【つの版】度量衡比較・貨幣135
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
17世紀から18世紀にかけて、欧州・アジア諸国は同盟国や植民地を巻き込んで戦争に明け暮れていました。前回は清朝を見てきましたから、次はその周辺諸国である朝鮮・琉球・ベトナムの貨幣について見ていきましょう。
◆韓◆
◆国◆
大同宣恵
復習してみましょう。朝鮮半島では長らくチャイナの貨幣を輸入したり、金銀や布などを貨幣にしたり物々交換したりしていましたが、10世紀末に契丹との貿易のため初めて独自の銭を発行し、12世紀には銀・銭・布が主な貨幣として流通し始めます。元朝支配下では元の紙幣(宝鈔)も流通していました。高麗が滅んで朝鮮が建国されると、楮貨(紙幣)や銅銭「朝鮮通宝」が発行されますが、民間では米や布が流通していました。15世紀に日本を訪れた朝鮮通信使は、日本で銭が流通しているのを驚いています(朝鮮でもチャイナから来た宋銭や明銭は使われてはいたようですが)。
14世紀から16世紀にかけて、朝鮮は明朝ともども倭寇に悩まされ、16世紀末には日本の侵略(文禄・慶長の役、壬辰・丁酉倭乱)およびこれに呼応した民衆反乱によって壊滅的な被害を受けます。宗主国たる明朝の支援と豊臣秀吉の死によって日本軍は撤退したものの、国内は大いに荒廃しました。
とはいえ朝鮮は明国に負けず劣らず腐敗しており、民衆はもとより重税にあえいでいました。支配階層の官吏・両班(士大夫)や豪商は免税特権を持ち、大土地所有を行って富み栄えていましたが、彼らの下にない小作農らは土地1結(0.7-4ha)につき田税4斗を課され、他にも多数の税や手数料、賄賂を納めねばなりませんでした。さらに労役や兵役もあり、貧窮した民は公営や私営の高利貸しから前借りせざるを得ず、借金返済に苦しみます。こうなると国庫の歳入も確保できず、国政改革は急務でした。
1608年、領議政(首相)の李元翼はソウル周辺の京畿道に対し「代貢収米法(のち大同法、宣恵法と改称)」を試験的に導入します。これは田祖・軍役に加えて民に課されていた特産品(鉱産物・水産物・手工業製品・毛皮・木材・果物等)の貢納・進上(運搬)の負担を、一定額の米や布などで代納させるものでした。これ以前には貢納請負人が各地で特産品を購入して運搬し、代価を後から徴収する方式が普及していましたが、彼らは現地では産物を安く買い叩き、首都などでは高く売って差額で儲け、現地の民に負担を押し付けていたのです。
これに対し大同法では、農地1結あたり米10-16斗(のち12斗)、または綿布2匹、銭4両などにほぼ統一されました(地域により差異あり)。免税特権を持たない小作農や小土地所有者にとっては中間搾取が排除され減税となりますが、貢納請負人と結託して儲けていた大土地所有者たちは反発し、大同法が朝鮮全国(平安道・咸鏡道・済州島を除く)に普及するには100年を要しました。これにより国庫の歳入は増え、財政再建が軌道に乗ります。
秀吉死後に天下人となった徳川家康は朝鮮との国交回復に尽力し、1607年には11年ぶりに朝鮮通信使を江戸へ派遣させることに成功しました。ただしこれは「回答兼刷還使」、つまり朝鮮側の国書への回答と捕虜の送還を求める使節で、1617年と1624年にも来訪し、最終的に6000-7500人ほどの捕虜が送還されます。国書への回答は幕府も朝廷も行わず、対馬藩が例によって返書を偽造して穏便に済ませています。1636年からは名称が通信使に戻され、オランダ商館長の江戸参府ともども、国内外に幕府の権威をアピールするものとして利用されました。饗応には莫大なカネ(100万両とも)がかかったため、幕府もそうたびたびは招けなかったようですが。
常平通宝
しかしこの頃、朝鮮の北では満洲族のヌルハチがアイシン国(後金)を建国し、明朝に反旗を翻していました。明朝は朝鮮ともども討伐軍を派遣しますが大敗を喫し、ヌルハチの跡を継いだホンタイジは朝鮮に侵攻します(丁卯胡乱・丙子胡乱)。1637年、朝鮮は首都漢城(ソウル)に迫られ、アイシン国改め大清国の皇帝となったホンタイジに屈服しました。これより260年近くの長きに渡り、朝鮮は清朝の朝貢国として存続します。
1633年、朝鮮では新たな銅銭「常平通宝」が発行されます。「常平」とは元号ではなく、貧民救済(常平、経済格差是正)のために穀物を貸し付ける機関として設置された常平庁が発行したことによります。時期的に北方からのアイシン国/大清国からの圧迫に対応するためかと思われますが、発行量はまだ多くなく、あまり普及していません。
