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【つの版】ウマと人類史:近代編23・太平天国

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 クリミア戦争終結とほぼ同じ頃、英国はフランスとともに清朝との戦争(アロー戦争)を行い、屈服させています。これには北方のロシアも介入し、清朝は領土を切り取られ、半植民地状態に陥るのです。その前に清朝は太平天国の乱で末期状態にありました。

◆Made In◆

◆Heaven◆

拝上帝会

 アヘン戦争終結直後の1843年(清の道光23年)6月、広東省広州で洪秀全が「拝上帝会」なるキリスト教系の新興宗教を創始しました。彼は貧しい客家(中原からの移住者の子孫)の出身で、科挙及第を目指しますが三度も落第し、四度目に落第したとき広州で『勧世良言』という冊子を得ました。

 これは広東出身のプロテスタントの牧師・梁発が1832年に著したもので、聖書の内容とキリスト教の教義を漢文によって平易に説いています。彼は1809年に英国の宣教師と接触し、1815年にマラッカへ赴き洗礼と牧師按手礼を受け、私塾を開いて布教活動を行っていました。そして『勧世良言』ではキリスト教の教義を漢訳する際、父なる神ヤハウェを上帝(天帝)と訳し、イエスは神の子ら(信徒)の長兄であると説いていました。

 洪秀全はこれを読んでキリスト教の概要を理解した気になり、受験勉強で頭に詰め込んだ儒教知識や民間道教などと結びつけてカルト宗教を作ることを思いつきました。故郷に戻った彼は「夢枕に天父上帝(ヤハウェ)と天兄(イエス・キリスト)が現れ、破邪の剣と妖を斬る術を授かった。我こそは上帝の子にして天兄の弟である」と嘯き、「拝上帝会」を創始したのです。三位一体のうちの聖霊は「キリストの後に来る助け主」とされますから、自らをそれになぞらえたのでしょう(ムハンマドもそう称しています)。

 洪秀全は一族や知人を信者として引き入れ、儒教・仏教・道教を偶像崇拝であるとして否定し、ただ上帝だけを崇めるよう説きました。そしてさっそく偶像破壊を行いますが当然迫害され、故郷を追われて西の広西省へ逃れます。この頃、広西省では連年の災害で飢饉が起き、飢えた民衆が溢れていたため、洪秀全と仲間の馮雲山らはこの地で布教して信者を集めました。彼らは「原道救世歌」「原道醒世訓」「百正歌」といった文書を作って布教につとめ、いにしえの太平道のごとく「教えを守って努めれば病気が治り利益があるぞ」と説き、数年の間に三千人もの信者を集めることに成功しました。

 信者は炭焼き、貧農、鉱夫、失業者、客家、異民族など社会の下層階級や爪弾き者が多く、現世に不満を持つ者がこうした宗教にすがるのは古今東西で同じです。まして当時の清朝はアヘン戦争に敗れて夷狄に不平等条約を結ばされ、下々は重税や飢饉や疫病、失業にあえいでいましたから、盗賊団やカルト教団が膨れ上がるには充分です。当然ながら地元有力者や宗教団体、公権力は彼らを危険視するようになり、1848年に馮雲山が逮捕されますが、賄賂によって釈放されます。

 この事件で教団は動揺しますが、客家の炭売りの楊秀清と僮(チワン)族出身の蕭朝貴が「天父下凡」「天兄下凡」と称してヤハウェとキリストの託宣を行い、動揺を鎮めることに成功します。洪秀全は彼らの託宣を本物だと認定し、幹部に取り立てました。連年の災害や秘密結社「天地会」の武装蜂起もあって拝上帝会はさらに多くの信者を集め、組織化が進められます。

