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【つの版】ウマと人類史:近代編26・南北戦争

 ドーモ、三宅つのです。やや間が空きましたが、前回の続きです。

 1854年、ついに開国した日本ではコレラが猛威を振るい、尊王攘夷活動が盛んになって幕府を揺るがします。幕府は朝廷と手を結んで権威を回復しようとしますが、西の長州藩は攘夷派の根城となって孤立し、存続の危機に陥ります。この頃、遥か彼方のアメリカでは南北戦争の真っ最中でした。

◆Civil◆

◆War◆

米国分裂

 アメリカ合衆国は、1776年に北米西部の英国植民地群が独立・連合して成立しましたが、植民地時代から南北で違いがありました。温暖な南部ではプランテーションと呼ばれる大規模農業経営が盛んで、白人の年季契約者や輸入した黒人奴隷を使役し、英国向けに綿花などを栽培・輸出していました。またスペイン領やフランス領が近いこともあってカトリックが多く、保守的な農場主たちが英国との自由貿易によって南部を支配していました。連邦首都ワシントンD.C.が南部側に置かれたのは、当時は経済的に南部の方が栄えており、独立戦争の外債を北部より早く返済していたためです。

 これに対し寒冷な北部(ニューイングランド)では大規模農園が乏しく、宗教的にはプロテスタント改革派(カルヴァン派、ピューリタン)が強く、独立後は英国からの経済的独立のため工業と商業が発達しました。労働は奴隷ではなく自由労働者が担い、英国・欧州からの工業製品に対抗するため保護貿易を求めました。両者の中間にある中部では農業と商業が盛んになりましたが、奴隷制プランテーションは発達しませんでした。

 また南部には農園が多くて都市が少なく、奴隷労働に頼っていたため人口増加も緩やかでしたが、北部では労働力確保のため欧州から多数の移民を呼び寄せ、人口が急速に増大し、都市化が進んでいました。このためアメリカの南北は政治的・経済的対立関係にあり、19世紀にアメリカが大きく西へ拡大すると、その地域で奴隷制度を認めるか否かで論争となりました。

 18世紀中頃から19世紀にかけて、英国・欧州・アメリカでは奴隷制廃止の流れが強まっていました。これは啓蒙思想や人道主義に加えて経済的な理由もあります。大規模農業や鉱山労働などでは労働者が生産物を直接消費しないため、食費や維持管理費は必要でも賃金を支払わずに済む奴隷労働が効率的でした。しかし綿織物や機械製品などを製造する工場労働者の場合、労働者自身も製品の消費者となり得るため、賃金を支払って製品を購入させた方が結果的に儲かるのです。また工業化が進むと内需拡大のため、一次産品の生産者にも賃金労働が推奨されました。そのため産業資本家は奴隷制廃止に賛同し、賃金労働を賛美することになったのです。

 産業革命が起き自由貿易を推進していた英国では1807年に奴隷貿易禁止法が成立し、1833年には奴隷制そのものが廃止されます。他の国々も英国の要求に屈して奴隷貿易や奴隷制を廃止していきますが(フランスでは1848年、ポルトガルやスペインでは1860年頃)、アメリカ南部は強固に奴隷制度を維持し、独立当初から奴隷制度を廃止していた北部諸州と対立を深めました。

南北戦争

 両者の対立は数度の妥協や衝突を経て、1860年11月のリンカーン大統領選出によって破局を迎えます。彼は1854年に北部で結成された反奴隷制政党の共和党出身で、南部諸州は大いに動揺します。サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスの南部七州は1861年2月までにアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、Confederate States of America(アメリカ連合国)を結成しました。首都はアラバマ州モンゴメリーに置かれ、軍人ジェファーソン・デイヴィスが大統領に指名されます。

 1861年3月にリンカーンが合衆国大統領に就任すると、4月に南軍が合衆国への軍事侵攻を開始し、5月までにバージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナの四州も連合国に加わります。連合国の首都はバージニア州リッチモンドに移されました。合衆国は存亡の危機に陥りますが、大半の将兵と人口(2200万人、南部900万人の倍以上)は合衆国側に残り、南部の大反乱を鎮圧すべく動き出します。

 南軍は勢いに乗じて一時はワシントンD.C.に迫りますが、工業力でも連携でも北軍に劣り、大規模な海上封鎖によって経済的にも締め上げられます。北軍は南部の倍の人口と兵力、倍の鉄道網、多数の工場群によって充分な後方支援を受け、各地で南軍を撃破しました。さらに1862-63年にはリンカーン大統領が奴隷解放宣言を出し、南部の奴隷たちに北軍への投降、南軍との戦いへの参戦を呼びかけます。

 これは合衆国側に残った奴隷制度容認州にも動揺を与え、即座に全ての奴隷が解放されたわけではありませんが、実際南軍を揺るがしました。東部の南軍は特に激しく抵抗したものの打ち破られ、1865年4月に南北戦争は合衆国の勝利によって終結します。終戦寸前にリンカーン大統領は南軍支持者によって暗殺されますが、アメリカは合計数十万人の死者を出しながらも、独立以来最大の危機を乗り切ったのです。

 アメリカは1854年に日本を開国させたものの、国内がこのような状況ゆえ太平洋の彼方の日本への影響力を維持できませんでした。ロシアはアロー戦争に介入して外満洲と沿海州を清朝からもぎ取りましたが、クリミア戦争でのダメージもあり日本への介入は難しい状態でした。そこで清朝を屈服させた英国とフランスが日本に介入して来ます。各地の戦争の終結により余っていた銃や大砲は日本に輸出され、内戦の激化に繋がったのです。

◆銃◆

◆銃◆

【続く】

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