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私たちは、自由なのだろうか

引用:映画.com

先日『マイ・ジェネレーション ロンドンをぶっとばせ!』を観てきました。

60年代ロンドンを舞台に、“決まりごと”なんてクソくらえと奮起した若者たちによるポップ・カルチャーの誕生とヒーローたちの世界進出、そして新旧の文化の対立を描いた労働階級者たちの反逆ストーリー。過激で、衝動的。そんな当時の野心溢れる若者たちの勢いを焼き付けるように、黄・ピンク・紫と刺激の強い原色カラーで彩られたアートムービーで、カジュアルなドキュメンタリー番組を見ているような気分。「よし、映画を観るぞ!」と意気込まなくても気軽に観ることができました。

ストーリーテーラーの存在、そしてピックアップする目的を絞ることでとてもわかりやすく、そして端的に歴史を辿ることができるので、ロンドンカルチャーを触り程度しか知らないという人も安心。

なんといってもビートルズにザ・フー、ローリングストーンズ、アニマルズといったロックシーンを築いたレジェンドたちや、新しいモデルのスタイルを切り開いたツィギーにミニスカートの発案者であるアリー・クヮントら数々の著名人たちの肉声や過去の映像を通して、音楽・ファッション・アートの進化に迫る内容も見ごたえがあって、心をワクワクさせながら楽しめる1時間半でした。

個人的に髪型もリスペクトしている峰不二子のモデルといわれている女優兼歌姫のマリアンヌ・フェイスフルが何度もその麗しい姿を見せてくれたのがとても嬉しかったです。あの愛らしい瞳、見れば見るほど吸い込まれる!


モラルを守る旧世代と自分を貫く新世代

この作品のテーマは、若者による反逆心と、それゆえに切り開かれた今や60年代を代表するカルチャー。しかし、奥底に根強くあるものといえば、いわは新旧対決。

「男性とは紳士なスタイルを崩さず、常に威厳正しくあるべきだ」「女性はつつましく、しとやかにあるべきだ」そうモラルを教えられ、首元まで詰めたクラシカルな洋服をまとい、常に誰かのために生きてきた彼らを旧世代と呼ぶならば、今作のメインとなる今までの文化をぶっ壊しにかかる彼らのことを新世代と呼ぶことにしましょう。

好きな髪型をして、好きな服を着る。好きな言葉を好きなように叫び、遊び惚ける。「大人しく歩け」と言われば道を、「がむしゃらに走り抜ける」。それが新世代である今作の主人公たちのやり方でした。今では当然であること1つ1つが、当時は「はしたない」「それは男(女)らしくない」と言われているなんて、1992年生まれの筆者からは想像もつかないほど。特に好きな男性のタイプは髪の毛の長い人という私の好みなんて、当時こっぴどく怒られることになるのでしょう。

若者は一丸となり、立ち上がりました。“旧世代”という相手が、明確な「このままでは嫌だ」という標的がいたからこそ、彼らは新しい自分に出会いたいという欲が生まれ、他の誰でもなく“自分のために生きたい”と思うようになったのだと感じました。


私たちは今、「自由な世界」に生きている

私たちは、別に髪を長くしようが短くしようが、スカートを履こうがパンツを履こうが、楽器を持ってライブで暴れまわろうが、結婚をしようがしまいが、特に問題なく生きていけます。(暴動はできないかもしれないけれど)

金銭的には厳しいけれど、フリーターとして20代を過ごす人だって珍しくないし、仕事も選べる。もちろん自分好みの仕事を選ぶなら、それ相応の努力が必要だと常々思っていますが。

60年代を生きた若者たちのように、直接的に大人に憎まれ口を叩かれる機会は、まだあるとはいえ、確実に減っているとは思います。みんなお腹の底で何を思っていようが、聞こえないのだから意味がない。

私たちは、自由な世界に生きている。


私たちは、本当に自由なんだろうか?

物理的には咎められない世界だけれど、日本にいる人たちはどこかいつも域苦しさを感じている。日本が好きだという日本国民はいったいどれくらいいるのだろう。少なくとも私の周りは、“一番良い”と胸を張って言う人は残念ながらいませんでした。

けれど、どこかに住みたいというほんのりとした欲はあっても、「ここに行きたい」と出ていく者はごくごくわずか。それと同じで、「何かを変えたい」「何かをやってやりたい」と思う人もいるけれど、その何かができないという人も多いような印象を受けます。

知らずうちに、何かの制限を受けている人がいる。それはお金の問題もあるし、時間の問題もある。そうしなくちゃ“生きていけない”から。こちらの自分の印象を悪くしたくないから。実力がまだ足りないから。確実がないから。そうしなくちゃ“生きていけない”から。

それを“自分のために生きる”と捉えられるなら、それでも良い。しかし、60年代の若者が掲げた“自分のために生きる”とは、確実に違う。

私たちは、自由であるはずなのに、どうして自由じゃないんだろう


自分のために生きることが、私の自由だ

ビートルズは間違いなく世界に影響を与えたし、ロンドンのカルチャーを引っ張って行った偉大な存在であることに間違いはない。しかし、ビートルズがポップ・カルチャーを生んだのではなく、若者が一丸となって生み出したポップ・カルチャーがあったからこそビートルズが生まれた。これが、どういう意味かを、私たちは今一度考える必要があると思いました。

私たちが夢見るヒーローたちは、けして他人事じゃない。ただ、「やるか」「やらないか」で、そのヒーローが自分なのか他人なのかが決まるだけ。

派手なことをしでかす、世間から大きな注目を集めるだけが、ヒーローではないし、それが自由を象徴するわけでもない。

ただ私たちは、明確な標的が薄れてしまっているだけ。自由な今だからこそ、目に見えて制限を課す“何か”を、自分から見定めようとしなければ見つけられない時代なのだと思います。60年代の彼らが自己表現のできない“常識”に対して反逆したときのように、明確な常識は薄れてしまった。それはもう、言葉や態度では誰も表さずに、コソコソと蔓延していってしまっている。

好きなことを好きなようにしたいで叶えられるなら素晴らしいことだと思います。しかし、何かをしてやりたいという野望には、「これが嫌だから」「あれが納得いかないから」という気持ちの反動が、エネルギーとなっていることも間違いない。

抑制を感じながら文句を項垂れているだけでは、私たちはいつまで経っても自由にはなれないですよね。

世界がどうとか考えずとも、“自分のために生きる”ことができれば、私たちの世界はきっともっともっと、自由になれる。

見えない何かによる制限も、自分による制限も、自分でぶっとばすしかないということ。だからこそ、自分のために生きたいのです。

私たちの人生が終わるときに「私たちの時代はサイコーだよ」と言えるように。


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