太平天国

 1850年7月、洪秀全は教団本部のある金田村に信徒を集め、男女別の団営(私設の軍事組織)を結成しました。伍は5人の兵士からなる班で伍長に率いられ、5倍ごとに両司馬、卒長、旅帥、師帥、軍帥が率いると定められます。すなわち両司馬は25人、卒長は125人、旅帥は625人、師帥は3125人、軍帥は1万5625人を率いるわけです。教団では銃や大砲も密造され、もはや自衛団の範囲を超えていました。清朝の地方政府はこれを鎮圧すべく軍隊を差し向けますが打ち破られ、拝上帝会は1851年1月に金田村において武装蜂起し、辮髪を切って清朝に反旗を翻します。また洪秀全は自ら天王と称し、国号を定めて「太平天国」としました。太平天国の乱の始まりです。

 太平天国軍は藤県を経て永安(蒙山県)を攻め落とし、国家としての体裁を整えます。全軍は前・中・後・左・右の5つにわけられ、5人の幹部が各々王に任命されて率いました。すなわち中軍は東王の楊秀清、前軍は西王の蕭朝貴、後軍は南王の馮雲山、右軍は北王の韋昌輝、左軍は翼王の石達開が率いましたが、「天父下凡」の楊秀清が他の王より上位に置かれ、実権を掌握しています。やがて太平天国軍は北上して湖南省の長沙へ向かいますが、1852年6月に南王、9月に西王が相次いで戦死します。

 しかし12月下旬から翌年1月には武漢(漢陽・漢口・武昌)を陥落させ、1853年3月には長江を降って南京(江寧)を陥落させて、ここを天京と改名し首都とします。この頃には各地の流民・盗賊が相次いで合流し、その兵力は20万人以上に膨れ上がっていました。清朝は長江下流域を反乱軍により制圧され、北京への物流が停止して、またも存亡の危機に陥ります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Taiping2.PNG

 カルト教団の反乱勢力とはいえ、一応はキリスト教徒と名乗っている太平天国に対し、英国はとりあえず使節を派遣して「英国は清朝にも太平天国にも中立である」と告げました。清朝とは友好関係を結んでおかねば商売に差し障りますし、クリミア戦争もあって清朝での軍事紛争にまで介入できません。太平天国が英国と友好国になればしめたものですが、彼らは英国が支援したものではなく自然発生的な反乱者で、英国に対しても友好的に振る舞いつつ中華主義を振りかざし、欧米列強を朝貢国とみなしていたといいます。

 また太平天国は1853年に北伐を行って天津付近まで攻め込みますが、洪水と寒さに苦しめられ、1854年に撤退に追い込まれます。西では民兵組織の「湘軍」を率いた曽国藩が反撃に出て1854年に武昌を一時奪還しました。しかし1855年に翼王の石達開が曽国藩らを打ち破り、江西省の大部分を占領しています。こうした中、1856年9月には太平天国内部で異変が起きます。

天京事変

 東王の楊秀清は「天父下凡」の権威によって天王の洪秀全を傀儡化していましたが、彼に恨みを持つ陳承瑢という者が洪秀全に東王を除くよう唆します。洪秀全は北王の韋昌輝・燕王の秦日綱に密かに命じて楊秀清を殺させ、その一族郎党を殺戮させますが、翼王の石達開がこれを非難します。北王は翼王を攻撃して一族郎党を殺戮しますが、翼王は逃れて洪秀全に北王らの誅罰を求め、兵のほとんども翼王を支持しました。やむなく洪秀全は北王・燕王・陳承瑢を誅殺させ、翼王と和解します。しかし彼が楊秀清に代わって実権を握ることを恐れ、兄の洪仁発・洪仁達を登用して牽制したため、翼王は1857年に天京を離れ、江西・湖南・広西を転戦することになります。

 この「天京事変」からまもなく、1856年10月に英国の船が清朝の官憲に臨検される「アロー号事件」が起き、英仏は清朝に宣戦布告します(アロー戦争)。太平天国の乱で動揺していた清朝は連合軍に敵わず、さらなる不平等条約を押し付けられるばかりか領土まで削り取られることになるのです。

◆Heaven's◆

◆falling down◆

【続く】

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