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【つの版】度量衡比較・貨幣134

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 17世紀から18世紀にかけて、欧州諸国は同盟国や植民地を巻き込んで戦争に明け暮れていました。では同時代のアジアはどうなっていたでしょうか。トルコ、イラン、インドの3帝国に続いて、チャイナを見ていきましょう。

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大清制銭

 明朝滅亡後にチャイナを征服した清朝の貨幣制度は、秤量貨幣であると計数・信用貨幣である銅銭の併用でした。銀は主に税金や支配層への給与、対外貿易や高額取引に用いられ、銅銭は日常の商取引に用いられました。

 銅銭の発行はヌルハチ(太祖)の時代から行われています。彼は西暦1616年にハン(皇帝)を称して国号を大金(アイシン/後金)、元号を天命と定め、満洲文字を作らせ、八旗を組織しました。また「天命汗銭/天命皇宝」「天命通宝」等の銅銭を作り、一面に漢字を、一面に満洲文字を刻んでいます。次の皇帝ホンタイジ(太宗)は天聡と改元し、1枚が10文に相当する天聡汗銭/天聡通宝を発行しました。彼は天聡10年(1636年)に国号を大清と改め崇徳と改元しましたから、崇徳通宝も発行されたはずですが、本物は今のところ確認されていないようです。

 崇徳8年(1643年)にホンタイジが崩御し、子のフリン(世祖順治帝)が即位して翌年順治と改元しました。順治元年(1644年)に明朝が滅び、清軍が山海関から入って北京を制圧すると、清朝は銅銭「順治通宝」を発行します。これは清軍が征服した領域で明朝や非清朝の銭に代わって強制的に流通させられ(制銭)、満洲文字は刻まれていません(のち満洲文字も再び刻まれるようになります)。順治4年(1647年)には銭1000文(1貫)=銀1両(37.3g)と定められました。銭の成分は銅7割、錫3割の黄銅です。

 順治8年(1651年)には、明朝の宝鈔を真似て紙幣(順治鈔貫)が発行されます。これは額面10文から1貫(1000文)まであり、年間13万貫、順治18年(1661年)までの10年間に128万貫が発行されました。しかしインフレを招いたため同年に発行が停止され、以後は咸豊3年(1853年)の大清宝鈔・戸部官票の発行まで200年近く、清朝は紙幣を発行しなくなります。

 チャイナをほぼ平定した順治帝が在位18年で崩御すると、康煕帝(在位1662-1722年)、雍正帝(在位1723-1735年)、乾隆帝(在位1735-1796年)が続き、元号を冠した銅銭を発行しています。康煕帝の頃には南方の三藩や台湾の鄭氏政権が割拠しており、清朝はこれを封じ込めるため1650年代から30年に及ぶ海禁政策をとって海外との貿易を原則禁止しましたが、銀の輸入が減少して高騰し、物価が低下するデフレ(銀荒穀賤)が起きています。

 康煕20年(1681年)に三藩が滅ぼされ、その2年後に台湾の鄭氏政権が滅亡すると、海禁政策は解除されて海外貿易が再開されます。すると今度は大量の銀が輸入され、銀1両の価値は銭780-800文まで下落しました(銭貴)。清朝は雲南など各地の銅山を開発させ、銅銭を盛んに発行し流通させましたが、民間では価値が上昇した銅銭の密造が増えました。清朝は密造対策として「放本集銅」制度を行い、銅を中央政府に集めて正式な銅銭のみを流通させようとしますが、次第に銅山の経営が不振となり、日本など海外から銅を輸入するようになっていきます。また銀が銭に対して安くなったため、銀で俸給を受け取る官人は収入や財産が目減りしてしまいました。

 康煕帝が発行した銅銭「康煕通宝」の中には、通常の銭よりも一回り大きく、黄色っぽい銭が含まれています。これは宮廷での内部の祝い事があった時に発行された記念コインで「内廷銭」と呼ばれ、康煕帝が還暦祝いに発行したとの伝説から「万寿銭」といい、チベットを征服し仏像(羅漢像)を熔かして作った銭との伝説から「羅漢銭」といいます。

 こうしたデフレやインフレの影響、年代や地域格差も考慮すると、清代の労賃や物価を現代の日本円に換算することは困難です。一応明代後期の物価や労賃を鑑みると、銭1文≒100円、銀1両=銭1貫文≒10万円(銭貴後は8万円)ぐらいにはなりそうです。これでひとまず計算してみましょう。

