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【つの版】度量衡比較・貨幣136

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 17世紀から18世紀にかけて、欧州・アジア諸国は同盟国や植民地を巻き込んで戦争に明け暮れていました。この頃の日本の様子を見てみましょう。

◆江戸◆

◆時代◆


金銀不足

 振り返ってみましょう。江戸時代の日本では金・銀・銭・米が主な貨幣として流通し、それぞれの相場は日々変動していました。寛永13年(1636年)からは幕府により国産の銅銭「寛永通宝」が大量に発行され、貨幣価値が下がって物価と労賃が上昇し、17世紀後半には「金1両=銀60匁=銭4貫文=米1石」ほどとなります。銀3匁=銭200文ほどが日当で、これを現代日本円にして1万円とすれば、銭1文≒50円、1貫文(1000文)≒5万円、銀1匁≒67文≒3350円、金1両≒20万円ほどです。

 この頃、日本は平和と繁栄を享受していました。天下泰平により人口は増加し、新田開発が進められ、参勤交代制度の定着により街道筋や宿場町が整備され、北前船などの船舶が物資を積んで行き交うようになります。国内経済の発展に伴い貨幣需要は増大しましたが、銅銭以外の供給は追いついていませんでした。戦国時代以来隆盛を誇った日本の金銀産出量は減少に転じており、主にチャイナとの生糸貿易により国内の金銀が大量に流出しました。特に清朝では三藩や台湾の平定により海禁が解除され、多数の商人が日本に到来し、長崎で盛んに商取引を行って金銀や銅を決済に用いています。オランダや朝鮮・琉球との交易もこれには及ばぬながら盛んでした。

 新井白石が『本町宝貨通用事略』で推計したところによれば、慶長6年(1601年)から正保4年(1647年)までの46年間で金379万5200両、銀74万8478貫が、正保5年/慶安元年(1648年)から宝永5年(1708年)までの61年間で金239万7600両、銀37万4209貫が流出したといいます。すなわち107年間に金619万2800両、銀112万2687貫が流出したというのです。

 また国内外の戦争はなくなったものの、火災や地震などの災害が頻発し、幕府は対応に追われて出費を強いられています。御金蔵には有事に備え分銅型の「大法馬金」44貫(165kg)が20個ありましたが、延宝4年(1676年)に7個、天和元年(1681年)に10個が吹き潰されて小判として放出され、残り3個も元禄年間(1688-1709年)に全て放出されました。しかし幕府から放出される金銀はたちまち豪商に吸い込まれ、市場には出回りませんでした。

 貨幣不足を補うため、主に西国の諸藩では銀と兌換性のある紙幣「銀札」が発行され始めます。寛永7年(1630年)には備後福山藩で発行され、寛永11年(1634年)に大和国今井町で幕府から許可を得た銀札「今井札」が発行されています。ついで寛文元年(1661年)に越前福井藩、寛文10年(1670年)に摂津尼崎藩、延宝4年(1676年)に和泉岸和田藩、延宝5年(1677年)に摂津麻田藩、延宝8年(1680年)に播磨赤穂藩、元禄13年(1700年)に摂津三田藩などが銀札を発行しています。

 日本の紙幣は、建武の新政で後醍醐天皇が試験的に発行した「楮幣」を除けば、慶長15年(1610年)に伊勢国山田で発行された「山田羽書」が最古です。これは伊勢御師や商人の株仲間が発行した為替札で、銀や金との兌換性を有し、各地の民間紙幣や藩札・旗本札の発行にも影響を与えました。また上方商人は早くから手形によって取引を行っています。

 延宝8年(1680年)に第5代将軍となった徳川綱吉(家光の4男)は文治政治を推進し、捨て子禁止令等を含む「生類憐みの令」を発布し、元禄3年(1690年)には孔子を祀る湯島聖堂を建立するなど儒学を重んじました。また皇室御料を1万石から3万石に拡大し、公家たちの所領を増やすなど、朝廷を重んじる人物でした。しかし庶民には質素倹約を命じながら、儀礼や寺社参詣、寺社仏閣や陵墓の修築には惜しみなくカネを費やしたため、元禄7年(1694年)には幕府財政は10万両を超える赤字となりました。1両を現代日本円で20万円とすれば200億円にも達します。

 この財政危機を克服するため、元禄8年(1695年)にはついに慶長以来の金銀貨幣の改鋳が行われます。奇しくも英国でニュートン、ロシアでピョートル大帝が貨幣改鋳を行っていたのと同時期でした。

元禄改鋳

 この任務にあたった人物が、旗本の荻原重秀おぎわらしげひでです。彼は甲斐武田氏の分家の末裔で、延宝2年(1674年)に16歳で幕府勘定方に列しました。延宝5年(1677年)に幕府が太閤検地以来初めて五畿内の検地を実施した際は、世襲代官の妨害を排除するため近隣の諸大名に検地を行わせること等を提案し、業務の細則を策定して円滑に成功させました。綱吉が将軍の座に就くと世襲代官の弊害を提言し、彼らを一掃させています。

