柔能く剛を制す
梅田駅近くのバス乗降場に降り立つと、むわっとした熱気が僕を包んだ。18時過ぎだというのに太陽の余熱は収まる気配もない。
大阪に着いたらどのラーメン屋に行こう、と10店舗ほどリストアップした中で、僕は福島エリアの2店舗に目星をつけていた。9時間近い長旅は、めぼしいラーメン屋の選定には充分すぎる。
僕が最初に行こうと決めたラーメン屋は福島駅から歩いて行ける距離にある「燃えよ麺助」という店だった。福島駅は大阪駅から阪神本線で一駅のところにある。
それにしても、周りの人がみんな関西弁を話している!
道を行く人々、老若男女を問わず全員が関西弁を話している。もちろん、日本語であることには変わりないので彼らが話している内容は理解できる。
ただ、「こいつらは仲間じゃない」とぼんやり疎外感を抱くのだ。もし、海外だったらそんなことは思わないのだろう。ハナから自分が異国人で、現地人とは違う人種だと分かっているから。けれど、姿かたちは自分と何ら変わらない大阪人が、自分たちの常識の外にある関西弁を我が物顔で喋っている様を見せられると、どうしても違和感が拭えない。
ヨドバシカメラで涼をとり、歩道橋の暑さに辟易してすぐに電車に乗る。
福島駅から歩くこと数分。「麺助」の店の外の列に並ぶ。日本屈指の有名店だけあって、外待ちの人数も10人を越えている。東京にある他の有名店と違うのは、並んでいる人が関西弁を喋っていることだけ。
標準語で話せ。
なんとなくいつもと違うリズムに調子が狂う。もちろんこちらの勝手だとは百も承知だ。でも、その小さな違和感が徐々に増幅してイライラしてしまう。
どこかで「大阪人には負けねえからな」という対抗意識と防衛機制が働いているのだろう。「麺助」のラーメンを食べ終わった頃にはだいぶ疲れていた(ラーメン自体は過去トップクラスに美味しかった)。
もう一店舗、「烈止笑魚油 麺香房 三く」という有名店が近くにあるのでそちらに歩く。大通りから少し離れた裏路地に店を構える「三く」は、「麺助」とは打って変わって外待ち客もおらず、すんなり店内に入れた。
「いらっしゃいませ!こちらのラーメンは…」
そういえば、接客中の店員さんは関西人なのに標準語のイントネーションだな。
ラーメンの種類の説明を受けている間、そんなことを思った。
真面目に説明を聞いていなかったので、よくわからないままセオリー通り券売機の左上をプッシュする。
店員さんに食券を渡して席に着くと、一気に汗が噴き出てきた。大阪の夜は東京よりも暑く感じる。湿気の違いだろうか。目の前の厨房を見ながらボーーっと団扇で扇いでいると、横の席のおばはんに話しかけられた。
「ついでやから、水入れましょか?」
おばはんはピッチャーを持って微笑んでいる。机に目を落とすと、水の入っていない空のコップが置かれていた。水はセルフサービスらしい。
「あ、お願いします」
僕は咄嗟に標準語のイントネーションで返事をする。東京のラーメン屋で、隣り合わせた知らない人から水を入れてもらったことは一度もない。
大阪、いいとこもあるじゃん。
少しだけ先行きの不安を拭えたところで、僕はコップを持ち上げて一気に水を飲み干した。
「ポストに鍵入れとくから勝手に入って」
泊まらせてもらう先輩の家は大きなマンションの一室だった。家の番号が印字されたポストの中を手探りでまさぐると、チャリン、という金属音が聞こえた。
鍵を手にし、エレベーターを上り、鍵を開け、僕は先輩の部屋に入った。一人暮らしには充分の大きさの部屋は意外にも整っていて、その無機質さに生活感の無さを感じた。室内灯は暗く、部屋の中央部はまだしも、角は光が行き渡っていない。その暗さは大阪に単身で乗り込んだ先輩の孤独にぴったりのように思えた。
シャワーを浴びてテレビをつけると、関西ローカルの番組がたくさん放映されていた。どの局にザッピングしても、藤崎マーケットや学天即、シャンプーハットといった大阪吉本所属の芸人が出演していて、東京との違いを突きつけられる。
prrr…
