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【つの版】度量衡比較・貨幣60

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1520年6月末、メシカ人はスペイン人コルテスらに幽閉された皇帝モクテスマに代わって新たな皇帝クィトラワクを擁立し、暴動を起こしてモクテスマを殺害、スペイン人を首都テノチティトランから追放します。コルテスは東のトラスカラに逃れて軍勢を整え、捲土重来を期しました。

◆You Could Be◆

◆King◆

帝国滅亡

 メシカ人はスペイン・トラスカラ連合軍を追撃し、7月9-10日にはオトゥンバで改めて大打撃を与えました。新皇帝クィトラワクは勝ち誇り、各地の防備を固めて首都の混乱を鎮めたのち、9月中旬に戴冠式を挙げます。ところが一ヶ月後に恐ろしいことが起こりました。首都を疫病が襲ったのです。

 それはコルテス一行が持ち込んだ天然痘でした。紀元前からアフロ・ユーラシア世界に広く蔓延し、多数の人間を殺戮してきた伝染病です。そのウイルスはヒトに対する極めて強い感染力(飛沫・接触感染)を持ち、潜伏期間は7-16日、40℃前後の高熱と全身や臓器を覆う膿疱によって呼吸不全を起こさせ、致死率は2割から5割に達します。治癒後は免疫抗体ができるため軽症で済めば以後感染せずに済みますが、1万年以上もアフロ・ユーラシア世界の住民と交流がなかったメソアメリカでは爆発的に感染が広まります。

 なお、コロンブスらはイスパニョーラ島から梅毒に感染して帰還し、アフロ・ユーラシア世界にもたらしました。早くも1494-95年にはナポリに侵攻したフランス軍の間で広まり(スペイン人の傭兵から感染)、フランスでは「イタリア病」、イタリアやドイツ、ポーランドでは「フランス病」、オランダでは「スペイン病」、ロシアでは「ポーランド病」、オスマン帝国では「フランク(西欧人)病」と呼んだといいます。粘膜接触で感染するため感染力は天然痘より低く、致死率も高くありませんが、交易路に乗って1500年頃には明朝に、1512年頃にはすでに日本にまで到達しています。

 恐るべき疫病は皇帝クィトラワクをも襲い、12月4日に死に至らしめました。在位期間は80日ほどです。メシカ人は神やモクテスマの祟りではと恐れたものの、アウィツォトルの息子でモクテスマらの従兄弟にあたるクアウテモックを新たな皇帝(メシカ王)に擁立し、国難に対処させました。

 この知らせを受けて、スペイン・トラスカラ連合軍は再び西へ進軍し、テスココ湖東岸のテスココ(アコルワ)王国を服属させます。ここはメシカの台頭以前から栄えた国でしたが、メシカと同盟してテパネカ/アスカポツァルコを滅ぼしたのち、次第にメシカから従属的な立場に立たされていました。それゆえメシカとは対立関係にあり、ついに同盟を離脱したのです。

 スペイン・トラスカラ・テスココ連合軍はテノチティトランを孤立させる作戦に出、1521年2月からシャルトカン、トラコパンなど周辺の都市国家を攻撃します。「アステカ帝国」はもともとメシカを盟主とする都市国家の同盟に過ぎず、諸国は軍事的脅威の前に次々と軍門に降りました。しかし4月にはソチミルコが頑強に抵抗して連合軍を押し返したため、コルテスはテスココ湖にスペイン式の小型帆船「ブリガンティン」13隻を建造します。

 これにはベラクルスから遠路運ばれた船舶用の大砲が据え付けられ、湖上の制海権はスペイン軍の手に落ちます。5月10日に開始されたテノチティトラン包囲戦は三ヶ月に及び、コルテスの派遣した使者から事情を聞いたスペイン本国は援軍を派遣しました。8月13日、皇帝クアウテモックは最後まで戦い抜いたのち捕虜とされ、アステカ帝国は滅亡したのです。

新植民地

 コルテスは復讐かつ勝者の権利として、部下たちにテノチティトランの掠奪を許します。ついでアステカ帝国の住民を自分や部下たちに分配し、住民に庇護を与える代わりに貢納や労働を義務付けます(エンコミエンダ制)。彼に付き従った者たちは領主様となりましたが、もとの王侯貴族はスペインに従う限りにおいて(キリスト教に改宗して)その地位を安堵されました。スペイン人は勝者とはいえ圧倒的に少数なのですから、統治を円滑ならしむるには現地の協力者とうまくやっていくことが大切です。スペイン本国の君主カルロス(カール5世)もこれを承認し、コルテスを新たな植民地「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」の総督に任命しました。

 この頃、カリブ海やメソアメリカ、南アメリカには多くの総督領が置かれていました。法的には、これら全てはコロンブスとその子孫が副王として統治するはずの領域でしたが、彼は1502年に統治不行き届きとしてその権利を剥奪され、1506年にわびしく病死しています。彼の息子ディエゴは父に与えられた権利を取り戻したいとアラゴン王フェルナンドに陳情し、1509年にインディアス総督、1511年にインディアス副王に任じられています。

