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【つの版】ウマと人類史:近代編20・帝政復活

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 アヘン戦争終結から12年後、日本はアメリカの砲艦外交に屈して開国しました。そしてこの頃、世界も大きな変革期を迎えています。欧州では1848年革命やクリミア戦争、米国では南北戦争、清朝では太平天国の乱が勃発し、その影響は日本にも及ぶこととなります。

◆三◆

◆世◆

欧州革命

 欧州ではジャガイモ飢饉や金融恐慌の影響により、1848年から翌年にかけて諸国で革命が勃発していました。フランスでは1830年に成立した立憲王政が打倒されて共和政に移行し、イタリアでは反オーストリア運動が起こり、オーストリアではメッテルニヒが追放されてウィーン体制が崩壊しました。抑圧されていた民族主義や自由主義、社会主義が噴出する中、ロシアは武力でもって革命運動を徹底的に弾圧し、「ヨーロッパの憲兵」としてポーランド、ハンガリー、オーストリア、プロイセン等にも軍隊を派遣しています。

 スラヴ民族が連合して独立国家を樹立すべしとの「汎スラヴ主義」はこの頃に発生しますが、当時は反オーストリア・反ロシア色が強く、ロシアからも弾圧されたため、特にロシアの陰謀というわけでもないようです。ロシアは多民族国家であり、ロマノフ朝の皇帝は血統的にはほぼドイツ人でした。

 欧州で弾圧されたドイツ、チェコ、ハンガリーなどの自由主義者リベラリストらは難民となって祖国を離れ、アメリカ等へ亡命しました。彼らは「48年組フォーティーエイターズ」と呼ばれ、アメリカ各地に移住して自由主義思想をもたらしました。当然ながら自分たちを弾圧した保守主義者には反発し、ジャーナリズムによって各国の革命を煽ってもいます。

帝政復活

 フランスは王政から共和政に逆戻りしたものの、大統領に選出されたのは皇帝ナポレオン・ボナパルトの甥シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルトでした。彼はナポレオンの兄ルイの息子で、1808年に皇后ジョゼフィーヌの連れ子オルタンスを母として生まれましたが、ナポレオンが失脚するとパリを追放されてドイツに亡命し、バイエルンで成長しています。

 1830年の7月革命ではボナパルト家の帝政復活に期待を寄せますが、ナポレオンの息子・ナポレオン2世はオーストリア宮廷に幽閉されており、ブルジョワジーに担がれた新国王ルイ・フィリップはボナパルト家の国外追放を決定します。ルイ・ナポレオンはローマへ赴き、秘密結社カルボナリと接触してイタリア統一運動に参加しますが、教皇に警戒されてローマからも追放され、フィレンツェでの反教皇運動失敗を経てスイスに戻ります。

 その後も文筆を通じて政治活動を続け、1836年にはストラスブールでボナパルト派に担がれて反乱を起こしますが、たちまち鎮圧されて逮捕されます。ルイ・フィリップは彼をアメリカへ追放しますが、翌年に英国へ赴いて社交界でもてはやされ、「王党派と共和派の対立を終わらせるには民衆の意志を政治に速やかに反映させる『皇帝民主主義(現代的に言えばポピュリズム)』しかない」と吹聴して人気を博します。この頃フランスでもナポレオン・ブームが起き、ボナパルティズム待望論が沸き起こっていました。

 ルイ・ナポレオンはこの機に乗じて1840年にフランスへ上陸し、武装蜂起を呼びかけますが、賛同者はおらず逮捕されます。しかしナポレオンの知名度に免じて死刑とはされず、終身刑に処されてパリ北方のアム要塞に投獄されました。彼は獄中においても読書と著作に明け暮れ、各地のボナパルティストと連絡して民衆に呼びかけ、反政府活動を続けます。1846年には「父の死に目に会う」と称して脱獄に成功し、ベルギーを経て英国に渡りました。

 当時のフランスは立憲王政でしたが、政治を牛耳るのは一部のブルジョワジーばかりで、民衆は格差社会の底辺であえいでいました。さらに飢饉や恐慌が続き、ついに1848年2月には革命が勃発して、国王が退位に追い込まれます。ルイ・ナポレオンはこれ幸いとパリへ帰還し、英国や金融業者、自派に抱き込んだマスメディアの支援を受け、右翼諸派連合「秩序党」に担がれて大統領に立候補します。彼は「知名度のある無能者」を装っていたため、傀儡に出来ると判断され、1848年12月には大統領に当選します。