「トリニクって何の肉?」を見ていると、着信があった。先輩からだ。
「もしもし?」
「あ、いま俺んち?」
「そうです。テレビ見てます」
だいぶ酔っている。スマホ越しでもはっきりと分かる。
「あのさあ、悪いんだけどお湯沸かしといてくんね? カップ麺食べたい」
「あーわかりました」
「メガネ失くした」
「え?」
「ガールズバーでメガネ失くした」
「何やってんですか」
酔っているからか、会話がほうぼうに飛ぶ。とりあえず、代理店との飲み会でベロベロに潰れているということだけは推察できた。
「とりあえず湯沸かして待ってます」
「うい」
電話を切る。
その瞬間、静寂が訪れる。実家は音がある。洗濯機や扇風機、食器を洗う雑音。どれも当たり前にそこに存在していたものなのに、一人暮らしだとこんなにも音がないんだ、と改めて気付かされる。
「ただいまぁぁぁ」
「お疲れ様です」
程なくして、スーツ姿の先輩が帰ってくる。玄関まで出迎えてみると、先輩の顔は赤らみ目の焦点は合っていない。予想以上に酔っ払っているようだ。
「メガネ失くしたよおおおお」
咆哮と共にジャケットを僕に投げつけてくる。そのジャケットを避けながら、お湯沸かしときましたよ、と僕は話題を逸らす。雨の湿気を纏ったジャケットは、フローリングに力なくしなだれた。
「あー!助かるわ」
先輩は戸棚からカップ麺を取り出し、靴下を脱いで「俺の足くせえな!臭すぎるわ!」と騒いでいる。
僕はボコボコと沸騰したお湯を発泡スチロールの器に注ぎ、カップ麺を食べられる状態へと設えておく。
「メガネ無えからお前の顔ちゃんと見えねえよ、せっかく東京から来てくれてんのによおおおお」
もはやまともに会話もできていない。
「一人暮らしってキツいすか」
「キツいよ。友達いないし」
「え?同期は?」
「いや、同期は同僚だけど友達じゃないから」
「ああ、なるほど」
曖昧に頷く。仕事とはそういうものなのだろう。
「休日とかマジで何もしないもん」
「何してんですか」
「昼過ぎに起きて…また寝て…、夕飯買わなきゃなって家出て、ボーっとして一日終わるわ」
「クソみたいな休日ですね」
「んでたまに飲み会呼ばれて駆けつけてな」
「ふうん」
先輩は準キー局に入社して、三月の終わりに意気揚々と大阪に向かっていった。半年の間に心が削られていったのだろう。以前会った時よりも頬がこけている。リビングで半裸になった時に「俺胸筋元からカスッカスなんだよね」と苦笑いしていた先輩は、声も身体も全く張りがなかった。
一時間ほど愚痴や近況を聞いていると、先輩は眠りこけてしまった。風呂も入っていないし足の臭さも健在なのに、寝てしまった。それほどまでに仕事とは疲れるものなのだろうか。僕は暗澹とした気分でいずれ訪れるであろう将来に思いを馳せながら、吉本の座組バラエティが騒がしいテレビの電源を落とした。
翌日も翌々日も、先輩は僕よりも早く起きていた。あれだけ酒に酔っていたのに定時出社できるのは先輩が社会人に染まったからだろうか。シャワーを浴びて朝ご飯も食べず、すぐにジャケットを羽織って玄関を出ていった。僕はというと、猛威を振るった台風10号のあおりを受けて、大阪に足止めを食らっていた。
外は雨。テレビをつけると、今日は甲子園も中止が決定したらしい。外に出ようとも思えないし、もはややることもない。
はたと気付く。本当にやることがない。周りに友達がいるわけでもないし、先輩は台風の中でも仕事だ。クソブラックが、と恨み言を呟きながら、本棚の漫画をパラパラとめくってはエロ動画を見て惰眠を貪る。大阪まで来て何をしているんだと思ってみても、モチベーションもイベントも何もないんだから仕方がない。
先輩の休日も、きっとこんな感じなんだろう。わざわざ貴重な休日にひとりで家の周りを観光するのも違うし、だからと言って飲みに誘う友達もいない。家で無為に過ごしている時間がもどかしいのに、何をする当てもない。それはこれほどまでにストレスなのだ。僕は先輩に優しくしようと思った。
