【つの版】度量衡比較・貨幣62
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
1522年、スペインは太平洋を横断して西廻りで香料諸島に到達する航路を開拓しましたが、遠すぎるうえポルトガル領に寄港できないという大きなデメリットがあり、結局は断念されます。これよりスペインはしばらく新大陸の探索と征服に注力することとなるのです。
◆黄金◆
◆神威◆
南米文明
コルテスはアステカ帝国(メシカ王国)を征服したのち、1523-25年にアルバラードを派遣して現グアテマラやエルサルバドルを征服させます。ついでホンジュラスやニカラグア、ユカタン半島も征服されていき、メソアメリカの大部分はスペイン領となりました。残るは南米大陸方面です。
1519年、スペイン人はパナマ地峡の南側、太平洋(南の海)に面した地にシウダー・デ・パナマ(パナマ市)を建設し、パナマ総督府を置きました。その東の現コロンビア北岸、ベネズエラ北岸にも転々と港町が建設されていきますが、特に注目されたのはパナマの南に存在するという黄金郷でした。
広大な南アメリカ大陸のうち、メソアメリカの諸文明に匹敵するほど高度な都市文明が存在したのは、西側のアンデス山脈でした。赤道直下の熱帯にありながら、標高数千メートルの高地であるため暑さは厳しくなく、適度に灌漑を行えば農耕が可能です。また周辺の熱帯地域や海岸地域とも盛んに交易を行い、広域の経済圏を構築することもできました。メソアメリカ文明のうちメキシコ中央高地にアステカ帝国が出現したように、アンデスでも高地にインカ帝国などが出現します。それまでの歴史を概観しましょう。
アジアから北米大陸に渡って南下し、1万年あまり前に南米大陸に住み着き始めた人類は、紀元前5000年頃からアンデス高地で農耕と牧畜を開始します。メソアメリカではトウモロコシが主要作物となりましたが、アンデスで主要作物となったのはジャガイモでした。
しかしジャガイモが主要作物となるのは比較的遅く、まずカボチャ、ヒョウタン、インゲンマメ、トウガラシなどの栽培が始まります。またメソアメリカには大型の家畜はいませんでしたが、アンデスにはラクダ科のリャマやアルパカがおり、これを飼育して肉や毛を利用し、荷物を運搬させました。
前3000-前2000年頃、現ペルーの首都リマの北方に石造の都市が建設されました。カラル遺跡です。太平洋に注ぐスーペ川の河口から25-30km上流に位置し、アボカド、インゲンマメ、カボチャ、サツマイモ、トウガラシ、トウモロコシ、ワタなどが栽培され、イワシなど魚介類も食べられています。遺跡の範囲は60haほどあり、3000人ほどが暮らしていました。高さ18mもの石造の大神殿があり、周辺には19の神殿が散在し、周辺地域との交易が行われていました。アンデス文明で記録媒体とされた結縄(キープ)らしきものや、骨でできた装身具や笛、コカの葉なども見つかっています。同時代にはペルー各地に神殿や村落が出現しますが、まだ土器は出現していません。
前1800年頃から土器が出現し、煮炊きが可能になって、人口はさらに増えて行きます。ジャガイモが栽培されるようになったのもこの頃からのようです。前1200年頃、ペルーのアンデス北部高地にチャビン文化が出現し、大型のピラミッド神殿を持つチャビン・デ・ワンタル遺跡が築かれます。この文化は周辺に広く影響を及ぼし、後継の諸文化を生み出しました。
紀元前後になると、ペルー北海岸にモチェ文化、南海岸にナスカ文化、アンデス中部のチチカカ湖畔にティワナク文化が出現します。有名なナスカの地上絵が作成されたのはこの頃です。これらが衰えると、西暦800年頃にワリ文化が現れてアンデス中北部に及び、ペルー北部にはシカン文化やチムー文化が成立していきます。