 彼は1849年にはローマ共和国に進軍して教皇をローマに連れ戻し、左翼の暴動を弾圧しつつ、議会にも制限を加えようとします。しかし大統領の任期は4年しかなく、議会の傀儡として終わることを恐れた彼は、1851年12月に議会を解散します。そして議員たちを一斉逮捕し、反対派を粛清・追放して独裁権力を握り、1852年12月には国民投票によって皇帝に上り詰めたのです。これがフランス皇帝ナポレオン3世です。

 この怪しげな皇帝は、ナポレオン1世を否定したウィーン体制を覆し、欧州各国の自由主義ナショナリズムを肯定しつつ、アジア・アフリカ諸国に植民地を拡大することを外交方針とします。また英国とは手を結んで自由貿易を推進しました。彼が帝位についた翌年、クリミア戦争が勃発します。

老耄大国

 1839年、オスマン帝国の皇帝に即位したアブデュルメジト1世は、父マフムト2世の遺志を引き継いで大規模な国政改革に着手します。当時のオスマン帝国は、北はロシア、南はエジプト(ムハンマド・アリー朝)に脅かされ、西のアルジェリアはフランスに征服され、ギリシアは欧州列強の圧力で独立するなど国家存亡の危機にありました。またマフムトは英国と不平等条約を結んでおり、ロシアや欧州列強とも同様の条約を結んだため、オスマン帝国は貿易自由化の波を受けて経済的に欧州に従属することとなります。

 こうした国難に対処するため、オスマン皇帝は「タンジマート(改革、再編成)」と称される諸制度の大改革、西欧化・近代化を開始します。これは「タンジマート・ハリイエ(恩恵としての改革)」ともいい、皇帝が帝国臣民に対して行うという「上からの改革」ではありましたが、行政・軍事・司法・財政・文化・教育は急激に西欧化され、中央集権が進められました。一方で「シャリーア(イスラム法)」に基づく法廷は残され、皇帝はイスラム世界の盟主の立場を堅持するという二重性もありました。

 また黒海の出入口である海峡を帝都イスタンブールが掌握しているため、ロシアは常にオスマン帝国を北方から脅かしていました。英国はロシアの地中海進出を抑えるため、西欧列強とともにオスマン帝国を支援し、1833年にロシアとオスマン帝国が結んだ「ロシアの軍艦だけは海峡を通過できる」という条約を1841年に無効とさせます。経済的にも軍事的にも、オスマン帝国は英国や西欧列強を頼らねばやっていけなくなったのです。このような状況から、老大国オスマン帝国は「ヨーロッパの病人」と呼ばれる始末でした。

 ロシアはこれに対してオーストリア、プロイセンなど中東欧諸国と手を結び、革命運動を弾圧するために出兵するなど支援を行い、オスマン帝国領の分割を虎視眈々と狙っていました。革命運動家らがオスマン帝国へ亡命した際、ロシア・オーストリアは亡命者の引き渡しを求めましたが、英仏は連合して艦隊をオスマン帝国に派遣し、この要求を撤回させています。

 またロシアはオスマン帝国内の正教徒の庇護者という権利によって、聖地エルサレムの教会の管理権を主張していましたが、フランスも古来オスマン帝国内のカトリック教徒を保護する権利を保有し、同じく管理権を主張して争っていました。1853年、オスマン皇帝は国内の正教徒の反対を押し切り、カトリック側を支持する判定を下したため、ロシアと正教徒は激怒します。

 さらに1852年には、バルカン半島西部の小国モンテネグロがオスマン帝国からの独立を宣言し、隣国ヘルツェゴビナで起きた農民反乱を支援します。当然ロシアの差し金ですが、ロシアは「オスマン帝国は正教徒を迫害している」と喧伝し、モルダヴィアとワラキアに出兵します。英国とフランスはオーストリア、プロイセンとともに仲介に乗り出し、妥協案を提示しますが、ロシアもオスマン帝国もこれを突っぱね、1853年10月に両国は交戦を開始します。ここに2年と半年に渡る「クリミア戦争」が始まったのです。

◆三◆

◆世◆

【続く】

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