 この功績により重秀は勘定組頭、勘定頭差添役と出世を重ね、元禄3年(1690年)には佐渡奉行に任じられました。彼は佐渡で大規模な検地を行って年貢収入を8割も増やし、金山の坑内に溜まった地下水を排出するための溝を掘削させ、金の生産量をやや回復させています。しかし回復量は貨幣需要に追いつかず、結局は改鋳が急務となったのです。また幕府の命で金銀貨幣を鋳造する金座・銀座は鋳造減少により収入を失い、以前から金銀貨幣の鋳造再開を嘆願していました。

 元禄8年(1695年)、重秀は金座・銀座に命じて金銀貨幣の改鋳(吹き替え)を行わせ、世上通用の慶長金銀と等価に通用するよう通達します。しかし慶長金銀は品位(金銀含有量)が8割以上でしたが、この元禄金銀は重量は同じでも品位が6割前後しかなく、表面に色を付けてごまかしてはいたものの、見るからに混ぜものが多い代物でした。新貨との交換の際は1-2%増しで回収するとしたものの、慶長金銀の回収は当然難航します。

 ところが、ここでいわゆる「グレシャムの法則」が働きます。品質のよい慶長金銀が退蔵されたため、品質の悪い元禄金銀がかえって市場に流通し、悪貨が良貨を駆逐したのです。この法則は紀元前から世界中で知られていたため、重秀もこれを利用したのでしょう。これにより金換算528万両(1両20万円として1兆560億円)余りもの出目(差益金/改鋳利益)が幕府に入り、財政赤字はたちまち解消され、御金蔵には莫大な金銀が積まれたのです。

 しかし当然金銀の相場は下落し、銭相場と物価が高騰します。元禄7年(1694年)には金1両が4.8貫文であったのが、6年後の元禄13年(1700年)には1両=3.7貫文になりました。元禄8年と翌9年には冷夏のため東北地方で飢饉が発生し、物価高騰が庶民を苦しめました。また丁銀の品位低下は4/5にとどまったのに対し、小判は2/3となったため銀相場も高騰し、元禄11年(1698年)には金1両=銀48-50匁前後となります。主軸通貨が銀の上方や西国では銀が払底し、金の江戸では物価高騰が顕著でした。

 そこで重秀は銅銭の改鋳も行い、勘定奉行に就任した翌年の元禄11年からは江戸亀戸で、元禄13年(1700年)からは京都七条川原の銭座で新しい寛永通宝を発行させました。旧来の銅銭の重量は1匁(3.73g)でしたが、この新銭はその6-7割(2.2-2.6g)ほどしかなく「荻原銭」と俗称されました。重秀はこの改鋳について「貨幣は国家の造るところ、瓦礫をもってこれに換えるといえども行わねばならない。今鋳造する銅銭は悪く薄いが、紙鈔(紙幣)よりはマシである。必ずやり遂げねばならない」と発言しています。

 さらに元禄12年限りで慶長金銀の通用を停止して回収を加速させ、元禄13年には御定相場を金1両=銀60匁=銭3.9貫に改正し、両替商に対して銀高・銭高相場での取引を禁じました。「幕府の権威で信用創造を行い、貨幣流通量を増やして良質のインフレと好景気をもたらした」と評価する向きもありますが、少なくとも海外との貿易では品位が低下した元禄金銀は受け取ってもらえず、品位を高めた金銀を使わざるを得ませんでした。

 改鋳と並行して、重秀は大規模な検地(元禄検地)を実行しています。延宝8年から元禄10年(1697年)までの17年間に行われた検地により、幕府の直轄地(天領)の石高は108万4250石、年貢量で44万3810石余増加し、以後幕末まで石高400万石前後、年貢125万石前後を維持しました。元禄10年には「御蔵米地方直し令」を出し、500石以上の蔵米取の旗本と、知行・蔵米の合計500石以上の旗本をすべて知行取りに変更しています。これは生産性の高い地域を幕領に編入し、年貢米(蔵米)の運搬費用を削減するのが目的でした。さらに田畑永代売買禁止令を変更して「質地取扱の覚」を制定し、質流れによる田畑の所有権移転を実質的に認めています。

 しかもこの頃、日本では大規模な災害が続けざまに発生しました。元禄10年と11年には江戸が大火に見舞われ、元禄16年(1703年)には関東地方を大地震が襲い、江戸で大火が発生して甚大な被害を受けています。同年に「宝永」と改元されますが、宝永4年(1707年)には東海道・畿内・南海道を中心に大地震と大津波が発生し、さらには富士山が大噴火を起こして宝永火口が出現、大量の火山灰が降り注いで大飢饉となりました。浅間山や阿蘇山など各地の火山も連動して噴火したうえ、宝永5年(1708年)には京都で大火が起きて御所が焼亡し、物価高騰もあって人心は大いに動揺します。

 荻原重秀は災害復興を担当し、長崎貿易の振興や佐渡金山の再開発を継続し、全国の酒造家へ運上金を課し、大名にも課税するなど資金調達につとめました。しかしあまりの被害に元禄改鋳での差益金が吹っ飛び、幕府財政は再び赤字に転落したため、やむなく重秀はさらなる改鋳を行います。

◆キラキラの◆

◆灰◆

【続く】

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