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【つの版】ウマと人類史:近代編21・英露大戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1853年10月、南下を狙うロシア帝国とオスマン帝国との間に何度目かの戦争が勃発します。英国とフランスはオスマン帝国を支援し、世界各地で対ロシア戦争が始まりますが、主戦場の名を取ってクリミア戦争と呼ばれます。

◆伝◆

◆説◆

露土開戦

 バルカン半島や黒海沿岸部の帰属を巡って、ロシア/モスクワとオスマン帝国/トルコは16世紀以来何度も刃を交えてきました。かつてピョートル大帝がオスマン帝国の捕虜になるなど苦戦したロシアも、いまや欧州列強と肩を並べ凌駕するほどの軍事大国です。また各地に工作員を送り込み、ロシア側のプロパガンダを喧伝して世論を巻き込もうとすることも、今も昔も変わりません。特にロシア皇帝は正教徒の庇護者として振る舞っていますから、オスマン帝国内の正教徒やギリシアに強い影響力を持ちます。

 1853年7月、ロシアは「正教徒の庇護と解放」を行うと称して、オスマン帝国を宗主国とするモルダヴィア、ワラキアに宣戦布告なしで進駐します。オスマン帝国はドナウ南岸に軍隊を集め、英国など西欧諸国を介して交渉を進めますがうまくいかず、ついに10月に宣戦布告なくドナウ川を渡ってワラキアに進軍します。互いに自分のシマだと考えていますから、戦争ではなく特別軍事作戦とかそういうことになりますね。

 ロシアは砲兵をドナウ河岸に集めてオスマン艦隊を撃破し、ドナウを南へ渡って侵攻を開始します。ギリシア、マケドニア、ブルガリアなどでもロシアの援助を受けた反トルコ勢力が「義勇兵」として武装蜂起し、オスマン軍をバルカン半島において南北で挟撃します。ギリシア王国は当然反トルコ・親ロシア派で、義勇兵に対して軍事援助を行いました。

 オスマン帝国が滅んでロシアが地中海にまで進出すれば、英国はインドとの貿易路をエジプト経由で結んでいますから、自由貿易のためのシーレーンが脅かされて国家存亡の危機です。フランス皇帝ナポレオン3世も、英国の支援と経済援助で国家を維持していますから一蓮托生です。両国はやむなく艦隊を派遣しますが、ロシア軍と直接戦うのは避け、ギリシア人義勇兵への輸送を遮断します。各地で輸送船が撃沈され、主要港が封鎖されて、ギリシア王国は義勇兵への援助を打ち切らざるを得なくなります。ブルガリアの反政府組織も徹底的に弾圧を受けて壊滅し、オスマン帝国はどうにかロシア軍をドナウの北までは押し戻しました。

英仏参戦

 ドナウ川戦線の膠着を続けながら、ロシア艦隊は東のアナトリア半島北岸に押し寄せ、港湾都市スィノプ(シノプ)を襲撃、一方的な艦砲射撃を行いました。オスマン帝国の黒海艦隊はこの奇襲を受けて総崩れとなり、壊滅してしまいます。これにより黒海の制海権はロシアのものとなり、西側マスメディアは「ロシアがシノプで虐殺を行った!」と喧伝、世論を対ロシア強硬論へ誘導します。1854年3月、英国とフランスはオスマン帝国と軍事同盟を締結、ロシア帝国に宣戦布告しました。

 英仏・オスマン帝国連合軍は、まずブルガリア東部のヴァルナに軍隊を上陸させてオデッサ(オデーサ)攻略を目指しましたが、オーストリア帝国は軍隊を国境に差し向けて陸路での進軍を阻みます。オーストリアはロシアともども王権神授・絶対王政を国是としており、自由主義・国民主義を弾圧していたため、事実上ロシア側についたのです。反オーストリアのイタリア統一運動にフランスが関わっていたこともあるでしょう。

 やむなく連合軍は目標を変更し、クリミア半島南部にあるロシア黒海艦隊の基地セヴァストポリに向かうこととします。ロシアもここを落とされればおしまいですから要塞化して必死に守り、包囲戦は1年近くも続きました。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Crimean-war-1853-56.png
https://en.wikipedia.org/wiki/File:March_to_Sevastopol_1854.png

