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少女と人骨

ついこの間まで同じクラスにいた同級生が突然亡くなった。
彼女が死んだ夜、母は私を呼び寄せ正座をさせ、その事実を告げた。
古くなって擦り切れた畳の上で、「人間は死んだら灰になる」と、私は教わった。
当時はまだ死というものがまだ上手く理解できなかったけれど、少なくとも生きている私の世界と対極の世界にあるもので関係がない、と思っていた。

数日後、彼女の葬儀に参列した。
薄暗い葬儀場の粛々とした空気の冷たさと菊の花の白さ、そして脇に飾られていた持ち主を失った制服を「なにかの抜け殻のようだ」と、子供ながらに感じたのを今でも覚えている。
彼女の顔も名前も忘れてしまったのに。
献花の一瞬に見えた光景だけが、写真のように今も脳裏に焼き付いている。

小学生になる頃には、家で時々預かる白い箱の中身が人骨であることを理解し始めた。
「新仏さんが来たからご挨拶してから学校に行きなさい」と、母は言った。
その頃まだ私は下町の片隅の、貧しく粗末な寺に住んでいて、彼らは玄関脇の窓の前の棚の上に無造作に置かれていた。

その白い箱は背に朝日を受け、その逆光で出来た黒い影は、合掌する私の小さな手の上にこぼれ落ちた。

私は学んだ。
死は生の対極ではなく一部として存在し、この影のように常に私に忍び寄るものなのだと。
この影にのまれた時、それが死ぬ時で、日がさせば影ができるように私は死に包囲されているのだと。

その新仏たちは数日後、彼らが行くべきしかるべきところへと運ばれていったが、私はやはり彼らの生前の顔も名前も性別も最後まで知らなかった。
ただ私の目前に現れ、出会い、そしてどこかへ消えていった。雑踏ですれ違う人と変わりない。ただ通り過ぎていくものだった。
しかし彼らは私に、人は死を迎えれば菊の花で彩られ白い箱に納められ、そしてその内忘れられるのだということを教えた。
その後、今に至るまでもう何人もの人骨や遺影を相手にしているが、その度に私は彼らと初対面であり、そしてしばらくして忘れてしまう。
命にも記憶にも、全てに限りがあるのだ。
私は無数の人骨達からそんな事実を読みとったような気がする。

日常の片鱗に死が見える孤独。
幼稚園の頃は快活で男子を泣かせるような子供だったが、私は全く喋らない小学生になった。
誰とも理解し合えないことが悲しかったから。
この孤独を理解されようと努力すればするほどに「可愛くない」と罵られた。
自分の感情の全てを放棄して笑えば「よく出来た子」だと褒められた。

当時の私にとっては学校と家庭が世界のすべてで、その両者は破綻していた。孤独は私に根を張り始めた。大人達は私をただの内気な子供と見ただろう。本当は違う。ただ脅えていたのだ。死の影と、言葉と、暴力に。

世界の全てが怖くなった。何もかもが攻撃的に見えてきた。
できるだけ人の目に触れないように存在感を薄めて生きた。
「お前なんか何をしても駄目だ」という言葉が呪いのように私の中に充満した。「自分のことなど最後、家族のことが最優先だ」と、よく殴られた。仏前には「我が身命を惜しまず」という経文がいつも掲げられていた。
毎日泣きながら家族と夕食を囲み、読経の声で目を覚ます。
朝が来なければいいのにと思いながら眠り、1日の始まりは絶望した。苦痛をこれ以上感じなくて済むように、誰に何も言われても何も感じない心が育った。そして私のそういう態度は、私の周りの人々を不幸にした。

その頃からだ。徐々に芽生え始めた希死念慮から逃げるために、貪るように本を読み始めたのは。

休み時間や昼休みはいつも一人だったから、本を読んでいればそこに「一人で座って居てもいい理由」ができて都合がよかった。惨めな自分を正当化できた。
逆に本を忘れた日はいつも恐怖でパニックを起こす寸前だった。
学校では図書室の本を片端から必死に読み、家に帰れば中学入試の勉強に没頭した。勉強をしている間は誰にも叱られずに済んだし、何かに傷つけられることもなかった。
なによりこんな惨めな自分が嫌だった。こんな小さく貧しく汚い部屋で死んで行くのはもっと嫌だった。あの白い箱に自分も収められいつか忘れられるのだ。その事自体は怖くはなかったが、情けないと思った。私は生きていたかった。