翌日の夜に先輩は東京に戻るらしい。僕は当初の予定より一日遅らせて、先輩に合わせて新幹線で帰京することにした。
八月末に閉場予定の西梅田劇場で新喜劇を観劇し、タコ焼きとラーメンを食らい、先輩の家でシャワーを浴びて新大阪駅に向かう。前日のストレスを取り返すかのように精力的に観光に勤しみ、僕は20時半には新大阪駅で先輩を待っていた。
「ごめん、21時過ぎに着く」
「中で待ってます」
思ったより仕事が長引いた先輩は、東京行きの終電ギリギリに新大阪駅に到着するらしい。僕は構内のドトールでバウムクーヘンを齧り、Tohjiの新アルバムを聴いて先輩の到着を待った。
30分もすると、ごめんごめんと謝りながら先輩が到着した。三日間も泊めてもらっているのでごめんもヘッタクレもないのだが、お詫びに、と551の豚まんを僕にくれた。ありがとうございます、と大仰な返事をして感謝の意を伝える。眼鏡を新調し、東京でキャンプに行くんだとはしゃぐ先輩は、三日前のあの頬がこけた表情からはいくらか和らいでいるように見える。
新幹線は予想よりもたくさん本数があった。自由席のチケットを買った僕たちは、台風と帰省ラッシュの影響でなかなか座れないやも知れぬと覚悟していた。しかし、その心配も杞憂だった。さすがに隣り合わせの席は空いていなかったものの、僕たちは各々座席に座ることができた。
程なくして新幹線は発車した。僕は551の豚まんにかぶりつきながらInstagramをチェックした。すると、サークルの同期のひとりが大阪に帰省した報告をストーリーズに投稿していた。
『関西、帰ってきました
やっぱ好っきゃねん』
相変わらずクサいセリフを吐いているなあ、と思うと同時に、ああ、コイツも東京でひとりで暮らしているんだよなあ、と思った。今はシェアハウスに友達と暮らしているようだが、細かいことはまあいい。
大学入学と同時に上京して一人暮らし、というのは地方生まれの学生のよくあるパターンだ。ただ、それは語るに易しであり、実際に暮らしてみたら大変なものだろうなと思う。この数日間でその苦労は身に染みてわかった。その上、炊事や洗濯も自分で全て行わなければいけないとなると、労力は更に必要になる。
「関西人ってみんなお前みたいなのな」
「キモくて草」
彼のストーリーズにDMを送る。
「いや、当たり前やから」
瞬時に返信がくる。彼の言葉はいわば「剛」だ。表現方法がストレートで、それが彼の個性だと思っていた。ただ、それは関西人の特性なのだろう。そう考えを改めた。彼らは関東人のような(特に僕たちの周りのような)婉曲表現を好まずに直接的な表現を選択する。
慣れ親しんだ関東の文化圏から離れて他に染まるというのは、彼にしても先輩にしても大変なストレスがかかるものだろう。この数日間で得た知見からそう想像する。それでも二人は、新たな地に根を張って暮らし続ける。
「お前みたいな奴しかいなかったわ」
「お前1お前2お前3みたいな」
「大阪ってお前の街だったんだな」
多少の敬意を込めてDMを返す。関東人らしい「柔」の表現で。
「すげぇむかつくな」
「なんだお前」
「剛」が宣う。やりとりに飽きたので「草」と返すと、新幹線はまもなく名古屋に到着するところだった。ちょうど僕の横に座る人が席を立って、先輩が僕の横に向かってくる。
「空いたからこっちいくわ」
「うっす」
「あととりあえず一発カマしてくる」
先輩は左手の人差し指と中指を口許に当て、煙草を吸う仕草をしてみせて席を外す。今日の先輩はTシャツに短パンというラフな出で立ちだ。喫煙所に向かう先輩の後ろ姿は、ジャケットからの解放感からかいささか細く見える。それでも、東京に戻れる喜びを全身で表すかのように、先輩は三日前よりも背筋をぴんと張って車両前方へ歩いていった。
「剛」の世界で凝り固まった身体を柔らかくほぐしに帰る数日間。キャンプから帰ってきたら、また大阪に戻るのだろう。見知らぬ土地に引っ越すとは大変なことだ。
僕は、これからは先程のストーリーズの彼にも少し優しくしてあげようと思った。