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【つの版】ウマと人類史:近代編22・印度反乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1853年に始まったクリミア戦争は、ロシアと英仏・オスマン帝国の連合軍による世界大戦でした。戦場はバルカン半島やクリミアにとどまらず、西はバルト海から東は極東にまで及んでいます。

◆Naatu◆

◆Naatu◆

機雷投入

 西のバルト海では、北欧のスウェーデンがフィンランドの奪還を目指して対ロシア政策に傾きます。参戦には慎重で武装中立主義を継続したものの、英仏はスウェーデン領ゴットランドを軍事基地として利用し、オーランド諸島にまで迫りました。1854年後半には3隻の英国艦隊がスカンジナビア半島北方を回って白海に現れ、各地で艦砲射撃を行っています。

 これに対し、ロシアのバルチック艦隊は最新型の電気式機雷をフィンランド湾に浮かべ、敵艦隊の侵入を阻みました。これはプロイセン出身のユダヤ系物理学者モーリッツ・フォン・ヤコビが開発したもので、錨で海底に結び付けられ、海岸から電力を供給するガルバニ電池とケーブルで接続されており、艦船が接触すれば爆発する仕組みです。

 機雷のアイディアは古くからあり、電気装置で起爆するものも19世紀前半にはロシアや米国で開発されていますが、実戦に投入されたのはこれが初めてでした。スウェーデン出身のイマニュエル・ノーベル(アルフレッド・ノーベルの父)もこの時ロシアに機雷を売りつけていますが、敷設途中に爆発事故を起こすなど欠陥が多く、ヤコビの機雷にとってかわられています。

 スウェーデンはこれらの機雷を恐れたためもあり、思い切って参戦できませんでした。ロシアの敗色濃厚となった1855年にようやく参戦を宣言しますが、これを機会にロシアも英仏も講和に傾き、結局スウェーデンはこの戦争で何も得られずに終わります。しかしロシア側につかなかったことで、バルト海にロシア軍が進出することは抑えられました。イマニュエルは他にも兵器をロシアに売り込んでいて巨利を得たものの、戦後の軍事費削減のあおりを食って経営破綻に追い込まれ、スウェーデンに帰国しています。

東方戦線

https://en.wikipedia.org/wiki/File:The_Armenian_Front_During_the_Crimean_War,_1853-56.gif

 カフカース方面では、1853年10月末にオスマン軍とロシア軍の戦闘が開始されています。オスマン帝国の軍事拠点カルスには英国人将校フェンウィック・ウィリアムズらが守備隊を率いて駐屯していましたが、11月末に黒海南岸の港湾都市シノプがロシア艦隊に襲撃され、補給を絶たれてしまいます。1854年3月に英仏が参戦すると、イランはロシアと秘密協定を結んで中立を保ち、カフカース戦線は一進一退の膠着状態となります。さらに両軍には疫病(コレラ)が蔓延し、多くの兵士がバタバタと倒れていきました。

 1855年6月、ロシア軍はついにカルスを包囲します。カルスはウィリアムズらの指揮のもと抵抗を続けますが、疫病と飢えと寒さに苦しめられ、11月8日になってついに降伏します。ロシアはウィリアムズを鄭重に扱って帰国させ、講和交渉によってセヴァストポリとカルスを交換し、クリミアにおける最重要な軍港を失わずに済みました。

門教勃興

 ロシアと英国の狭間で圧迫され、急激に近代化を進めていたイランでは、社会不安から終末論カルトが流行し、救世主(マフディー、イマーム)がもうすぐ現れると喧伝されていました。シーア派はもともと救世主願望の傾向が強いのですが、まずイランの国教であるシーア派の十二イマーム派から19世紀初頭にシャイヒー派(シェイク派)が現れ、予言されし救世主の再臨が近いと唱えます。1844年にはシーア派の聖地カルバラーにおいてシャイヒー派のミールザー・アリー・モハンマドが「我こそ救世主、神の門なる預言者なり」と唱えてバーブ(門)と自称、バーブ教の開祖となりました。

 この教団はスンニ派のオスマン帝国からもシーア派のイランからも異端とみなされ、激しく迫害されますが、社会不安に乗じて多くの信者を獲得しました。教祖のバーブは1845年にシーラーズで逮捕され、5年後に処刑されますが、残った信者らは武装蜂起して各地でテロを起こし、1852年にはイラン皇帝ナーセロッディーン・シャーの暗殺未遂事件まで起こしています。怒った皇帝はバーブ教を激しく弾圧し、残党はオスマン帝国側へ逃れ、その一部はのちに新興宗教「バハイ教」を起こしました。

 このこともあってナーセロッディーンは保守反動の専制君主となり、クリミア戦争においてはロシアと手を組み、1855年に英国と友好条約を結んだアフガニスタンからヘラートを奪還すべく1856年に戦争を起こしています。英国はインドから軍隊を送り込んでこれに対抗し、イラン南部の港ブーシェフルを攻め落としてイラン軍を撤退させました。やむなくイランは1857年に英国と講和し、ヘラートをアフガニスタン領と認めます。

