【つの版】度量衡比較・貨幣95
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
地球規模の海上帝国を築き上げたポルトガルとスペインに対抗するため、オランダと英国は東インド会社を築いて東洋へ進出し、交易や略奪を行いました。同じ頃、両国は大西洋の彼方の北アメリカへも進出しています。メキシコも北アメリカのうちですが、その北はどうなっていたのでしょうか。
◆ONE◆
◆PIECE◆
新発見地
コロンブスが西インド(カリブ海)諸島を探索していた1497年、英国王ヘンリー7世はイタリア出身のジョン・カボットをブリストルから大西洋の彼方へ派遣しました。その目的は地球を北西周りで東洋へ到達する航路(北西航路)を発見するためです。カボットは現カナダ東部のケープ・ブレトン島、ニューファンドランド(新たに発見された地/ラテン語名テラ・ノヴァ)島と周辺の地を発見して帰還し、翌年の第二次航海では陸沿いに南下してデラウェア湾とチェサピーク湾(現アメリカ合衆国デラウェア州およびバージニア州付近)を発見しましたが、東洋に到達することはできませんでした。
ヘンリー7世は1499-1500年にウィリアム・ウェストンを、1502-03年にヒュー・エリオットらをニューファンドランドへ派遣して探索させ、20-30ポンド(1ポンド10万円として200-300万円)から100ポンド(1000万円)ほどの報奨金を与えています。ブリストルの探検家らは勅許会社「ニューファンドランド冒険会社」を設立し、1503-04年、1508-09年にも遠征隊を派遣しています。これらの遠征により、北はラブラドール半島北端、南はチェサピーク湾までの沿岸部が発見されました。しかし1509年にヘンリー7世が崩御すると、次の英国王ヘンリー8世は出資を打ち切り、ジョン・カボットの息子セバスチャンはスペインに移住しています。
新仏蘭西
1513年、スペイン人フアン・ポンセ・デ・レオンがキューバ島の北にある半島に到達し、復活祭(パスクア)の時に発見した事からラ・パスクア・フロリダ(花の復活祭の地)と名付けました。しかし先住民の襲撃や嵐によって長らく植民地が築かれず、遠征調査隊が何度か派遣された程度でした。スペインは北よりも西へ向かって太平洋に到達し、アステカ帝国を征服して、広大な植民地帝国を建設していきます。これに対抗するため、まずフランスが北西航路の探索に加わってきます。
1523-24年、フランス王フランソワ1世はイタリア出身の探検家ヴェラッツァーノを派遣し、フロリダとニューファンドランドの間を探索させました。彼は以前ニューファンドランドに赴いた経験があり、その航路を利用して、現在のノースカロライナ州ケープ・フィア近くに到達しました。そこから陸地に沿って探索し、先住民と交流しつつ、現在のニュージャージー州やニューヨーク湾、ナラガンセット湾を経て帰還しています。
彼はこれらの地域を「ノヴァ・ガリア(新フランス)」と名付け、国王フランソワ1世の名にちなんでフランチェスカとも呼びました。現ニューヨーク付近はフランソワの即位前の爵位にちなんで「ヌーベル(新)・アングレーム」と名付けられたともいいます。しかしヴェラッツァーノは1528年頃、カリブ海の小アンティル諸島を探索中に先住民に襲われて死亡しました。
1534年、フランソワ1世はブルターニュ出身の探検家ジャック・カルティエを派遣し、ニューファンドランド付近を探索させました。カルティエはニューファンドランド島とラブラドール半島の間の海峡を抜けてガスペ半島に到達し、上陸して「フランス国王万歳」と刻まれた木製の十字架を立て、フランスによる領有を宣言して「ヌーベル・フランス(新フランス)」と名付けました。そして彼はヌーベル・フランスの初代総督となります。
カルティエはガスペで漁労を行っていた先住民(ミクマク族)たちと遭遇し、身振り手振りで交易品を示し、自分たちの国についてくるよう促しました。すると酋長ドンナコナの息子だという二人の若者が彼らに同行し、周辺の案内を買って出ます。カルティエはガスペの北の湾に注ぎ込む大河を発見し、これをサンローラン(セントローレンス)川と名付けました。
カルティエは翌年再び同地を訪れ、ガスペ半島の北側から湾の奥へと向かいます。湾の最奥部には先住民の村スタダコナ(現ケベック・シティ)があり、酋長ドンナコナが歓迎してくれました。先住民はスタダコナとその周辺のことを「カナタ(kanata/村落)」と呼んでおり、カルティエはこれを彼らの国の名であるとして「カナダ(Kanada)」と呼びました。
