタだと勘違いしかねないということです。そうならないように、なるべく多くの人が、クマをクマだと「わかる」ような社会にしないとまずいと思っています。しかし「なんかめんどくさいので独裁でヨロ」という気持ちはよくわかります。

(…また論理的じゃない文章書いちゃったなあと思いつつアップ!)

よくわからなかったとか、わかったとか、わかるようでわからないとか論理がつながってないとか、感想などあればツイートでもこっそり教えるでもいいねでも、何でも反応していただけるとうれしいです。

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参考文献

参考文献は『思考・論理・分析』(波頭亮・著/産能大出版部)

↑UXデザイナーのくぼみさんのオススメ本で読んだ本。「思考とは何か?」をいきなり考え始めていて、「おいおいそこからか〜…」と思いつつ読んだらとても良い本でした。クマの話も出てきます。ぼくはこの本を理解したような気になって参考にしたつもりでいますが、もしかしたら全然違うことが書いてあるかもしれないので興味ある方は読んでみてください。
https://note.com/kuboasa/n/n5f5e31185414

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