見出し画像

「熱海にて(後編)」

その場にいる時は時間が過ぎゆく感覚というものを感じないが、いざ時計を確認すると何時間も経っている、そんな現象が時折目の前に現れることがある。

ここ数日においてはそれが顕著であった。熱海という街に来て、早くも5日が経ったのだ。ついこの前に宿の門を叩いたと思いきや、早くも荷物をまとめて立ち去らねばならぬ。ずっと続けばいいと思っている感覚とは裏腹に、無常にも時間というものは問答無用で待ってくれやしないのだ。

というわけで、沼津の拠点にて熱海後半戦の総括をしようと思う。

後半戦においては、「会話」と「日常」がキーワードであった。1つはとある会話をきっかけにはしご酒に出かけることになり、合計7時間ぶっ通しで話し続けたということ。

平日は基本仕事をしている。それはこの他拠点生活をしていく上でも変わりはないし、その行為を通さなければそもそもの生活がままならないからだ。なので、熱海に滞在していた時も基本的に昼は仕事をしていた。

仕事をしている最中は基本的にパソコンと向かい合っていることが多いので、何か用事がない限り誰とも喋ることはない。なので側からみると、とんでも無く無愛想で仏頂面な人間が黙って仕事をしているようにしか見えないのだろう。

そんな自分に対して話しかけてくれた人がいる。名を「べぇさん(渡辺さん)」という。「うずさん、熱海来て飲みましたか?飲み行きましょうよ。」ひょんなきっかけで飲みにいくことが決定した。当日はべぇさんの知り合いも一緒に来るとのことで3人で。


タイプが似ているもの同士が集まると、話が尽きない。お互いのテリトリーを踏み込みすぎることなく、相手の状況を踏まえた上で会話を成立させようとすることから、壊れることがない。もちろん会話がたまに途切れることはあるけれど、それは一時的な波のようなもの。

数ある話題の中でも「善意」がときに相手を苦しめる結果になるという話題が自分にとってはホットであった。どういうことかというと、熱海は先日土石流による被害があったのだ。

もちろん被害による復興作業が課題になってきたのだけれども、そこで問題の1つとなったのは送られてくる物資だそう。特に衣類・生鮮食品などは衛生面や食中毒の観点からNGなのだそうで、破棄する以外に道はない。これは少し考えたらわかるにもかかわらず、何かをしないといけないという悪霊に取り憑かれている故にとった行動ともいえる。

土石流が起こったのは事実なのだが、地震が起こって水道が止まっているわけでもなく、住まいが倒壊して寝床がないわけでもない。つまり、被害の程度は低いのである。何かしようと先立ちはするものの、その行動自体が仇となり、逆に相手を苦しめる結果にもなる。とすれば何もしないことの方が案外正しかったりするものだ。というような話をしながら、さまざまな話を広げていったわけで、長くなりすぎるからここでは割愛。

もう1つは、ありのままにその場所を受け入れること。

土日・平日問わず熱海に滞在していたこともあって、平日と休日における熱海の顔には多少のギャップが自分の中に生じた。というのも、一重にその平日の生活を知らなかったということもある。

現代人は、特定の切り取られた瞬間だけを見て、好奇心を湧かしがちである。つまりそれはSNS受けを狙えるような産物を見た瞬間であったり、有名どころに行った写真だけを見て、「とりあえずこの場所ならこれ」というような先入観を植え付けることでもある。そこに見えるものは氷山の一角にしか過ぎないわけであって、本当の姿ではない。

瞬間的に切り取られたものだけを体感しにいくことで、果たして旅に幸せを感じることができるのだろうか?ただそこに行った・体験したという事実だけが抜け殻のように存在するだけで、実態が伴っていない空っぽの世界な気もしている。

習慣化された事象の連続を体験することによって、幸せという概念は醸成されていく。その概念に彩りをつけるのは、朝に魚が焼ける香りが漂っているような「匂い」であり、晴・雨などの色であり、地元の人とのコミュニケーションである。

そういった手触り感のある実態を伴った生活に、見出せる価値というものがあるのだろうと思っている。

この記事が参加している募集

いただいた費用は書籍に使わせていただきます!