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【つの版】ウマと人類史:近世編18・明清交替

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1643年、大清国皇帝ホンタイジは志半ばにして51歳で崩御しました。急死過ぎて遺言もなく、後継者もはっきり決められていなかったため、またしても跡継ぎ問題が持ち上がります。

◆侵◆

◆入◆

清朝入関

 ホンタイジには先妻ウラナラ氏との間に長男の粛親王ホーゲがおり、年齢も27歳と問題ありませんが、ホンタイジの異母弟で31歳のドルゴンを押す派閥のほうがやや有力でした。しかし、彼が即位するとホーゲ派が敵に回って帝国が二分され、よろしくありません。そこでホンタイジとモンゴル・ホルチン部出身の側室ブムブタイの間に生まれたフリン(福臨/順治帝)が6歳で皇帝に擁立され、ドルゴンと従兄ジルガランが摂政となることにしました。ジルガランは権力をドルゴンに譲り、実態はドルゴンの独裁となります。

 1644年、西安で大順王と称した李自成は太原を制圧して北京へ進撃し、3月に北京を陥落させて崇禎帝を自決に追い込みます。貧民上がりの反乱者・朱元璋に始まる明朝は、貧民たちの反乱によって滅亡したのです。李自成は天命を受けた天子・皇帝となるべく即位式を行おうとしますが、各地に残存する明朝の皇族や地方長官らはこれに従いませんでした。

 遼東総兵の呉三桂は、崇禎帝の要請で北京防衛のため西へ向かっていましたが、北京陥落と崇禎帝の自決の悲報を受けて動揺します。李自成は北京にいた呉三桂の父・呉襄らを人質とし、降伏すれば地位は保証すると伝えますが、東からはドルゴン率いる清軍が迫ってきています。呉三桂は山海関まで引き返したのち、数日考えて清朝に降伏しました。1644年4月、清軍は雪崩を打って山海関からチャイナ本土へ入り、李自成は兵を率いて迎撃に出ますが打ち破られて敗走し、北京入城から40日で追い出されます。

明清交替

 ドルゴンは北京を接収すると民心安定につとめ、残された明朝の統治機構を温存します。李自成は山西を経て陝西に戻り、首都を西安に置いて清軍に対抗しますが、劣勢は覆せませんでした。南京では万暦帝の孫で福王の由崧(弘光帝)が6月に擁立されて明朝復興を宣言し(南明)、四川省では8月に張献忠が成都を占領、大西皇帝と称して陝西侵攻を狙います。10月、順治帝フリンは瀋陽から北京に遷り、清朝の首都としました。

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 1645年2月、清軍は陝西に侵攻して李自成を駆逐し、李自成は南へ落ち延びますが農民に殺され(行方不明とも)、大順は滅びました。5月にはドドが清軍を率いて南明を討ち、徐州・揚州・南京を制圧します。弘光帝は南へ逃れますが捕らえられ、北京に送られて翌年処刑されます。張献忠は清軍に制圧された漢中へ侵攻しますが打ち破られ、1646年にホーゲに敗れて戦死します。ホーゲはそのまま四川を攻めて残党を征伐しますが、1648年ドルゴンに北京へ呼び戻され、罪を着せられて粛清されました。ドルゴンも1650年に急死し、その一派は粛清されます。1655年にはジルガランが逝去、1661年には順治帝フリンが崩御し、子の玄燁(康煕帝)が跡を継ぎました。

 この頃、清朝は支配下の民に対して「剃髮易服」を命じています。入関以前、1631年にホンタイジが「降伏した将兵は薙髪(辮髪)にせよ」と命じており、1636年には「漢人の官民男女は、衣服や髪型をみな満洲人の様式(胡服辮髪)に変えよ」と命じました。敵味方の区別をつけるためもあったのでしょうが、儒教に染まった漢人には甚だ嫌われました。1644年、入関したドルゴンは薙髮令を命じますが、反発が強いとして撤回します。しかし翌年からは薙髮令が支配地域に徹底され、「髪を残せば首を斬る」として押し付けられます。かなり抵抗運動はあったものの、この髪型と衣服は次第に定着し、清朝の人民の一般的スタイルとなります。ただ朝鮮にはモンゴル時代の高麗のようには定着せず、明朝の衣服と髪型が保持されました。

