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【つの版】度量衡比較・貨幣94

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 天下人となった徳川家康は、各地の金山・銀山を幕府直轄領とし、金座・銀座を設立して貨幣を鋳造・流通させました。こうした経済政策を担ったのが大久保長安ながやすという人物です。彼の生涯を見ていきましょう。

◆黄◆

◆金◆

大蔵長安

 長安は天文14年(1545年)頃の生まれで、大和金春座の猿楽師の出自であったといいます。父は金春七郎喜然、あるいは大蔵大夫十郎信安といい、畿内の戦乱を逃れて甲斐の武田氏に身を寄せた人物でした。先祖の金春禅竹は世阿弥の娘婿で秦河勝の末裔と称し、その傍系が大蔵氏とされます。猿楽師は白拍子らとともに各地を放浪し、情報収集を行う間諜/忍びの役目も担いましたから、大蔵大夫もそうした連中の一人だったのでしょうか。

 長安は幼名を藤十郎、のち十兵衛といい、兄の新之丞とともに武田信玄に仕えました。信玄は彼らを士分に取り立て、武田氏傍流にあたる譜代家老の土屋昌続の与力(寄騎・家来)に任じ、姓を改めて土屋氏とし、新之丞に土屋直村(のち新蔵)、十兵衛に土屋長安と名乗らせました。ただ土屋昌続が桓武平氏三浦流土屋氏(史料上は「𡈽屋」)を名乗ったのは永禄9年(1566年)閏8月の書簡が初出で、それまでは金丸氏でした。とすると長安が土屋氏を名乗ったのは20歳過ぎからとなります。

 彼は武家になったものの、直接戦場に出ることはない「蔵前衆」に任じられ、蔵前衆組頭・田辺太郎左衛門を上司として甲斐の黒川金山などの鉱山開発や武田氏直轄地の政務・税務等に携わっていました。元亀4年(1573年)に信玄が没すると子の勝頼に仕えますが、天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いで土屋昌続と兄の直村が戦死してしまいます。天正10年(1582年)に武田氏は織田信長に滅ぼされますが、同年に本能寺の変が起きて信長も死に、旧武田領は混乱に陥ります。

 この時、家康は旧武田家臣らに調略を行って甲斐を接収し、長安もそのまま家康に従いました。彼は家康の譜代の重臣・大久保忠隣の与力とされ、忠隣の叔父・忠為の娘を正室に娶って大久保の姓を授かり、甲斐国の内政再建を行っています。長安が1545年生まれとすれば、この頃37歳です。

天下代官

 天正18年(1590年)に秀吉が小田原北条氏を滅ぼし、家康が関八州に移封されると、長安は四人の関東代官頭(奉行)の一人に任じられ、土地台帳の作成を行います。さらに100万石に及ぶ家康直轄領の事務差配を任されました。翌年には甲斐と武蔵の境の八王子に8000石(実質9万石とも)の所領を与えられて陣屋を置き、甲州街道を整備して宿場や堤防を建設し、18人の代官と500人の同心(武田遺臣)を率いて国境警備に当たりました。慶長4年(1599年)には同心の数が倍に増やされています。同年には家康の六男忠輝と伊達政宗の娘・五郎八姫の結婚交渉を取り持ちました。

 慶長5年(1600年)9月には関ヶ原の合戦が起きますが、長安は中山道を進み信州上田城を攻める秀忠軍の補給を担っています。戦後に大和代官に任じられ、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、翌年春に甲斐奉行、8月に石見奉行、9月に美濃代官を兼任します。慶長8年(1603年)2月に家康が征夷大将軍に任命されると、長安は従五位下・石見守に叙任され、忠輝の附家老に任じられます。また7月には佐渡代官、12月には所務奉行・年寄(後の勘定奉行・老中)に列せられ、慶長10年(1605年)には普請奉行、翌年には伊豆奉行となりました。

 これら全ての役職を兼務した長安は、石見・佐渡・甲斐・伊豆など日本全国の主要な金山・銀山および家康の直轄領を統轄し、絶大な権勢を保有しました。嫡男の藤十郎は関ヶ原の戦いの後に奈良奉行となり、信濃松本城主・石川康長(数正の子)の娘を正室に迎えています。次男の権二郎(外記)は池田輝政の養女を娶り、三男の権之助(成重)は奉行衆の青山成国の養子となり、娘の美香は服部半蔵正成の子正重に嫁いでいます。彼の父正成は慶長元年に没しており、正重は義父とともに佐渡金山で同心として活動しています。ついでに当時の各地の鉱山を見ていきましょう。

