見出し画像

【つの版】ウマと人類史:近代編27・鉄血宰相

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 日本で徳川幕府が動揺し、アメリカで南北戦争が起きた頃、クリミア戦争後の欧州では様々な紛争が続いていました。フランスはイタリアを巡ってオーストリアと争い、イタリアはサルデーニャ王国によって統合され始め、北ドイツではビスマルクのもとプロイセン王国が勢力を伸ばしています。

◆伊◆

◆太◆

伊太王国

 イタリア半島には中世以来様々な中小国家が割拠していましたが、近世には経済的・社会的に衰退し、フランス・スペイン・オーストリアなど欧州列強の代理戦争の場となりました。ナポレオンはイタリアに侵攻して古い国々を取り潰し、衛星国を作って支配下に置きましたが、ナポレオン体制の崩壊によりこれらの衛星国群は滅び、ウィーン体制のもとで再編されました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Italia_1843.svg

 オーストリアはイタリア北東部にロンバルド=ヴェネト王国を建て、オーストリア皇帝が国王を兼務しました。その南にはパルマ、モデナ、ルッカ、トスカーナ、教皇領などの中小国が、南イタリアとシチリアにはブルボン家の両シチリア王国が再建されます。イタリア北西部、ジェノヴァ・トリノ・ニースなどを含む地域とサルデーニャ島は、中世以来のサヴォイア(サヴォワ)公国の流れを組むサルデーニャ王国の支配下に置かれました。

 サヴォイア家は西暦1000年頃から神聖ローマ皇帝に仕えたアルプス南部の名門貴族で、近世にはトリノを首都としてフランス・スペイン・オーストリアなど列強と渡り合い、1720年にはオーストリアからサルデーニャ島と王位を授かっています。フランス革命戦争やナポレオン戦争に際してはオーストリアに味方し、敗れて大陸領土を失いましたが、ナポレオン体制の崩壊によって復活したわけです。このため国王はウィーン体制の維持を重んじ、フランス革命の影響を受けた共和主義者らを弾圧しました。

 しかし1848年に欧州全土でウィーン体制に対する革命運動が勃発すると、英雄主義に取り憑かれたサルデーニャ王カルロ・アルベルトはこれに乗じてオーストリアに宣戦布告し、イタリア統一を目指してロンバルディアに侵攻します。しかし国王である彼は共和主義者と反りが合わず、オーストリア軍によってもろともに蹴散らされてしまいます。カルロ・アルベルトは翌年に退位して亡命し、失意のうちに世を去りました。

 後を継がされた息子ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は保守反動的でしたが、先代のような君主の暴走を止めるため、サルデーニャ王国では新首相マッシモ・ダゼーリョにより憲法が制定され、選挙制議会を有する立憲君主制国家となります。彼は様々な国政改革を行ったのち国王と対立して失脚しますが、後継者として選ばれたのがカヴール伯爵でした。

 彼は卓越した手腕で国政改革を成し遂げ、クリミア戦争に出兵することで英国やフランスと友好関係を結び、国際的地位を向上させます。またイタリア統一と立憲主義を呼びかけて敵国オーストリアを孤立させ、1858年にはフランスと密約を結びます。これによりサルデーニャ王国はフランスへ領土を割譲することを条件に軍事支援を取り付けますが、計画はロンバルディアをサルデーニャが征服し、トスカーナにはフランス皇帝の従兄弟が君主として立つというもので、全イタリアの統一は企図していませんでした。

 オーストリアは密約を知って激怒し、英国も介入を控え、ロシアは調停を買って出ますが、カヴールはオーストリアを悪者に仕立てつつ、急いでフランス軍とともにロンバルディアへ侵攻します。しかし皇帝ナポレオン3世は国際情勢を鑑みて早期の停戦を望み、1859年7月にサルデーニャと相談せず勝手にオーストリアと講和しました。ロンバルディアはサルデーニャに割譲されたものの、ヴェネトやトスカーナ等はもとのままとされたのです。怒ったカヴールは英国に働きかけてフランスに圧力をかけ、翌年トスカーナ等中部イタリア諸国をサルデーニャ王国に併合させることに成功しました。

 さらに1860年に両シチリア王国で民衆反乱(革命運動)が勃発すると、軍事活動家ガリバルディが義勇兵を率いてこれに参加し、半年も経たぬうちに両シチリア王国を攻め滅ぼしてしまいます。その領土はサルデーニャ王国に併合され、1861年3月にサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレは「イタリア王」に即位しました。ヴェネトや教皇領は残っていましたが、ここに半島統一を目指すイタリア王国が誕生したのです。

鉄血宰相

 同じ頃、バルト海南岸のプロイセンではヴィルヘルム1世が国王に即位しました。プロイセンは16世紀にドイツ騎士団国がルター派に改宗、世俗化してプロイセン公国となったものです。当初はポーランド王国を宗主としていましたが、17世紀に神聖ローマ帝国のブランデンブルク選帝侯が公国を継承し、ポーランドの宗主権から独立します。1701年には神聖ローマ皇帝から「プロイセンにおける王位」を承認され、1772年に第一次ポーランド分割で西プロイセンを併合したことにより「プロイセン国王」となりました。

 しかしナポレオン戦争においては大敗を喫し、エルベ川以西を全て失い、旧ポーランド領も独立させられます。やがてロシア・オーストリアと手を組み、ナポレオンを駆逐して復興、ウィーン体制においてはドイツ連邦構成国としてオーストリアと並び立ちます。しかし1848年の革命で立憲君主制国家になり、自由主義者が台頭して、国王の権力は著しく制限されることとなります。こうした中でヴィルヘルム1世はビスマルクと出会いました。

 ビスマルクはプロイセン東部の地主貴族(ユンカー)の出身で、1848年頃から保守派の議員として活動していました。彼は1862年に首相に選出されると「現在の問題は演説や多数決(自由主義)ではなく、鉄と血(軍事力)によってのみ解決される」という有名な「鉄血演説」を行い、軍制改革を行ってプロイセンの富国強兵を推し進めます。またプロイセンを中心としてのドイツ統一のため、衰退したオーストリアと決別しフランスやロシアと手を組むべきだと考え、自由主義者を弾圧しつつ盛んな外交を繰り広げました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Deutscher_Bund.png

 1864年、プロイセンは以前からドイツ系住民の帰属を巡ってデンマークと争っていたシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国に侵攻します。これにはオーストリアもドイツ連邦の盟主として参戦しますが、戦後の領有権を巡ってプロイセンと争いになり、1866年に普墺戦争が勃発します。イタリア王国もこれに乗じてオーストリアに宣戦布告し、ヴェネトへ侵攻しました。

 プロイセンの参謀総長モルトケは、先んじて敷設してあった鉄道と電信をフル活用して迅速に軍を動かし、ボヘミアへ進軍してオーストリア軍を打ち破ります。ドイツ連邦諸国も次々と打ち破られて降伏し、驚いたフランスは和平の仲介を申し出ます。1866年8月、プロイセンはオーストリアと講和条約を締結し、ドイツ連邦を解体して南北に分けること、ヴェネト地方をイタリア王国に帰属させることなどをオーストリアに飲ませて勝利しました。ここにプロイセンは「北ドイツ連邦」の盟主となり、欧州屈指の強国として、ドイツ統一を推し進めていくことになるのです。

◆普◆

◆魯◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。