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「そうだ、再出発の時だ。」

凍てついてしまった時を再び動かすのは、まぎれもなくむずかしいことだ。そう思うのは私だけだろうか。

私がこの場所を離れてずいぶんと時間が経った。6カ月もの間だ。最後に残したのは去年の暮れに書いたもの。いかんせん出がらしだったもので、ほとんど中身のない、ただの戯言をまき散らしてしまった。

しかし後悔はしていない。人間はいつも陽気ではいられないからだ。人が明るい感情しか持ち合わせていないとしたら、ずいぶんと退屈な道をたどることだろう。悲しみや辛さの中に楽しさがあるからこそ、人生はおもしろいものだ。

とにかく、久しぶりにこの場所に帰ってきた。なぜ戻ってきたのかと言われると、特に大きな理由があるわけでもない。ただ一つあるとするならば、私は書きたくなったからだ。この場所でだ。なにか特定のことを書きたいわけでもないが、湧き出てきた言葉を、ただここに置いていきたいのだ。もう一度書き留めておく、この場所でだ。

言葉が湧き出る瞬間というのはあまたあるが、私は自身に立ち返ったときが多い。

人が立ち返る時。それはいったいどんな時だろうか。何かに行きづまってどうしようもないとき、とんでもなく辛いとき、新たな試みを考えるとき。否。私にとっては、立ち返れる場所に足を伸ばしたときだ。その場所は、海。

海は癒しをくれる。よせては返す波の音が、耳の奥底でこだまする。その響きがなんとも心地よい。どんなに悩んでいたことも、すっぱりと洗い流してくれる。海を見ていると、心がゆっくりとなでおろされる。

しかしどこの海でも良いわけではない。私にとっての真の意味で立ち返る場所、それは由比ヶ浜。大切な友に出会ったのがここだったからかもしれない。完全に開けてるわけではなく、ある程度せばまりがあるからかもしれない。とかくここが好きなのだ。

由比ヶ浜の砂浜を歩いているといろんな発見がある。「HAPPY BIRTHDAY」と大きな文字で書いていたり、巨大な大木が流れ着いていたり、干からびた魚が打ち上げられていたり。時折タバコの吸殻やゴミを見つけて、人間の醜さを目の当たりにすることがあるが、だれがやったことなのかわからない以上、どうにもすることができない。

そんな中、ふっと視線を変えて海を見る。すると変わらず、波がざっと押しよせる。平常心ですべてを受け止めてくれるかのように。私はこの場所だからこそ、素直になれて、心の棚おろしができる。

だからだろうか。私はいつもこの海の前で、自分に立ち返る事ができる。そしていつも同じ問いを自身に投げかける。「今、前を向いて歩めているか」と。

ときどき路頭に迷ってしまう。このまま進んでいく道が、本当に合っているのか不安で仕方ない時がある。

未来という真っ暗闇のトンネルに向かって、私は歩みを進めている。これからなにが起こるかなんて、これっぽっちもわからない。その恐怖に足がすくみ、止まってしまう事がある。今この瞬間もそうかもしれない。

流行病にかかった時に特にそうだった。私はもうじき死ぬのかもしれないと。療養期間が終わっても、すぐに息が上がり、激しい動悸が襲いかかり、たえず頭が締めつけられた。なによりも、ぎゅっと鷲掴みにされたように、ひどい心臓の痛みがつづいたのが、ずいぶんとこたえた。

そのたびに命の灯火が消えかかっているのかもしれないと、大いなる不安に駆られていた。今でも発作は起きる。恐怖にさいなまれ、なにもかもの事が手付かずだった。

しかし負けるわけにはいかなかった。私にはどうしてもやらねばならぬことがある。この命に代えても、必ず成し遂げたいことがある。だれになにを言われようと、進まねばならぬ道がある。作家としてこの世界に文字を刻むことだ。

なぜ文字にこだわるのか。それは文字を残すことが、私が生きた証になるからだ。人は死んでも、人が紡いだ文字はずっと残り続ける。この世から捨てられない限り。亡くなった偉大な作家の本が今でも棚に並びつつづけている事、これがすべてを物語っている。

この場所もそうだ。湧き出てきた文字をおいていく場所。私の意思を刻む場所。私の存在証明となりうる場所。だからこそ、いつまでも止まっているわけにはいかないのだ。たとえ、なにがあったとしても。

少しずつ、小説の執筆活動も再開できている。もちろん波はあるが、順調に書き起こせている時もある。怖くて進めない時もあるが、一歩ずつ歩き出せている。それだけでも進歩しているのかもしれない。

そうだ、今こそ再出発の時だ。凍てついてしまった時を、温めにいくのだ。時間を動かそう、ゆっくりでいい。文字を紡ぎ、物語を作ろう。暗闇の先にある、希望をつかまえにいくのだ。私は私の道を歩み、今を生きるのだ。

それが私の人生だ。

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