 アフガニスタンの君主ドースト・ムハンマドはドゥッラーニー部族連合のうちバーラクザイ部族の出身で、第一次アフガン戦争で英国と敵対した本人ですが、ヘラートに割拠していた前王家のサドーザイ部族を制圧するため英国と手を組みます。イランがヘラートに進軍したのはこの状況に乗じてのことですが、英国の支援でイランが撤退したため、ヘラートはドースト・ムハンマドの軍門に降りました。また1855年には兄の死に乗じてカンダハールを制圧しており、現在のアフガニスタンの領域は彼の代にほぼまとまります。

印度反乱

 一方インドでは、この頃に全土で対英国の大反乱が勃発しています。これは英国のインド総督ジェイムズ・ラムゼイが藩王国を次々と取り潰して併合していたせいでした。1849年にはパンジャーブのシク王国が対英戦争に敗れて滅ぼされ、同年にはサーターラー、サンバルプルが、1854年にはジャーンシー、ナーグプルが、1855年にはタンジャーヴールが「無嗣改易」として取り潰されます。また領土を失った元君主らへの年金を停止し、英国軍駐留費の不払いを理由にベラール地方をニザーム藩王国から奪い、1856年には北インドのアワド藩王国を取り潰して併合しました。これによりインドの政治的統一は進み、鉄道や道路、橋や運河、郵便や電信などインフラの整備も行われましたが、インドの人民には大きな不満が鬱積することとなります。

 ラムゼイが総督の任期を勤め上げて帰国した翌年、1857年5月に、デリー近郊のメーラトでインド人傭兵シパーヒー(セポイ)の反乱が勃発します。彼らはヒンドゥー教徒とイスラム教徒(ムスリム)の混成でアワド出身者が多く、英国の政策に不満を抱いていましたが、きっかけは彼らの装備として配備されたエンフィールド銃に関しての噂でした。

 この銃は最新式のライフリング(施条、銃腔内に螺旋状の溝を彫って命中精度と飛距離を高める)を施されていましたが、火薬と銃弾を紙製薬莢(弾薬包)に詰めたものを歯で引きちぎって装填する必要がありました。この弾薬包は防水と潤滑のため油脂でコーティングされており、これが「牛と豚の脂ではないか」と噂され始めたのです。

 シパーヒーのうちヒンドゥー教徒は、シヴァ神の聖獣である牛を食べることを禁忌としていますし、イスラム教徒は豚を忌み嫌っています。それを噛みちぎるとなると、彼らは穢れた者としてムラハチを受けるというのです。英国側は「蜜蝋や樹脂、羊の脂であるから安心せよ」と告げますが、シパーヒーたちはあまり信じず、噂が噂を呼んで陰謀論が広まります。

 1857年5月、メーラトで武装蜂起した反乱兵らは、翌日にはデリーに駆けつけて同じシパーヒーを味方につけ、駐留英軍を駆逐しデリーを占拠しました。そして英国の傀儡となっていた82歳のムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を担ぎ上げ、対英戦争を要求したのです。皇帝はやむなく彼らに従い「ヒンドゥスターンの皇帝」として英国に宣戦布告しました。これを機としてインド中の王侯・地主・農民・都市住民ら反英勢力が一斉に蜂起します。

 これら反英勢力のうち特に有名なのが、インド中部のジャーンシ―藩王国の王妃ラクシュミー・バーイーです。カーンプル、ビハール、アワドなどでも王侯や領主らが私財を投じて私兵を集め、熱狂的な支持を集めました。デリーにはアフガン系の武将バフト・ハーンが入城して総大将となり、反乱は北インドを中心としてインド全土の3分の2に燃え広がります。

 もともと英国は海外からの侵略者で、ムガル皇帝を傀儡化してインドを支配し、富を収奪して横暴に振る舞っていたのですから、因果応報もいいところです。アヘン戦争に用いられたアヘンだってインドで英国が作らせていたものです。インド人はまさに「攘夷」を旗印として正義の戦いに立ち上がったのです。このまま邪悪なる英国の支配は打破されるかに思われました。

 しかし、英国は諦めませんでした。反乱軍は極めて多種多様な勢力の混沌たる集まりに過ぎず、指導権を巡って内紛を始めます。英国はこれを煽って分断させ、政治工作を行って親英派を増やし、大半の藩王国を再び味方につけることに成功します。またシパーヒーの代わりにネパール王国の勇猛なグルカ兵を雇い入れ、アフガニスタンとも同盟し、ムガル皇帝が籠るデリーに兵力を集中させます。同年9月に英軍はデリーを陥落させ、ムガル皇帝は英国に投降しました。武装と組織力に勝る英軍は各地の反乱を次々と鎮圧し、インド大反乱は僅か2年足らずで平定されてしまったのです。

 バハードゥル・シャー2世は退位させられ、ムガル帝国は名実ともに消滅します。また英国東インド会社も反乱の責任を負わされて解散させられ、インドは英本国による植民地として直接統治されることとなりました。これが英領インドです。もとのベンガル総督はインド総督(副王)とされ、カルカッタに首都を置き、藩王国は間接統治の具として温存されます。少数の英国人が圧倒的多数のインド人の上に君臨することはこれまでと変わりません。

 そしてほぼ同じ頃、英国はフランスとともに清朝との戦争(アロー戦争)を行い、屈服させています。これには北方のロシアも介入し、清朝は領土を切り取られ、半植民地状態に陥るのです。

◆Etthara◆

◆Jenda◆

【続く】

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