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【つの版】ウマと人類史:近代編24・亜羅戦争

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1851年に広西省で武装蜂起したキリスト教系カルト教団「太平天国」は、2年のうちに南京を攻め落とし、長江下流域に独立国を建設しました。清朝は必死でこれに立ち向かいますが、各地で呼応した反乱軍にも手こずり、さらに1856年には英国とフランスが戦争を仕掛けてきました。第二次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争です。

◆英◆

◆国◆

排外運動

 アヘン戦争での勝利により、英国は清朝に広州・厦門・福州・寧波・上海を開港させ、香港を割譲させました。また各港には領事が置かれ、英国人は英国の法律で裁かれること、関税は英国と「相談」して決めることなども決められ、アヘンの輸入再開も事実上黙認されました。

 これに対して清朝では外国人排斥運動が盛んとなり、暴動や殺人事件が頻発します。英国は両広総督・欽差大臣の耆英葉名琛と交渉しますがうまくいかず、中央政府との交渉を望みますが突っぱねられます。英国の主要輸出品である木綿も清朝では売れ行きが芳しく無く、英国側では「再び武力行使して条約改正を」との声が強まります。そうこうするうち太平天国の乱が勃発し、彼らが外来の宗教であるキリスト教を奉じていたことから当然「夷狄が彼らを支援したのだ」と疑われ、排外運動はますます強まります。

 1856年2月29日、フランス人のカトリック宣教師シャプドレーヌが広西省西林県で知県(県知事)に逮捕され、拷問を受けて処刑されるという殉教事件(西林教案)が起きます。フランスはこれに抗議して外交圧力をかけ、知県の張鳴鳳は免職となります。太平天国が広西省で武装蜂起したためその一味ないし夷狄の工作員と考えられたようですが、このことはフランスの清朝への印象を著しく悪化させました。

亜羅案件

 1856年10月8日、清朝の官憲は英国船籍を名乗るチャイナ船アロー号に臨検を行い、清国人の船員12名を拘束、うち3名を海賊の容疑で逮捕します。これに対し英国の広州領事パークスが抗議し、「我が国の旗を引きずり下ろして侮辱した」云々と文句をつけます。実際には英国の旗はアロー号には掲げられていなかったようですが、英国側はこれを好機として武力介入に踏み切ることとし、香港総督が英国海軍を動かして広州の清朝側の砲台を占領します。これがほんとの「偽旗作戦」というわけですが、この用語は16世紀に海賊が偽の旗を掲げて標的を襲ったことに由来するといいます。

 ちょうど欧州では3月にクリミア戦争が終結しており、英国首相のパーマストン子爵は本国軍の派遣を決定します。彼はアヘン戦争やクリミア戦争の時も外務大臣として英軍派遣を主導した対外強硬派でした。またフランス皇帝ナポレオン3世にもシャプドレーヌ事件を理由に共同出兵を求め、皇帝はグロ男爵に兵を率いさせて派遣します。アメリカとロシアは「戦争には加わらないが条約改正には参加する」と表明し、ともに清朝へ圧力をかけます。

 当時、清朝は太平天国に南京を占領され、河南・山東などにはこれに呼応する匪賊(捻軍)が跳梁跋扈していて、掛け値なしに滅亡の危機にありました。太平天国は仲間を増やすため「滅満興漢(満洲を滅ぼして漢人を復興させる)」というスローガンを唱え、清朝全土を揺るがしていたのです。南京は明朝の最初の首都でしたし、英仏が夷狄というなら清朝・満洲だって漢人からすれば夷狄に違いありません。ただしこのため満洲人や蒙古人は太平天国に加わるわけにもいかず、反乱軍は北方には勢力を伸ばせませんでした。

 1855年8月には黄河の堤防が決壊して大洪水が発生し、1128年以来700年以上も南東へ流れていた黄河が再び北東へ流れ始めました。流域の住民の多くが災害で難民となり、張楽行なる者を「大漢盟主」として清朝から自立します。彼らは太平天国に合流して山東・河南・江蘇・安徽の各地を転戦し、この地域の治安は極度に悪化しました。700年前の黄河南流以来、華北は北京を首都とする勢力(金・元・燕王/永楽帝以後の明朝・清)に支配されてきましたから、今こそ北方の夷狄に代わって南方の漢人が中華の盟主の地位を取り戻す時が来たとも思えたでしょう。

 また広西省には天地会が1855年に大成国を建て、雲南省では杜文秀らが回民(イスラム教徒、ビルマ語でパンゼー)を率いて1856年に清朝に対して武装蜂起しています。清朝はこれらの鎮圧にも手を焼いていました。

 そして清朝の北方には、虎視眈々と南を狙うロシア帝国があります。クリミア戦争に敗れて大きなダメージを負ったため、ロシアは東方に進出して領土や不凍港を獲得せんとし、清朝に圧力をかけていました。憎き英仏に清朝や朝鮮・日本での権益を独占させてはならじというわけです。折よく1857年にはインドで英国に対する大反乱が勃発しますが、ロシアがこれを煽っていたとしてもおかしくありません。