スタダコナにはセントローレンス川が流れ込んでおり、カルティエはこれを抜ければチャイナ(シーヌ)へ行けると信じて遡上し、先住民の要塞村落オシュラガまで到達して、周辺の山をモン・ロワイヤル(王の山)と名付けます(現モントリオール)。しかしオシュラガの上流には早瀬があって遡上できず、彼はそこをラピッド・ドゥ・ラ・シーヌ(チャイナの早瀬)と名付けて引き返しました。カルティエはスタダコナで越冬したものの壊血病で多くの死者を出し、1536年に再び帰国します。
フランソワ1世はカルティエから「カナダ」の北方に「サグネ」という黄金郷があるとの報告を受けて興味を惹かれ、1541年に1500人の開拓民を授けて植民地を建設するよう命じます。しかしドンナコナはすでに死んでおり、サグネは結局見つからず、開拓民が持ち込んだ伝染病でスタダコナと植民地は壊滅してしまいます。カルティエは這々の体で帰国し、二度とカナダに赴くことなく、1557年に世を去りました。
黄金探索
エルナン・コルテスがアステカ帝国を征服した後も、スペイン人はさらなる黄金郷を求めてアメリカ大陸を駆け回りました。1528年にはスペイン国王カルロスの命を受けた先遣都督パンフィロ・デ・ナルバエスがフロリダ半島に上陸して探索を行います。彼は以前コルテスに敗れて投獄された経験があり、コルテスを見返そうと燃えていました。しかし黄金郷はさっぱり見当たらず、先住民の反撃を受けて逃げ出し、船でメキシコに帰ろうとしますが嵐に遭遇し、ナルバエスおよび数百人の部隊の大半が死亡しました。
生き残ったのは80人で、現テキサス州南岸のヒューストン付近に漂着しました。彼らは先住民の奴隷となり、数年後には4人まで減りましたが、1532年に脱走して西へ向かいます。一行は現テキサス州、ニューメキシコ州、アリゾナ州の荒野を横断し、南下してソノラ砂漠を越えた末、1536年にメキシコ北西部のシナロア州クリアカンでスペイン人に保護されました。これによりフロリダとメキシコの間が地続きであることが判明します。また彼らは先住民から「非常に裕福な都」の話を聞いたと報告しています。
この頃、コルテスらは北西の海の彼方に黄金郷があるとの先住民の噂を聞きつけ、カリフォルニア半島南端への遠征を行っていました。カリフォルニアとはスペインの伝説上の島で、女王カリフィアによって治められ、グリフィンなどの幻獣が住まい、黄金に満ち溢れた天国のような国だと謳われました。コルテスはこれにちなんでメキシコの北西の「島」をカリフォルニアと名付けたのです。1539年にコルテスは部下のフランシスコ・デ・ウジョアを派遣して「島」の東岸を探索させますが、彼は湾の行き止まりでコロラド川の河口に到達し、島ではなく半島であることを確認しました。
1540年にコルテスがスペインへ帰国すると、ヌエバ・エスパーニャ副王メンドーサが探索事業も引き継ぎます。彼はナルバエス隊の生き残りが通った内陸ルートをコロナドに、カリフォルニア半島の西側沿岸をカブリリョに探索させ、黄金郷と北西航路を見つけ出すよう命じます。コロナドはロッキー山脈を越えて現カンザス州まで到達し、カブリリョは船で北上して現サンフランシスコの北のソノマ郡あたりまで到達しましたが、黄金郷も北西航路も見つからず引き返さざるを得ませんでした。スペイン人がこれらの地域に恒久的な植民地を建設するのは半世紀以上も後になります。
ほぼ同じ頃、インカ帝国の征服者の一人エルナンド・デ・ソトが北アメリカに侵攻して先住民たちと戦っています。彼はナルバエス隊の生き残りで先住民の奴隷となっていた人物を通訳として雇い、フロリダ西海岸を北上し、現ジョージア州を経てサウスカロライナ州に入りました。さらにノースカロライナ州、テネシー州を経てアラバマ州に到達し、先住民の要塞村落マビラを焼き落として殺戮と略奪を行い、ミシシッピ川を渡ってアーカンソー州に入りましたが、1542年にこの地で熱病に罹って死亡しました。こうしたスペイン人の活動は、先住民に伝染病をバラ撒いて文化・文明を破壊する一方、ウマや鉄器をもたらしてもいます。
1542年、副王メンドーサは探検家ビリャロボスに「太平洋を横断して香料諸島へ到達せよ」と命じて出発させます。彼は翌年マゼランの到達した島々にたどり着いて「フィリピン諸島」と名付け、香料諸島に到達しますが、ポルトガル人に捕らえられて獄死します。コロンブスが夢見たインドと欧州を結ぶ「西廻り航路」は可能になったものの、スペインがフィリピンに恒久的な植民地を建設し、太平洋を横断する貿易航路が開通するのは、さらに20年以上の歳月を要することになります。
◆エル◆
◆ドラド◆
【続く】
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