これらは最終的にインカ帝国によって征服されたため、この時代を「プレ・インカ時代」と呼ぶこともありますが、それぞれに特色のある文化圏でした。彼らは文字や車輪、ウマや鉄器などを欠いていましたが立派な文明を持ち、特徴的な土器や高度な石材加工技術、灌漑を含む農耕技術と広域の交易によって多くの人口を養うことができました。また黄金や青銅の製品を鋳造して加工しましたが、武器は石器が主でした。
印加帝国
西暦12世紀頃にティワナク文化圏が崩壊したのち、その地にはアイマラと総称される人々が住んで小王国を築きましたが、そのひとつにクスコ王国がありました。ここは現ペルー南東部、標高3400mの高地の谷あいにあり、チチカカ湖からは150kmほど離れています。おおよそかつてのティワナク文化圏とワリ文化圏の境に近く、両者間の交易が行われていたことでしょう。
伝説によれば、クスコ王国の建国者はマンコ・カパックといい、太陽神インティ(あるいは創造神ビラコチャ)の息子とされます。彼は兄弟姉妹とともにパカリタンボという洞窟(あるいはチチカカ湖の中)に住んでいましたが、ある時父より黄金の杖タパク・ヤウリを授かり、「この杖が地面に沈む地に我が神殿を建てよ」と命じられます。彼は兄弟姉妹を率いてクスコの地へ到来し、ここに神殿を建てて住み着いたというのです。
それから200年あまり後、西暦1438年にクシ・ユパンキがクスコの第9代の王位につきました。彼は内陸の小国に過ぎなかったクスコ王国を軍事力によって急激に拡大させ、強大な帝国を建設します。また自ら「パチャクテク(大地を揺り動かす者、現世の変革者)」と名乗り、国号を改めて「タワンティン・スウユ(四つの邦)」とし、領土を東西南北の四つの邦(スウユ)に再編し、各邦には総督(アポ)を派遣して統治させました。四つの邦の中心には帝都クスコがあり、交易路を支配するわけです。いわゆるインカ帝国ですが、インカは本来君主(王/皇帝)の称号に過ぎません。
パチャクテクの息子トゥパック・インカ・ユパンキ(在位:1471-93)、その息子ワイナ・カパック(在位:1493-1527)はさらに領土を広げ、北部沿岸のチムー王国を征服しています。パチャクテクの即位はメキシコにおけるアステカ帝国(三国同盟)の成立とほぼ同年で、歴代皇帝が軍事力によって領土を広げたのも同様ですが、両者の間に特に繋がりはありません。
カカオ豆を通貨としたメソアメリカとは異なり、アンデスの諸文明では「通貨」に相当する物品がほとんど存在せず、物々交換や貢納、労役が支払手段でした。ペルー北部やエクアドルでは銅製の斧、ボタン状の金やビーズが貨幣として用いられたものの、帝国全体には制度として広まっていません。
タワンティン・スウユは各地の交易路を繋げて整備し、帝国の支配を確立する背骨としました。道路は石畳で舗装され、両脇に側溝が掘られました。川には石橋や吊り橋が架けられました。道路は飛脚や兵士、王侯貴族や役人、商人らが利用し、道沿いに宿駅が置かれて食糧や水、物資が補給されたといいます。最盛期の人口は1000万人を超えたといい、帝国がこのまま拡大すれば、やがてメソアメリカまで支配が及んだかも知れません。
有名なマチュ・ピチュ遺跡は皇帝パチャクティの時代に建設が始まったもので、帝都クスコより1000m低い位置にあります。ここは都市というより離宮の一種で、最大時でも750人ほどしか生活していませんでした。
帝国落日
1513年、バルボアの探検隊に加わってパナマ地峡を縦断し太平洋を発見したスペイン人フランシスコ・ピサロは、パナマの南に浮かぶペルラス諸島の先住民から「ビルー(Biru)」ないし「ピルー(Piru)」という豊かな国が南方に存在すると聞き及びました。これは現在のペルー(Peru)ではなく、パナマ東部の太平洋に面したサンミゲル湾にいたビルーという首長の国だったようですが、ピサロたちは「南方にピルー/ペルーという黄金郷がある」と誤解し、探索して征服する計画を立てます。