養廉銀銭

 清朝初期には、明朝の万暦年間に改訂された『大明会典』をチャイナ統治のために流用しており、康煕29年(1690年)には大明会典に倣って『大清会典』を編纂しています。官人への俸給もこれらに拠っていましたが、官品によって差異があり、一品は年に銀180両(1両=8万円として1440万円)、二品は150両、三品は130両、四品は105両、五品は80両、六品は60両、七品は45両、八品は40両、正九品は33両、従九品や未入流(下っ端役人)は31両となっています。

 地方官でいうと知府(知事)が従四品で、京県の知県(地方中核都市の市長)が正六品、県令が正七品となりますが、下級官人の俸給は月3両(24万円)ほどでした。12ヶ月で年収36両(288万円)、ボーナスもあるでしょうからそれなりですが、出ていく額も多く、俸給だけでは生活が立ちません。一家が粗食して切り詰めたとしても、出勤用に馬を飼えば月に銀5-6銭(0.5-0.6両≒4-5万円)かかり、毎月5-6日ぶんが不足するといいます。とすれば1日の生活費は銀1銭(8000円)と結構カツカツです。

 このため官人は汚職や公金の横領に手を染め、手数料として多額の賄賂を要求するようになりました。また税金は明朝以来銀納でしたが、官人は「火耗(鋳熔かした銀の減少したぶん)」と称して1両ごとに5-6銭を余計に徴収し、懐に入れて私腹を肥やしたといいます。倍額にして半分もらわないだけまだマシな気はしますね。明清代には「清官三代(清廉な官人でも三代は暮らせるカネが手に入る)」「三年清知府、十万雪花銀(3年間清廉に地方を治めても10万両の銀が貯まる)」と言われたほどです。皇帝が汚職を取り締まろうとしても、誰も汚職をしていない者がないため全員が取り締まられ、行政が滞ってしまうためにできない有り様でした。

 官人の下で実務を担当する者を「胥吏」といいますが、彼らは庶民が労役として納税の代わりに働いているていであるため俸給がなく(必要経費は支払われたようですが)、手数料/賄賂を要求して収入としています。胥吏は徒弟制度によって受け継がれ、地元の顔役として数々の利権を掌握し、胥吏の権利を貸し出して利益を得ることも行われました。

 雍正元年(1723年)、この問題に対処するため「養廉銀」制度が導入されます。これは官人に充分な給与を支給することで、賄賂に頼らずとも生活が成り立つようにし、汚職を未然に防止するという意図のもと制定されたもので、「清廉さを養うための銀」という意味でそう呼ばれます。一般に本給の10倍から100倍の間とされますが、全額そのまま支払われるわけではなく、行政費用をこの支給額で賄うための地方交付金的なものでした。また中央政府が黙認していた「火耗」は廃止され、養廉銀の財源に充当されます(耗銭帰公)。しかし官吏の汚職や賄賂が収まることはありませんでした。

地丁銀制

 清朝は税制も明朝から「一条鞭法」を受け継ぎ、賦税(土地税)と徭役(人頭税)をまとめて支払うように定めました。しかし郷紳(科挙に合格した官員を出した地方の名望家)には免税特権が与えられており、人頭税を逃れるため戸籍に登録されることを拒む者も大勢いました。

 康煕帝は各地に軍事遠征を行いつつも宮廷費用の節約や減税につとめましたが、康煕51年(1712年)には在位50年を記念して「永不加賦」を宣言します。これは前年に戸籍に登録されていた成人男子(壮丁)2462万人を人頭税を課す人口の上限とし、これ以後に戸籍に登録された者には永久に人頭税を課さないという勅令です。当時の推定人口は1億人を超えていましたが、清朝は戸籍での人頭税徴収を事実上断念し、土地を税収の基本としたのです。

 次の雍正帝は正式に人頭税を廃止し、土地税のみを銀で納めるように定めました。これを「地丁銀制」あるいは「攤丁入地(人頭税を土地税に割り当てて入れる)」といいます。康煕55年(1717年)には広東省で試験的に開始されており、雍正4-7年(1726-29年)には満洲や貴州・山西・台湾等を除くほとんどの省で適用されました。ただし労役などの税は廃止されず、戸籍登録も継続されています。

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【続く】

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