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【つの版】度量衡比較・貨幣69

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1549年8月、イエズス会士ザビエルは薩摩に上陸し、領主・島津貴久に迎えられました。翌年には薩摩を去り、平戸を経て周防に赴き、領主・大内義隆に謁見したのち、京都へ向けて出発します。彼らが日本に呼び寄せられたのは、単に宗教的情熱や友好国を求めてではありませんでした。

◆銀の◆

◆合鍵◆


石見銀山

 この頃、大内氏の領内である石見国で銀山が開発され、莫大な銀が採掘・精錬されて国内外へ輸出されています。2007年には世界文化遺産に登録された、現島根県大田市の石見銀山(大森銀山、佐摩銀山)です。

『石見銀山旧記』等に記す伝説によれば延慶2年(1309年)、周防の大内弘幸の夢に大内家の守護神・北辰妙見大菩薩が現れ「石州の仙ノ山に宝有り。汝銀をとりて外敵を排せよ」と告げました。大内氏は鎌倉幕府執権・北条氏と対立しており、蒙古に援軍を請うたものの、北条氏と和睦したため扱いに困っていたので、この銀を蒙古に渡して帰国させたといいます。

 ただ弘幸が大内氏の家督を継いだのは元応2年(1323年)で、1331-1333年の元弘の乱においては長門探題の北条時直に従って北条方につき、建武政権に疎まれて叔父の鷲頭長弘に周防守護職の位を奪われています。建武の新政が崩壊すると両者は共に足利尊氏につきつつも対立しています。弘幸の子・弘世は鷲頭氏を服属させて大内宗家に守護職の位を取り戻し、貞治3年(1364年)に石見国守護職を兼ねました。蒙古云々とかいうのは元弘の乱を元寇と間違えたのでしょうか。どのみち不確かな伝説に過ぎませんが。

 本格的に銀山開発が始まるのは、16世紀の博多の商人・神屋寿禎によります。彼は出雲国の鷺銅山(出雲市大社町鷺浦)へ海路で向かう途中、海上で「山が光る」のを見て鉱山があることを察知し、大永6年(1526年)に大工や掘り師を率いて大森銀山の採掘を開始しました。

 この頃、出雲の守護大名・尼子経久は大内義興と石見国を巡って争っていました。享禄元年(1528年)に大内義興が逝去し義隆が後を継ぐと、経久は混乱に乗じて大森銀山を制圧させますが、享禄4年(1531年)には大内氏側の小笠原氏に奪還されています。天文2年(1533年)、神屋寿禎は朝鮮から吹大工の宗旦、桂寿らを招き、「灰吹法」を導入しました。

 まず鉱石を融けた鉛に入れ、化合させて合金を作らせたのち、灰を混ぜた耐熱性皿(キューペラ)で空気を通しつつ(灰を吹いて)加熱します。すると酸化した鉛が融けて多孔質の灰に吸収され、金や銀が粒状になって灰皿の上に残ります。これが灰吹法という金銀の精錬法で、さらに硫黄を加えれば銀が硫化して金と分離されます。この方法は遥か紀元前数千年のシュメール文明時代に遡り、中東や欧州では古来長く用いられ、日本には7世紀後半に伝来し、対馬でも13世紀頃まで行われていました。

 精錬法には水銀を用いるアマルガム法もありますが(中東や欧州の錬金術、チャイナの煉丹術で水銀を重んじたのはこのためです)、水銀は鉛より希少ですし、ともに有毒な金属蒸気を放ち、作業者の健康を損ないます。また木材を大量に消費します。このためか中世日本では金銀の精錬があまり行われなくなり、砂金や銀鉱石をそのまま輸出していたようです。神屋寿禎はこの灰吹法を再導入し、銀の精錬を再開したのです。

 技術者が朝鮮にいたのは、15世紀後半頃から朝鮮でも銀山開発と精錬が進められていたためです。隣の明国では銀が事実上の基軸通貨となっており、世界的にも国際通貨として流通していました。対馬にも銀山があったのですから、目端の利く倭寇や商人たちが結託して開発していたのでしょう。