1524年、ピサロは友人のアルマグロやルケたちとともに南方探検に関する協定を結び、スペイン国王カルロスからも許可を得て出発しました。アルマグロはパナマにとどまって補給することとし、ピサロは陸沿いに船で南下して現コロンビアおよびエクアドルの西海岸を通過、1526年に現ペルー北西端のトゥンベスという港町に到達しました。
この頃、トゥンベスを含む一帯は「インカ帝国」の支配下にあり、北東の都市キトは皇帝ワイナ・カパックがクスコから遷り住んで第二の首都としていました。これは彼の母がこの地域の出身だったためです。また彼は南のトメバンバ(現エクアドルのクエンカ)に壮麗な宮殿を築き、帝国をさらに北へ拡大せんとしていましたが、クスコではこれに対する反発が起きました。そして1527年、ワイナ・カパックと皇太子ニナン・クヨチら数千人が疫病で死んでしまいます。これはおそらくアステカ帝国を滅ぼした天然痘で、ピサロたちスペイン人が持ち込んだものと思われます。
南のクスコではワイナ・カパックの息子ワスカルが皇帝に即位し、キトではワスカルの異母弟アタワルパが副王(北邦総督)となります。帝国の大部分はワスカル側につき、アタワルパは現エクアドル付近を抑えただけですから、帝国の統一は保たれてはいました。ピサロはこうした状況を鑑みて「征服できる」と判断し、パナマを経てスペインに戻ると、国王カルロスに報告しました。カルロスは彼に「ペルー王国」の征服を任せ、成功したらその地の総督にしようと約束します。ピサロは兄弟たちを連れて1530年にパナマへ戻ると、アルマグロたちとともに征服の準備を始めます。
1531年、ピサロは180人の兵士と37頭の馬を率いてパナマを出港し、トゥンベスに到達して周辺を制圧すると、1532年7月にサン・ミゲル・デ・ピウラという植民都市を建設して拠点としました。ピウラとは現地のケチュア語で「豊かな」を意味し、地名のペルーとは無関係のようです。ワンカ、チャンカ、カニャーリ、チャチャポヤなど周辺の諸部族はピサロに味方し、自分たちを抑圧していたインカ帝国に反旗を翻しました。
この頃インカ帝国ではワスカルとアタワルパが内戦状態にあり、アタワルパが数年間の奮闘の末にワスカル軍を押し戻し、皇帝を号してクスコへ進軍せんとしていたところでした。ピサロはこれを聞いてアタワルパに謁見しようと、彼の駐屯するアンデス高原の都市カハマルカへ向かいます。1532年9月、ピサロたちはカハマルカに到着し、通訳を通してアタワルパに「キリスト教に改宗せよ、拒否すれば敵だ」と申し出ますが、アタワルパは当然拒否し、「お前たちが我が国に駐留することを許可しない」と答えました。
11月、ピサロはこれを口実としてアタワルパに宣戦布告します。皇帝は「どんな権威でそんなことを言えるのか」と使者に問うと、使者はキリスト教の聖書を示し、「この中の言葉に由来する」と答えました。インカ帝国には文字が存在しなかったため、皇帝は聖書を耳に当てると、「なぜ喋らないのか」と言って地面に投げ捨ててしまいます。使者は「神への冒涜だ!」と叫び、スペイン兵は火縄銃を構えアタワルパの兵士らに一斉射撃しました。
アタワルパの兵士らは銃弾に倒れ、轟音と火と煙に驚いて浮足立ちます。さらに騎兵が剣を抜いて襲いかかり、慌てふためいた兵士らを散々に蹴散らしました。アタワルパは逃げ出すこともできず、輿から引きずり下ろされてあっさり捕虜となってしまいます。やむなくアタワルパは「お前たちは金銀が欲しいのであろう」といい、身代金として自分が幽閉された牢獄いっぱいに金銀を満たしてみせます。ピサロたちは驚きましたが、目先の黄金に目がくらんでは大事をしくじります。彼はコルテスがモクテスマを幽閉し、その権威でアステカ帝国を支配しようとしたように、アタワルパを傀儡として用いてペルー王国/インカ帝国を合法的に支配しようとしていたのですから、釈放するわけにはいきません。金銀は受け取りますが退去もしません。
