見出し画像

【つの版】ウマと人類史:近代編25・尊皇攘夷

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1856-60年のアロー戦争(第二次アヘン戦争)によって、清朝は英仏連合軍に敗れ、欧米やロシアと不平等条約を結ばされたうえ、英国には香港を、ロシアには外満洲と沿海州をもぎ取られます。列強が角逐するアジアにおいて、東方の日本はどうなっていくのでしょうか。

◆Joyful◆

◆Joyful◆

和親条約

 日本は御存知の通り米国の黒船来航によって、1854年に日米和親条約を結ぶことになりました。同年には琉球王国も米国と和親条約を結んでいます。米国の目的は太平洋上における捕鯨船の活動に際して補給基地が必要だっただけで、日本を脅して属国化させるほどの意志も国力もありません。しかし米国は英国とは建国以来対立していますし、英国が清朝に武力行使して不平等条約を押し付けたことは日本にも伝わっていました。となると米国と先んじて条約を結んだことは、英国を牽制するのに役立つとも言えます。

 最初のペリー来航に遅れること1ヶ月半後、1853年8月(嘉永6年7月)に、ロシア帝国の全権使節プチャーチンが長崎に到着しました。彼は江戸幕府全権使節の筒井政憲、川路聖謨らと交渉を進め、紆余曲折の末に1855年2月(安政2年12月)には日露和親条約を締結します。

 これにより、千島列島のうち択捉島までは日本、得撫島から東はロシアのものとされ、樺太においては国境を定めぬものとされます。またロシア船の補給のため函館・下田・長崎が開港し、ロシア領事が駐在すること、双務裁判権、片務的最恵国待遇(1858年に双務化)なども決められました。日本が武力で脅されて結んだわけではないため、比較的穏やかな内容です。プチャーチンも恫喝外交はせず、双方の国情を鑑みて冷静に交渉を進めました。

 これに先立つ1854年10月には、英国の東インド・中国艦隊司令官のスターリングが長崎において日英和親条約を締結させ、長崎と函館を開港させています。実は彼には外交交渉を行う権限はありませんでしたが、英国はこれを事後承諾しました。幕府としても英国を敵に回すのは危険ですし、やむを得ません。1856年にはオランダとも同様の条約が結ばれました。

安政改革

 開国については日本中で様々な議論が噴出しています。孝明天皇は開国に反対していましたが権力はなく、将軍・徳川家定も病弱で、老中首座の阿部正弘が幕政のトップにいました。彼は攘夷論を唱える水戸藩の前藩主・徳川斉昭らを抑えつつ、越前藩主の松平春嶽、薩摩藩主の島津斉彬ら雄藩の藩主と協議を重ね、どうにか日本を開国させます。また勝海舟ら有能な人物を登用して「安政の改革」に着手し、列強の圧力に負けぬ国造りを目指しましたが、志なかばにして1857年8月に急逝します。

 老中首座を継いだ堀田正睦は安政の改革を続行しますが、孝明天皇や公卿ら朝廷は攘夷派で開国に反対しており、将軍・家定は病弱なうえ世継ぎがおらず、国内世論は将軍の継嗣を巡って分裂します。阿部正弘は薩摩・越前・水戸藩主らと語らって徳川斉昭の実子・一橋慶喜を立てようとします(一橋派)が、反対派は紀州藩主の慶福を推していました(南紀派)。

 紆余曲折の末、1858年に南紀派の井伊直弼が大老に就任して幕政を掌握、堀田と一橋派は失脚します。井伊直弼は同年に勅許なきまま欧米列強五カ国と不平等条約を締結し、慶福(改名して家茂)を将軍に迎えると、その権威をもって反対派を弾圧しました。これが「安政の大獄」です。

 時を同じくして、日本には海外からもたらされたコレラのパンデミックが発生しています(1858-60年)。長崎から始まった大流行は西国を経て江戸に達し、数十万人もの人々がバタバタと死んでいきました。当時の日本の人口が3000万人としても、100人に1人が死んだともいう大惨事です。

 当然「これは夷狄がもたらしたものだ」「開国のせいだ」「幕府の責任だ」という風説が広がって、「朝廷(天皇)を奉じて夷狄を打ち払うべし」との尊皇攘夷運動が盛んになります。長州藩の吉田松陰も尊皇攘夷と倒幕を唱え、松下村塾を開いて後進を育成していましたが、安政の大獄によって反政府テロリストとして処刑されました(実際テロリストですが)。となると怒りの矛先は、夷狄に屈して勝手に開国した井伊直弼に向かいます。

 1860年(安政7年)3月、江戸城桜田門外で大老・井伊直弼はテロリストに襲撃され暗殺されます。犯人は彼が弾圧していた水戸藩の脱藩浪士17名と薩摩藩士1名(有村次左衛門)でした。幕府は彼らを捕縛して処刑しますが、この事件で幕府の権威は失墜しました。同年に徳川斉昭も心臓発作で急死し、水戸藩は保守派と改革派の内紛で勢力を失います。

文久改革

 老中首座・安藤信正は、前政権から検討されていた孝明天皇の妹・和宮と将軍家茂の結婚を推進し、朝廷と幕府の連合強化(公武合体)によって幕府の権威修復を試みます。朝廷は将来の攘夷に期待してこれを許可しますが、1862年(文久2年)に信正も水戸浪士に襲われて負傷し、失脚します。

 同年、一橋派の薩摩藩主の父・久光が兵を率いて上洛し、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任じるとの勅令を出させます。また安政の大獄により失脚していた自派の人物らも復権させますが、急進的な攘夷派は弾圧・粛清しています。これに対して長州藩攘夷派の盟主となり、京都を舞台として各派閥間のテロが相次ぎました。

 1863年(文久3年)1-3月、将軍家茂は将軍としては229年ぶりに上洛し、孝明天皇に拝謁して攘夷を約束しました(この時に「護衛」として浪士らを募集したのが浪士組で、のちの新選組の母体です)。幕府としては不平等条約破棄など穏便な形で「攘夷」を行いつつ、公武合体で権威を回復しようとの腹積もりでしたが、長州藩は馬関海峡を封鎖し外国船に砲撃を行う暴挙に出ます。また薩摩藩も1862年に起きた生麦事件(久光の行列に突っ込んだ英国人らが斬られた事件)に関して英国から賠償金の支払いを求められていましたが、英国は交渉を有利に進めるべく艦隊を鹿児島湾に向かわせており、両藩は単独で「夷狄」との戦争を行うことになりました。

 薩摩藩と英国との戦闘は短期間で終わり、両者に被害が出て英国船が撤退しただけで済みました。賠償金については開戦前に英国側が幕府から受け取っており、薩摩藩も幕府から借りパクして改めて支払っただけでした。

 攘夷で凝り固まった長州藩は馬関海峡の封鎖を解かず、英国・米国・フランス・オランダを敵に回して激戦を繰り広げました。また京都では1863年9月に過激な攘夷論を唱える長州派が朝廷・幕府・薩摩藩等の連合軍により追放されましたが、長州藩は翌年8月に「禁門の変」を起こして京都で反政府の市街戦を繰り広げ、完全に国内外で孤立します。

 ここに朝廷と幕府・諸藩は一致団結し、長州藩を朝敵として討伐することとなります。長州藩は諸外国と講和し、主戦論者を処分して幕府に降伏しますが、取り潰されることなく存続しました。薩摩と長州はやがて手を組み(薩長同盟)、朝廷を奉じて幕府と戦うことになります。

◆石◆

◆海◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。