石見佐渡

 石見銀山は周防の大名・大内氏によって開発され、尼子氏との争奪の後、毛利氏によって引き継がれました。天正9年(1581年)頃の銀山の年間納所高は3万3072貫(1貫=1000匁=3.73kgとして123トン余)=3652枚(1枚≒33.78kg≒900匁余)といいます。信長の公定価格では銀1匁≒47文(4700円)ですから、3652枚×900匁=328万6800匁≒154.48億円にも相当します。海外からも銀を求めて商人が訪れ、銀山周辺は大いに賑わいました。

 天正12年(1584年)に毛利輝元が秀吉に服属すると、石見銀山は秀吉と輝元の共同管理とされ、朝鮮出兵などの資金源とされます。関ヶ原の戦いで輝元を総大将とする西軍が敗北すると、家康は輝元を周防・長門二ヶ国に減封し、石見銀山に大久保長安らを派遣して周辺地域5万石相当を幕府直轄領とします。長安は各地に山師(鉱山経営者)を派遣して開発を進め、慶長7年(1602年)には4000-5000貫もの銀を運上(納入)したといいます。

 平安時代末期の『今昔物語集』に「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」という段があります。鎌倉時代前期に成立した『宇治拾遺物語』にも同じ話が記載されており、この頃には佐渡に金が出ることは知られていたようです。鎌倉幕府は本間氏を佐渡国守護代に任じ、佐渡ヶ島南西部の西三川の河川から砂金をすくい取らせました。

 寛正元年(1460年)頃に尾張国から来た山伏が西三川の金山の位置を見定め、やがて山麓の土を掘り返して沈澱していた砂金を採掘する手法が開始されます。天文11年(1542年)には佐渡ヶ島西部の鶴子に銀山が発見され、これらの金銀は越後守護代の長尾為景、その子・景虎(上杉謙信)の勢力拡大にも用いられました。天正17年(1589年)、謙信の子・景勝が佐渡本間氏を平定すると、景勝の後ろ盾の秀吉により技術者が佐渡へ送り込まれ、金山や銀山の本格的な鉱脈採掘が始まります。景勝は慶長3年(1598年)に会津へ移封され、佐渡は家臣の河村吉久が代官として治めました。

 関ヶ原の後、景勝は会津から出羽国米沢に減封となり、河村吉久は引き続き佐渡代官として家康に服属しますが、慶長8年(1603年)に「重税を課した」として罷免されます。そして長安は家康の命を受けて佐渡代官となり、金山・銀山の開発と統治を引き受けます。当初は鶴子に陣屋が置かれましたが、長安は南の相川(現佐渡市相川広間町)に陣屋を遷しています。

 佐渡の金山・銀山の産出量は当時の世界でも有数で、江戸初期の最盛期には年間に金400kg以上、銀37.5トン(1万貫)が納入されたといいます。16世紀末の西三川の笹川では月に金大判18枚(2.9kg、1枚=10両≒161g)が税として納められていたといいますから年間216枚(34.8kg)で、1枚15万円としても3240万円に相当します。鉱山労働は重労働でしたが高賃金で、周辺の町村は非常に賑わいました。当初は通常の村人や町人が応募して働いており、犯罪者や無宿人が強制労働に当てられたのは18世紀後半以後です。次第に産出量は減少したものの、佐渡は幕末まで江戸幕府の財政を支え、明治維新後は西洋の近代技術が導入されて戦後まで採掘が続けられました。

長安事件

 かくも権勢を誇った長安でしたが、寄る年波には勝てませんでした。慶長17年(1612年)7月、68歳の長安は中風(脳卒中)にかかり、家康から「烏犀円」というお手製の丸薬を賜っています。しかし病状は回復せず、代官の職務も務められなくなり、翌年4月に死去しました。

 家康は「近年代官所の勘定が滞っている」として彼の葬儀を中止させ、5月に調査を行って過分な私曲(横領)が行われていることを突き止めます。怒った家康は諸国にある長安の財貨を調査させ、金銀5000貫目や茶道具等を没収し、7月には長安の息子7人全員に切腹を申し付けました。これに連座して石川康政・青山成重らが改易となり、武田信玄の孫で長安が庇護していた信道と子の信正も伊豆大島へ流されています。

 彼の派手好みな生活を家康が見咎めたとか、大久保忠隣と対立していた本多正信・正純らの讒言だとか、伊達政宗の幕府転覆計画に加わっていたとの噂もありますが、どれもあまり信憑性が高いとは言えません。長安が握っていた権勢が大き過ぎ、家康から警戒されたことは確かでしょう。その権勢が世襲されては幕府の害となるとして、死後に排除されたというのが穏当なところかと思われます。長安が死去した頃には幕府から禁教令が出され、海外貿易も過渡期にありました。

◆金◆

◆銀◆

【続く】

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