そうこうするうち、クスコからは皇帝ワスカルが従者によって暗殺されたとの報告が届きます。アタワルパは唯一の皇帝になったわけですが、ピサロらスペイン人に幽閉されたままで、その権威には疑問符が付きます。各地の総督や将軍たちも従ったものかと戸惑い、スペイン人を皆殺しにして皇帝を奪還すべしと騒動を起こし始めました。そこでピサロは「アタワルパは偶像崇拝を行い、兄を暗殺した罪人である」と喧伝し、彼を火あぶりの刑に処すと勝手に判決を言い渡します。恐れたアタワルパはキリスト教の洗礼を受けて改宗しますが、罪は罪であるとして1533年7月に絞首刑とされました。
ピサロらは傀儡皇帝としてトゥパック・ワルパを擁立しますが、まもなく天然痘で死んだため、新たにマンコ・インカ・ユパンキを擁立します。ピサロはこの皇帝を擁して帝都クスコに無血入城し、1534年に皇帝に即位させました。当然キリスト教に改宗させており、インカ帝国はスペインの属国として存続しますが、あまりのことに従わない先住民も多々おり、不穏な動きを見せていました。となると、新たな拠点が必要となります。
1535年1月、ピサロはクスコから西へ赴き、太平洋に面したリマック川の河口部に新たな植民都市「ラ・シウダード・デ・ロス・レイェス(諸王の街)」を建設しました。現在のペルーの首都リマです。内陸高地のクスコはパナマから遠いですが、沿岸部に拠点があれば補給もラクで、先住民が襲撃してきても艦砲射撃で追い払えるため安心です。パナマとリマを繋ぐ港町や拠点となる植民都市も点々と置かれ、キトやクエンカ、カハマルカなどにもスペイン人の入植が進められていくこととなります。
アルマグロはピサロとともにクスコに入った後、領有権を巡って争いとなり、スペイン王室に調停を求めます。1534年、スペインは新たに征服された「ペルー王国」を二つに分け、キトからクスコまでを「ヌエバ・カスティーリャ」としてピサロに、クスコ以南を「ヌエバ・トレド」としてアルマグロに与えました。アルマグロはやむなくクスコの南を探検することとし、1535年にクスコを出発して、チチカカ湖を経てアンデス山脈を南下、現在のボリビアやチリの北部にまで到達しました。
インカ皇帝マンコ・インカ・ユパンキは、この隙にクスコを脱出すると先住民を煽動し、スペイン人を駆逐すべく兵を挙げます。しかしクスコはスペイン派インカ皇族パウリュ・トゥパック・ユパンキらに守られて陥落せず、探検から帰還したアルマグロがパウリュを新たな皇帝に擁立します。マンコ・インカ・ユパンキらは険しい山中に逃れてヴィルカバンバに都を置き、その子孫は1572年まで亡命政権としてスペインへの抵抗を続けました。
アルマグロはクスコに入るとピサロの兄弟を捕虜として拘束したため、リマにいたピサロは激怒し、クスコへ軍隊を派遣して戦わせます。スペイン人同士の内戦の末、アルマグロは1538年に処刑されますが、ピサロもスペイン本国から反逆者とみなされ、1541年にアルマグロの息子によって暗殺されます。その後もピサロ派とアルマグロ派による抗争が続いたものの、やがてスペインから来たペルー総督(副王)に制圧されました。
アンデス山脈では古来各地に鉱山が存在しており、スペイン人はそれらを再利用したり発見したりして、莫大な金属資源を獲得していきます。メキシコでも鉱山開発が進められ、スペイン本国には新大陸の金銀が流れ込みました。これは日本の金銀とともに世界経済を揺るがし、「価格革命」へと繋がりました。それについて見る前に、まずはスペインへ戻りましょう。
◆黄金◆
◆神威◆
【続く】
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