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「未来を明確に定めれば、それは呪縛にもなりうる。」

未来という不確実で曖昧なものに対して、人生計画をねり、それに従って淡々とこなすことは、往々にしてある種の呪縛を生み出すきっかけになるものである。

さまざまな場面で人は問う。

「5年後、どうなっていると思いますか?」
「今後の人生プランを教えてください」と。

それに対し、人は待ってましたと言わんばかりに弁を振るう。

「部下を持ち、チームをまとめ、一つの事業に挑戦していると思う」
「30までに結婚をして、マイホームと車を買いたい」
「貯金を100万は最低貯めて、将来にそなえたい」と。

未来に対する計画が定まっている人の場合、その計画を達成するために、ただ行動を実行するのみであるため、寄り道をする必要もない。

他の人からも、未来がはっきりと決まっていて素晴らしいと称賛を受けることであろう。

しかしわたし個人としては、未来の計画を立てることにすこし懐疑的である。

計画をするということは、人生を定義づけるということ。定義をするということは、限定をすることだ。つまり、その定義をした途端に、それを達成するための行動をしなければならない。

逆にいうと、それ以外の行動や寄り道はしてはならないということにもなる。

つまりこれは、自分が立てた目標に対し、意固地になり、必ずやらねばならないという呪縛が発生しうる。その凝り固まった観念にとらわれ、また新たな苦しみが生まれゆく。

かつ、他に可能性があるかもしれない分野や領域に、いっさい足を踏み入れないことにもなってしまう。ようするに、自分の可能性もまた狭まってしまうことにもなりうるのである。

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それに計画を立て、寸分の狂いもなく、その計画を遂行できた試しは、一度としてあっただろうか。あくまで自分視点ではだが、一度としてなかったように思えるのである。

必ずアクシデントが起こり、計画は狂うものである。現に青年の時にたてた計画は、いまや跡形もなく散っていった。いや、むしろ狂ってこその計画なのかもしれぬ。

一体だれが、東日本大震災がくることを予測しただろうか。はたまた、今生きている現世で戦争が起きることを想像しただろうか。

あらゆる事象は計画を飲み込み、こっぱみじんに打ち砕く。

と、考えるならば、果たして未来への計画を立てる、つまり限定するということは、本当に正しいのであろうか。

もちろん、ビジョンを持つなというわけではない。なりたい自分像を持っておくことは、行動の指針にもなりうるため必要である。

空をゆっくりと流れて形を変えていく雲のように、もっとぼんやりでよいのだ。その時その時に応じて、自分の理想像は変わっていき、磨きがかかっていくものである。

寄り道こそが人生。むやみやたらに計画を立てるのも、また罪である。その時いだいた感情や直感を大切に、なりたい像に向かいながら、今を没頭して生きていければと思うのである。

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