「考える子」ではあったのか!?

皆様、こんばんは、お疲れ様です。yasuchinです。3日連続の投稿になります。1年ぶりの再開ですが飛ばしすぎかな…と思う一方、継続は何とやら…三日坊主を乗り越えられるか見ものです。

さて、今日はテーマ的には昨日の続きになるのかな?「考える」がまたまたテーマです。昨日は私の職歴からのお話でしたが、今日は私の幼き日のことをちょっとお話したいと思います。

その前に、今日のテーマを書くにあたり、ちょっといいお話を読ませていただいたので紹介しますね。

昨日の投稿で私が塾の講師をしていた経歴と当時の子どもたちに見事に打ちのめされた話をしました。この記事はそれに類するお話だったためご紹介させていただこうと思いました。経歴において塾の講師をしていたとはいえ、私は難しい話は苦手です。シンプルにわかりやすいのが好きです。この記事はとてもほっこりとして、でも「考える」意義を素直に書いてあり、シンプルだけどとても大事なことをお話してくださいました。ありがとうございます。

さて、では今日のテーマです。

「考える子」ではあったのか!?

昨日は、社会人1年目、塾の講師としての一発目に今まで全く「考える」ことをしてこなかった自分に気づかされたという話をさせて頂きました。ですが、生まれてからずっと「考える」ことをしなかったのか………??というと、そうでもなさそうです。思い返せば、先ほどの記事にもあったような幼少期の頃には少なからず好奇心とそれに付随して「考える」行動はセットで備わっていたように思います。

■ 私の「13」は「103」

おそらく幼稚園に通っていた頃でしょう。数字を覚え、ノートに1~10までの数字が書けるようになっていたと思います。世の中には10よりも大きい数があることを知り、その続きを誰かに教わったわけでもなく、どんどん書いていきました。

ただ…ちょっとね… 私の10より大きい数字は

「11」→「101」 「37」→「307」 といった表現でした。

皆さんお気づきの通り、それまで覚えた1~10を組み合わせ、音としての表現をそのまま数字で表すことで編み出したものでした。「11」(ジュウイチ)だから「10」と「1」で「101」……

なぜ??「101」ではダメなのか?「11」って何??すごく悩んだような気がします。幼き頭脳は本当にフル回転で考え続けました。でも誰も教えてはくれず時は流れ……小学校に入り算数の時間に位取りのことを学びます。十の位と一の位とかってやつです。ただ、当時の私にはその考え方が理解できませんでした。おそらく……くり上がりやくり下がりといった基本的な計算は、もう流れにまかせ「そういうもんだ」「それが当たり前だ」で過ぎ去っていったように思います。

さて、この幼少期の「そういうもんだ」で流してしまった私の疑問が解決するのはいつか……そう、それは情けないことに塾の講師になってからでした。塾の講師3年目ぐらいでしょうか…「N進数」という単元を子供たちに教える時です。世の中の一般的な数字の扱いは「10進数」で表されている。時計は「60進数」。PCなどプログラミング演算などは「2進数」。などなど、教える立場の私は大人といえど、そりゃもう予習段階で「???????」の連続でした。でも、私が「????」だったのが逆に良かったかもしれません。塾に来る子供達も当然初めて聞く内容で、世の中の数字は「10進数」が当たり前、「10進数」以外の表し方があるなんて……っと教える側も教わる側もお互い同じ目線で一緒に「考える」ことができた気がします。

世の中の当たり前を「考える」、その考えを一緒に共有し、新たな視点からの学びや知識の獲得によって、理解が深まる。

子どもたちには、そんな場が作られることを今でも望んでいます。

■ ぼくは写真に写りたいだけ…

もう一つ昔話を…

これも幼稚園時代のお話です。私の通っていた幼稚園は音楽教育に力を入れており、ピアノはもちろん、マーチングバンドもありました。園児はみんな、毎日のピアノレッスン、マーチングバンドの練習を頑張っていました。

年に1回、マーチングフェスティバルというものが市内の球場で行われ、練習の成果をお披露目しました。私を含め総勢170名前後の園児が参加していたように思います。

演奏が終わり、最後に先生方も含めみんなで記念撮影となりました。球場の広い駐車場を使って170名が横にずらっと4列ぐらいに並んでカメラを前に立ちました。真ん中よりも少し右寄りに立っていた私は…

「このままではマズい…カメラに入りきらない…」

っと多分こんなことを考えていたと思います。横4列にとはいえ、総勢170名です。1列あたり40名ほどは立っています。はるか彼方の三脚に設置された小さなカメラには到底自分は収まりきらない、絶対に入らない、良くても見切れてしまう…少しでも写るためには…

腰の部分に中太鼓を抱えた私は、左側の園児に少し被るかもしれない勢いで、上半身を左側に倒し、悪あがきのように遠くのカメラをのぞき込むような態勢をとりました。

現像されてきた写真を見ると、みんなビシッとカッコよく立っている中で一人だけ横に傾いている私がいました。大所帯でしたから見た目の大きさは小さいものでしたが、明らかに必死に写真に写ろうとする私がいました。

「なんであんなに離れていたのに……自分の横にまだ園児たちがいっぱいいるのにみんな写真に写れたのだろう…??」

「どうして、あの小さなカメラにみんな入りきるんだろう…??」

これまた、頭フル回転…でした。

この疑問もいずれ納得いくところとなるのですが、それまでは「そういうもんだ」「それが当たり前」といった流れに飲まれていきました。正しく納得いく理解に至るのはホントある程度大人になってからでした。

◆「考える子」が「諦める子」にならないために

昨日の投稿もそうですが、基本的に子どもたちは「考える」ことを嫌がりません。「勉強しなさい!」とか「成績がどうした」とか「いい学校に行け!」とか、そういうことは抜きにして、表に出さないだけで、身の回りのことや、世の中のこと、聞けばあらゆることに疑問を感じ、言われなくても毎日「考える」ことをしています。ただ、知らず知らずの内に世の中の「当たり前列車」に乗車して、スーッと流されて行っているだけ。当たり前列車に乗る前に周りの大人に尋ねても、常識的な回答しか言わなければ、幼い子供は「大人の言う通りに」と、表に出さないだけ口にしないだけで、いつの間にか気づかずに「それが当たり前」と「諦める子」になっているのかもしれません。怖いのは「諦めた」ことには気づいていないことがほとんどだということです。本来、「諦める」は意思をもって意識的に「諦める」ですが、今回の場合は「考えることをしたかった、考えたかったけどそのままスルーした」といった方が近いかもしれません。

子どもたちの何気ない疑問や考え、思いや発想にどれだけの大人が寄り添い一緒になって「考える」ことをしてくれるでしょう。

「当たり前」行きの列車に乗るのか、それとも鈍行で時間もかかるが誰も行ったことのない新駅を目指すのか、それは出発駅で右往左往する子どもたちを導く大人の責任なのかもしれません。

幼少期の私は「考える子」ではあったのかもしれませんが、やっぱりいつの間にか「当たり前」行きに乗ってしまったんでしょうね。知らないうちに…

では、今日はここまで。ありがとうございました。




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