天津条約

 1857年9月、広東に集結した英仏連合軍は広州を攻撃し、11月に占領します。両広総督・欽差大臣の葉名琛は捕縛され、香港を経てインドのカルカッタへ護送されますが、自ら「海上の蘇武(匈奴の捕虜となった漢の忠臣)」と称して獄中で絶食し、翌年4月に餓死しました。英仏・ロシア・アメリカは全権大使の連名により清朝に対して条約改正交渉を求めますが、返答を拒まれたため武力行使を継続、1858年に北上して天津に入ります。

 ロシア帝国の東シベリア総督ムラヴィヨフは、この機に乗じてアムール川(黒竜江)に艦隊を派遣します。そして黒竜江将軍の奕山に対し「我がロシアが英仏から清朝を庇護してやる。見返りにアムール川左岸を寄越せ」と告げたうえ、艦砲射撃を行って脅しつけました。1689年のネルチンスク条約以来、清朝とロシアの国境は外興安嶺(スタノヴォイ山脈)でしたが、ロシアは一気に南へ国境線を下げてきたのです。1858年5月、奕山はやむなくこれ(アイグン条約)を承認しますが、清朝はとんでもないと突っぱねます。

 しかし天津を制圧された清朝は、英仏と文字通り「城下の盟(本拠地まで踏み込まれての屈辱的な講和)」をするしかありませんでした。同年6月に天津条約が締結され、英仏への多額の賠償金(英国へ400万両、フランスに200万両)、外交官の北京駐在、外国人の旅行・貿易の自由と治外法権、外国艦船の長江通行の権利保障、キリスト教布教の自由と宣教師の保護、アヘン輸入の公認などが押し付けられます。さらにこれまでの5港に加え、海南島・台湾・長江流域・山東・遼東半島などの10港を開港すること、公文書において西洋人を「夷(蛮族)」と表記しないことも求められました。

 清朝はいったんこれを飲みますが、英仏軍が天津から引き上げると途端に条約を破り捨て、太平天国との戦いで功績をあげた名将センゲリンチンに命じて天津防衛の任務につかせます。また英仏と対立するロシア、アメリカとは条約を批准して味方につけ、1859年6月には天津近郊の英仏軍を騙し討ちで撃破することに成功しました。英仏軍は上海に撤退して兵力を整え、1860年夏に大艦隊を派遣して天津に攻め寄せます。センゲリンチンらは英仏軍の使節を捕らえて11名を殺し、交渉は決裂しました。

北京条約

 怒り狂った英仏軍は天津に上陸し、北京に攻め寄せます。恐れをなした清朝の咸豊帝は弟の恭親王奕訢に北京を任せ、北方の熱河(承徳)にある離宮へ「避暑に行く」と称して遷りました。英仏軍は10月に北京に入り、離宮の円明園などで破壊と掠奪、放火を行います。実際蛮行ではありますが、清朝が先に条約を破り使節を殺したのですから報復の大義名分はあるでしょう。

 ロシア帝国は漁夫の利とばかり清朝と英仏の間の調停を行い、天津条約を批准させるとともに、追加条約を結ばせました。すなわち北京条約です。これにより清朝は北京の外港たる天津を開港させられ、香港島の対岸の九竜半島を英国に割譲させられます。また清国人の海外への渡航許可も承認させられますが、これは大量の清国人を安価な労働移民(苦力クーリー)として輸出させ、低賃金で重労働を行わせるためのものでした。

 苦力貿易はアヘン戦争後に盛んとなり、アメリカ合衆国など列強諸国は清朝のブローカーと結託し、奴隷めいた安価な労働力として彼らを売買していました。建前上は「自由意志による移民」ということになっていましたが、彼らはカリフォルニアやシベリア、オーストラリアやマレーシアなど世界中に輸出され、最下層の暮らしを強いられたのです。しかしこれにより世界中に在外チャイニーズ(華人/華僑)の現地共同体が形成されました。

 そしてロシアは、清朝から正式にアムール川左岸を割譲されます。これによりロシア帝国の領土は日本海沿岸に達し、「沿海州(プリモーリエ)」が設置されました。同年には沿海州南部の海参崴にウラジオストク東方オストークを支配する町)の建設が開始され、ムラヴィヨフはアムール地方の征服者として「アムールスキー」の称号を授けられたのです。

 沿海州の東に浮かぶサハリン/樺太については、1855年の日本との和親条約により「国境を設けず両国人が混住する」と決まっていました。日本にとっては北方からのロシアの圧力がさらに増したわけですが、ロシアも英仏も清朝を武力で屈服させて不平等条約を押し付けたことでは変わりません。列強が角逐するアジアにおいて、日本はどうなっていくのでしょうか。

◆苦◆

◆力◆

【続く】

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