 採掘・精錬を同じ場所で行い、川を通じて積出港である温泉津ゆのつも近い大森銀山は、莫大な国産の精錬銀を生み出すことになりました。作業員は劣悪な労働環境によりバタバタと死にますが、補ってあまりある利益をもたらしたのです。この利益を狙って、天文6年(1537年)に尼子経久は再び大森銀山を攻め取りました。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後(天文10年/1541年)には小笠原氏が大内氏から寝返って銀山を奪います。

 同年に尼子経久が没し、家督を5年前に相続していた息子の晴久が単独の当主となると、翌年大内義隆は大軍を率いて出雲へ遠征し、尼子氏を滅ぼそうとします。しかし配下の寝返りに遭って大敗を喫し、周防へ逃げ帰りました。これで大内氏は衰退し、石見国の東半分は銀山ごと尼子氏のものとなったのです。ザビエルが周防に来たのはこのような時でした。

 精錬された銀は棒状に加工され、匁(3.73g)や両(4.3匁=16g/小両)を単位として取引されました。大内氏時代は博多へ運ばれましたが、尼子氏時代には博多は敵国ですから、海路で出雲へ運ばれたのち、若狭を経て畿内へ向かうことになったのでしょうか。しかし大消費地で国際交易港の博多は無視できませんし、そちらを介して明国や朝鮮、琉球や東南アジアにも達したでしょう。ポルトガル人は倭寇を介してこの話を聞きつけ、ついに日本に到来したのかも知れません。

 なお1542年には但馬国の生野で銀山が発見され、尼子氏と対立していた山名氏が開発を進めていますが、採掘や精錬の技術者は石見から呼び寄せられています。当時はまだ大内氏側なので技術者を提供されたのでしょう。

悪貨撰銭

 この頃、日本には大量の明銭が遣明船や倭寇によってもたらされていましたが、その値打ちは古い宋銭よりも低く評価されていました。明国では経済成長に貨幣発行が追いつかず、銀も銅も国内では不足となり、地方政府や私鋳銭業者による低品質な銅銭が大量に出回るようになっていたのです。また日本でも私鋳銭が横行し、高額取引には銭より銀が好まれました。

 大内氏は1485年に「撰銭えりぜに」を領内に発布し、粗悪な銭(悪銭/びた銭)や私鋳銭(堺銭・洪武・打平など)を排除するよう命令しています。また明銭のうち永楽通宝と宣徳通宝は比較的高品質なため「3割は混ぜて使ってよいが、納税の際は2割までにせよ」と命じています。1500年から1513年までは室町幕府(細川・大内政権)でも毎年撰銭令が出されましたが、ここでは日本の銭ではなく渡来銭を「宋銭・明銭の区別なく」用いよと命じています。1542年には奈良の興福寺が宋銭と明銭を対等に評価しました。どのみち銭がなければ経済が回りませんから、明銭のうちでも永楽通宝は良銭として、主に東国で受け入れられていくことになります。

 この頃の物価や労賃等については後でまとめますが、労働者の日当がおおむね100文として、これが現代日本の1万円であれば1文が100円です。1貫文は1000文なので10万円になります。悪銭は精銭(撰銭後の良銭)の何分かの1で、受け取られなければゼロです。16世紀初頭には銀10両=43匁(160g)=銭5-6貫文(50-60万円)といいますから、1両(16g)=4.3匁=銭500-600文=5-6万円。とすると銀1匁≒1.1-1.4万円ほどで、目減りや品質も考慮するとだいたい万札に相当します。これがザクザクと湧き出たのですから、大名たちは必死で銀山を争奪し、交易商人を呼び寄せていたわけです。

銭1文:100円 鐚銭は半値以下
銀1匁:1万円 100文、労働者の日当ほど
銀1両:5万円 銀4.3匁ほど
銭1貫:10万円 1000文≒銀10匁

わかりやすくするとこうなります。

◆銀◆

◆魂◆

【続く】

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