 1854年9月14日、セヴァストポリ北方のエウパトリヤ(エフパトリア、イェウパトーリヤ)に上陸した連合軍は、9月20日にアルマ川のほとりで劣勢なロシア軍を打ち破り、セヴァストポリを陸側から包囲します。10月17日に陸と海から砲撃が開始されますが、ロシア軍は港湾に船を沈めて封鎖し、救援部隊を派遣して連合軍と果敢に戦います。10月25日にはバラクラヴァの連合軍基地へ攻撃をかけ、11月5日には東のインケルマンで野戦を行いますが連合軍に被害を与えたものの撃退はかないませんでした。

 連合軍も現地の民兵やコサックに奇襲を繰り返され、不慣れな天候と寒さに苦しみ(目出し帽をバラクラヴァ、毛糸編みの前開きの上着をカーディガンと呼ぶのはこの戦争にちなみます)、偽情報に撹乱されて膠着状態に陥ります。英国では新聞で戦争の様子が報道され、国内では厭戦ムードが広がりますが、かの看護婦フローレンス・ナイチンゲールは傷病兵の酷い扱いに発奮して従軍を申し込み、後方基地のあるスクタリ(イスタンブールのアナトリア側)に1854年11月に到着しています。彼女は不潔極まる野戦病院の衛生化を推し進め、死亡率は劇的に減少したといいます。

 トロイアの発掘で有名なハインリヒ・シュリーマンも、クリミア戦争に関わった人物のひとりです。彼はドイツ出身で、オランダの貿易商社に入って貧困から成り上がり、1846年にサンクトペテルブルクに商社を設立、翌年にはロシア国籍を取得しています。またゴールドラッシュに湧くカリフォルニアにも商社を設立し、クリミア戦争に際してはロシアに武器を密輸して巨万の富を得ています。のち1865年には日本を訪れ、ギリシアに移住したのち、1870年からオスマン帝国領内で勝手にトロイの丘の発掘を行いました。一種のコスモポリタンですが、怪しげな人物ではあります。

軍用鉄道

 勝敗を分けたのは、産業革命を果たした英国の工業力でした。英国の鉄道敷設請負業者サミュエル・モートン・ペトは、英国の基地バラクラヴァからセヴァストポリを包囲する前線までは14マイル(23km)ほど離れており、しかも急勾配の台地があって兵士や物資の輸送に難渋しているとの情報を新聞から掴みます。そこでペトは同業者のエドワード・ベッツトーマス・ブラッシーらと提携し「私財を投じて鉄道建設を行う」と申し出、必要な人員や物資を積んだ船をバラクラヴァへ送り込みました。

 1855年2月に船が到着するや、工事は急ピッチで行われ、僅か7週間で7マイル(11km)の線路が敷設されます。この軍用鉄道によって、傷病兵や新たな兵士、軍需物資が豊富に陸上を往来することが可能になり、セヴァストポリ包囲戦は連合軍の優位に傾き始めます。この功績によって三人の業者は世界的に有名になり、鉄道敷設の注文を受ける際にも有利になったのです。

 連合軍は300門の大砲を設置して4月8日から砲撃を再開し、艦隊の一部は別働隊としてケルチ海峡を抜けてアゾフ海に侵入、ドン川河口部の港湾都市タガンログを攻撃しています。こうした作戦の末、ついに9月には守りきれなくなったロシア軍がセヴァストポリ要塞から撤退します。しかしさしもの英国も財政破綻に追い込まれ、フランスともどもロシアとの停戦交渉に乗り出すこととなりました。ロシアでは皇帝ニコライ1世が1855年3月にインフルエンザで崩御しており、息子アレクサンドルが後を継いでいます。

 そして「クリミア戦争」の戦場は、クリミアだけではありませんでした。開戦の理由となったバルカン半島やギリシアはもちろん、オスマン帝国本土であるアナトリア半島、カフカース地方、バルト海や白海、遠く極東でも、連合軍とロシアとの戦争が行われています。クリミア戦争はロシアと英国による世界大戦であり、世界史の転換期となったのです。次回はこれらの戦線についても見ていきましょう。

◆大英◆

◆帝国◆

【続く】

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