 同年、彼はイスパニョーラ島、プエルトリコ、ジャマイカ、キューバを副王として統治することを王立評議会より認められましたが、1514年にスペインへ呼び戻され、フェルナンドの監視下に置かれます。1520年にカルロスの命令でサント・ドミンゴへ帰還したものの、サトウキビ農園奴隷の大規模な反乱によって統治不行き届きとみなされ、1523年に呼び戻されます。彼は1526年に逝去しましたが、その子ルイスは1536年にジャマイカ等の領主に封じられ、年1万ドゥガード(12億円)の地代収入を獲得しています。

 コルテスの敵対者であったキューバ総督ベラスケスも1524年に病死しており、コルテスは事実上の副王として並ぶものなき権力を振るいました。彼はホンジュラスやニカラグア、ユカタン半島などメソアメリカ各地に部下を派遣して征服活動を続けさせ、1525年にはクアウテモックを反乱の疑いありとして処刑しています。マリンチェは1523年にコルテスとの間に私生児マルティンを産みますが、2年後に別のスペイン人と結婚し、1527年頃に若くして亡くなりました。この頃コルテスはスペインに一時帰国し、カルロスからバジェ・デ・オアハカ侯爵に封じられています。

 コルテスの捕虜となっていたナルバエスは、1522年に釈放されてスペインに帰国したのち、1527年にフロリダの探索に派遣されましたが、1528年に嵐に遭って溺死しました。探検隊300人のうち80人は生き残ったものの、先住民に殺されたり奴隷にされたり餓死したりし、最終的に4人だけが北アメリカ大陸南部を横断して1537年メキシコに到達しています。これによりフロリダとメキシコが地続きであることが確認されました。

 アメリカ大陸部の探索が進む中、パナマの南に黄金郷があるとの噂を聞いて向かった人々は、インカ帝国を発見します。またアステカ帝国が滅亡する直前、1521年4月には、マゼラン率いるスペイン艦隊が太平洋を横断しています。まずはマゼランの大航海を見ていきましょう。

香料諸島

 マゼランは英語名マジェランの日本語訛りで、出身国のポルトガル名ではフェルナン・デ・マガリャンイス、スペイン名はマガリャネスといいます。1480年頃にポルトガル北部の下級貴族の家に生まれ、1492年に王妃の小姓としてポルトガル宮廷に仕え始めました。

 1505年、25歳のマゼランはアルメイダのインド遠征艦隊に希望して加わり、1509年2月のディーウ沖海戦では全治5ヶ月の重傷を負っています。9月にはセケイラ率いるマラッカ遠征に加わりますが敗れ、1511年のアルブケルケによるマラッカ再遠征にも参加して手柄を立てました。1513年には一度ポルトガルに帰国しています。

 マゼランの従兄弟フランシスコ・セラーンは、マラッカのさらに東に存在するという「香料諸島」への遠征部隊に加わります。出発は1511年11月で、艦隊の長はアントニオ・デ・アブレウ、副官はセラーン、乗組員は120人のポルトガル人と60人の奴隷でした。艦隊はマレー人の水先案内人に導かれ、スマトラ島東岸を南下してジャワ島に至り、島伝いに東へ進んだのち北上して、アンボン島(アンボイナ)を経てバンダ諸島に到達しました。

 ここはナツメグとメース(ナツメグの仮種皮を乾燥させたもの)という香辛料の一大生産地で、古来ジャワやイスラム圏の商人と取引して富を得ていましたが、ポルトガルはついにその原産地を抑えたのです。ここはまた周辺との貿易の拠点でもあり、北のテルナテ島やティドレ島からはクローブ、東のアルー諸島やパプア島からは極楽鳥の羽毛、薬用の樹皮などを輸入し、ジャワやインドの米や布と取引していました。ポルトガル人たちはバンダに1ヶ月ほど滞在し、アブレウはアンボン島を経てマラッカに帰還しますが、セラーンは9人のポルトガル人と9人の現地人を連れ、さらに探索を続けます。

 彼らは嵐に遭ったのち座礁し、先住民を脅してアンボン島の北のヒトゥ島にたどり着きます。島の首長らはポルトガル人たちの持つマスケット銃の戦闘力に目をつけ、彼らを同盟者として雇い、周辺諸国との抗争に役立てました。またマラッカをポルトガルが抑えたと聞いて、彼らを香辛料や食糧の購入者として歓迎しました。やがてセラーンは北のテルナテ王国に招かれて傭兵隊長となり、交易路を通じてマラッカやポルトガル本国、従兄弟のマゼランに手紙を書き送っています。アブレウは帰国前の1513年にアゾレス諸島で病死しましたが、セラーンの手紙は無事届けられました。

 この頃、マゼランはモロッコ遠征に従軍していましたが、負傷して右足が不自由になり、鹵獲品管理官として活動しました。しかし「戦利品を横流ししている」との冤罪を着せられ、ポルトガル王マヌエルに無実を訴えますが聞き入れられず、1515年にポルトガルを去ってスペインに移住します。当時スペインではインディアス(カリブ海諸島とその周辺)の探索を進めるとともに、その西に新たに発見された海を越えて、今度こそアジアへ到達するという「西廻り航路」の開拓に取り組んでいました。計算上は相当の距離と時間がかかるものの、成功すれば億万長者です。

 1517年、マゼランはツテをたどってスペインの新国王カルロスに謁見し、セラーンの手紙に書かれた(誇張された)距離などを根拠として、香料諸島への西廻りでの航海計画を伝えました。カルロスはこれを了承し、地球周航の大航海が開始されることとなります。

◆香辛料◆

◆楽園◆

【続く】

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