何れにせよ他に救われる道もなかった。私は一層本と勉強に溺れ、そして患った。有名進学塾での成績はトップクラスだったが、精神を病み、記憶を失くし、家族をも殺そうとした私はそこを辞めた。
全て辞めたら少しは楽になるかと思ったけれど、両親の憐憫の視線を浴びて生きていかなければならないことの方が、それでも生きていくことよりはるかに苦しいということを直に知った。

結局どういう訳か縁があって、近所で個人塾を経営していた西島先生に見出され私はあの進学校に招かれることになる。
入試の結果は次席だった。高額で有名だった授業料は全額免除された。
その時私は人生で始めて家族も含めた他人を喜ばせることが出来たのだが、もう何の感慨もなかった。ただ自分には逃げ場がないのだと自覚させられただけだ。自分を含んだ何もかもを諦めてこの現実を生きるしかないのだと。

生きていくために勉強し、休み時間には図書室の本を読みあさって、それをひたすら繰り返し、愛される存在としての自分は最後まで認められないまま、私は大学生になった。

それでも悪い人生ではなかったと思っていた。
若干残念な人格形成が行われてしまったものの、子供の頃からいつも人の顔色ばかり窺って生きて来たから、場の空気や他人の感情に敏感になった。
自分に自信があるように、振舞うことに慣れた。相手の気持ちが自分の方を向いていないなら、そっと身を引くことも覚えた。
もう不容易に誰かを傷つけなくても生きていけるようになった。私欲なく人に優しく出来ることがこんなに幸せだなんて、それまで私は思ってもいなかった。

「こういう態度って人生に対する『諦め』ですかね?」と問うたら、
「いや、それは『諦め』ではなく君の『可能性』が広がったんだよ」と、あの頃の福島先生は言った。

でも私はその本質には気がつかなかった。
自分をないがしろにし続けた代償。今になって思えば、そんな風に何もかも分かったふりをして、冷めた態度をとっているならいつか全てを失うと、あの頃すでに原田さんは教えてくれていたのにな。

本当に大切なことに限って、いつも気がつけなくてごめんね。

だからあの夜も、こんな気持ちにはもう慣れたことだと思っていた。
自分よりも他人が傷ついていないかばかりを考えていた。
みんな自分より大切な人がいる、それが当然で、それで本当に良いと思っていた。幸せを心から願っていた気持ちには今も嘘はない。

いつものことだと自分を宥めすかし、私は電車を降り、三条大橋を渡り、帰宅するはずだった。
冷たい雨の夜だった。橋を渡るだけだからと傘もささずに歩いていた。
きっと不意に河原を見つめたのがいけなかった。
愛しい記憶が走馬灯のように蘇って、もう長い間忘れていた、あの影が不意に私を襲った。新仏に合わせた手に朝日の狭間からかつてこぼれ落ちた、それは懐かしい影だった。

雨に打たれてそのまま冷たくなれたら、それはそれとして幸せな結末だったのかもしれない。きっと取るに足らない無数の、人生の一瞬を抽出して、それを幸せだと言っていただろう。

でも、人を愛し、そして愛されていたせいで。

「生きたい」とまた願ってしまった。

朦朧とした意識の中、充電のほとんど無くなった携帯電話で、私は最後の電話をかけていた。

やっと気が付いた。
私は生きて、人に大切にされたかったのだ。
一方的に犠牲を払うのではなく互いに尊重しあい、幸せになりたいと。

泣いても良かったのだ。
怒っても良かったのだ。
仏に仕えるためにも、他人のためにも生きる必要もない。

自分のために命を使って、良かったのだ。

あの抜け殻の制服や、人骨たち、泣きすぎて味が分からなくなった夕食は今どこに居るのだろう。
きっと消えたのではなくこの世界の一部として存在している。
そしてあの日の私もあの影の中から、私を呼んでいるような気がする。

もうそろそろ、あなたを私は救えるだろうか。
「脅えなくていい」と、「生きていていい」と、手を差し伸べられるのだろうか。

死と生の狭間で、本当は「幸せになりたい」と泣いていた、

ちいさなちいさなあなたを。

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