その40年あまり後、1678年から大量の常平通宝が発行され始めます。これは1枚で通常の銭2文にあたる(折二銭)とされ、400枚(銭800文)で銀1両=白米1升にあたると規定されます。同時代の清朝では銀1両=銭1000文(実態は800文)ですからおおむね同じですね。この頃には清朝や日本との紛争もなくなり、大同法が全国に施行されて国の税収も増え、朝鮮は(党争は激化していましたが)平和と安定の中で経済発展を遂げ、ようやく貨幣経済が浸透するに至ったのです。1752年にはやや小型化し、1778年からは1枚1文の小平銭(葉銭)も大量に発行されました。
琉球貨幣
15世紀に成立した琉球王国は、明朝との朝貢貿易や朝鮮・日本との貿易によって繁栄しました。国王は即位記念として大世通宝・世高通宝などの記念コインを発行していますが、民間ではチャイナや日本からの輸入銭が用いられました。ただ1561年に琉球を訪れた明朝の使節は「貨幣は薄くて小さく、文字はなく、10枚で1文にあたる」と報告しています。これは「鳩目銭」「鳩字銭」と呼ばれ、1枚1枚の銭は鳩の目のように孔が大きく文字もなく、400枚から1000枚を細い縄に通し、結び目に封をして使われました。
1609年、徳川家康は島津氏に命じて琉球王国に侵攻させ、島津氏の庇護下に置いて貿易を管理させました。琉球は明朝との朝貢貿易を継続しつつ、それによって得られた利益の多くを島津氏や幕府に上納させられ、将軍や琉球国王の代替わりごとに使節を江戸へ派遣する義務を課されました。明朝もやむなくこれを黙認し、日本の産品を輸入する窓口としたのです。
島津氏は1599年頃から大隅国姶良郡加治木(現鹿児島県姶良市加治木)で明の洪武通宝を真似て銭を私鋳しており、これを「加治木銭」と言います。島津氏から琉球に送り込まれた代官の伊地知氏(のち当間氏)は、この加治木銭をもとに大量の鳩目銭(当間銭)を発行しました。1636年に幕府が寛永通宝を発行し始め、1643年に銭の私鋳を禁止すると加治木銭も鋳造を終え、寛永通宝が琉球にも流れ込みます。
大越貨幣
現在のベトナムの領域のうち、南部は19世紀までチャンパ王国やクメール人の領域でした。唐の滅亡後、10世紀に独立して紅河デルタ地帯に興った諸王朝は、11世紀から何百年もかけて「南進」を行い領土を広げました。
丁朝大瞿越国(966-979年)では、建国者の丁部領が971年(太平2年)に「太平興宝」という銅銭を発行しました。次の前黎朝(980-1009年)では「天福鎮宝」が、李朝大越国(1009-1225年)では太祖が「順天大宝」、太宗が「乾符元宝」「明道元宝」など元号を冠した銅銭を発行しています。しかし宋銭の方が品質が良かったため大量の宋銭が流入し、陳朝(1225-1400年)末期には銅銭の発行が停止しています。
西暦1396年、陳朝の外戚として実権を握った黎季犛は明朝の制度を真似て「通宝会鈔」という紙幣を導入し、銅銭の使用を禁止して紙幣と交換するよう臣民に命じました。しかし交換に応じる者はほとんどおらず、この政策は失敗に終わっています。黎季犛は1400年に陳朝の皇帝から譲位され、姓を胡に改めて胡朝を興しますが、1407年に明朝に征服されます。
明朝の直接支配は20年に及びましたが、反乱によって駆逐され、反乱軍の指導者であった黎利が帝位について後黎朝(1428-1789年)を建てました。黎利は1銭=50銅とし、「順天元宝」という銅銭を発行していますが、紙幣は発行しませんでした。
太祖黎利の孫・聖宗(在位1460-1497年)はチャンパに遠征を行って属国化し、大きく領土を広げ、後黎朝の最盛期を築きました。しかしその後は短命の皇帝が続いて国内が混乱し、権臣の莫登庸が1527年に帝位を禅譲されて後黎朝を滅ぼし、莫朝を開きます。しかし後黎朝の皇族は各地で貴族たちに担がれて武装蜂起し、莫朝は1592年にほぼ滅ぼされ、残党は明朝に帰順して1683年まで地方政権として残存します。莫朝では銅が不足していたため亜鉛と鉄で銭を作り、私鋳銭も横行して経済は混乱しました。
後黎朝は名目上は復活したものの、その皇帝は北部を支配する鄭氏(東京国)の傀儡となり、南部には阮氏(広南国/安南国)が割拠しました。広南国は人口と支配面積では東京国に劣ったものの、明朝・日本・ポルトガルなど諸外国と盛んに貿易して経済的に繁栄し、大砲などの装備を調え、東京国の侵攻を防ぎつつ南へ勢力を伸ばします。東京国はこれに対してポルトガルと対立するオランダや英国と手を結びました。明朝はこの争いに介入できぬまま1644年に滅亡し、清朝も三藩に阻まれて介入できず、南北分裂は18世紀後半まで固定化されることになります。
◆越◆
◆南◆
【続く】
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