 チャイナの大部分は入関から数年で清朝に平定されましたが、南では鄭成功らがなおも抵抗を続けます。彼は福建省の海商・鄭芝龍の子で、母は日本の平戸の武士・田川七左衛門の娘マツといいます。父は東シナ海を股にかけて活動し、台湾南部に入植したオランダ人とも交易して巨万の富を築いていましたが、1645年7月に福州で明朝の皇族を奉じ皇帝とします(隆武帝)。

 しかしこの政権は貧弱で、1646年8月に清軍に滅ぼされます。鄭芝龍は清朝に降りますが、鄭成功は広東省肇慶に立った朱由榔(永暦帝)を奉じて反清復明運動を継続します。永暦帝は一時勢力を伸ばしますが、1650年には清軍の反撃に遭い、広東・広西・貴州・雲南を経てビルマへ逃れ、1661/62年に処刑されました。鄭成功は同年台湾のオランダ人入植地を征服して拠点としますが急死し、以後20年に渡って子孫が台湾を統治しました。

法王転生

 さて清朝が成立した頃、モンゴル高原北部では外ハルハ(七旗ハルハ)が勢力を持ち、西のオイラトと対立していました。外ハルハの始祖はダヤン・ハーンの子ゲレセンジェで、母方のジャライル部と結んでヘンティー山脈・ハンガイ山脈まで勢力を広げ、長子アシハイは右翼(南面して右手/西方)、三男ノーノホと五男アミンドラルは左翼(東方)を治めました。

 ノーノホの子アバダイはオイラトを破って勢力を広げ、1585年にはモンゴル帝国の首都カラコルムの故地に入ります。この頃アルタン・ハンが逝去してトゥメト部が混乱していたので、アバダイはトゥメト部に赴いて例のダライ・ラマ3世の庇護者となり、「ノムン・イェケ・オチル・ハン(仏法の大金剛王)」の称号を賜ります。彼はカラコルムの遺跡を利用してエルデネ・ゾーという仏教寺院を建立し、自らの権威を喧伝しました。

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 1588年にアバダイとダライ・ラマ3世が相次いで亡くなると、外ハルハではアシハイ家のライフル・ハンと従兄弟のウバシ・ホンタイジハルハのアルタン・ハン)が西方にあってオイラトと戦います。彼らはダヤン・ハーンの子孫ですから血統上もハンを名乗るのに問題はなく、チャハル部のリンダン・ハーンやトゥメト部よりも強大な勢力を誇っていました。

 これに対して、トゥメト部はダライ・ラマ4世を擁立します。彼は1589年にトゥメト部に生まれたモンゴル人で、1592年に「ダライ・ラマ3世の転生である」と認定されました。当然トゥメト部の権威付けのための選出で、ゲルク派側も外護者を得られてWIN-WIN関係です。彼は成長するとトゥメト部の軍隊に護衛されつつゲルク派の聖地ラサに入りますが、チベットを支配するツァン派やカルマ派に反発され、1617年に亡くなっています。

 ゲルク派はさっそく彼の転生を捜索し、1622年にダライ・ラマ5世として即位させました。彼はモンゴル人ではなくチベット人ですが、モンゴルの勢力を背景としてツァン派・カルマ派と対立しました。ツァン派・カルマ派はこれに対抗すべく、モンゴルやオイラトに布教し味方につけようとします。

国師法王

 オイラトはエセン・ハーンの滅亡後は勢力を縮小させ、アルタイ山脈からジュンガル盆地、セミレチエにかけてを治める程度になっていました。また部族同士の争いも激しく、この頃にはホイト、バートト、バルグ、ブリヤート、ドルベト、ジュンガル、トルグート、ホシュートの八部族に分裂していました。このうち最も有力なのはドルベト部(旧チョロース、エセンの出身部族)で、ドルベトの分派で左翼(ジェウン・ガル)を担っていた部族であるジュンガル部、モンゴル系のホシュート部、ケレイト系のトルグート部などがそれに次ぐ勢力を持っていたといいます。

 ウバシ・ホンタイジらに押し出されて、オイラトの諸部族は西へ移動し、カザフ・ハン国の東端、シベリアを制圧しつつあるモスクワ・ロシアとの国境地帯に進出します。ウバシ・ホンタイジは1619年頃にモスクワへ使節を派遣し、これらオイラトを挟み撃ちにしようと提案しました。この書簡では、オイラトを「カルムイク」と呼んでいます。これはテュルク語ハリマグ(留まった者たち)に由来し、異教(仏教)に留まってイスラム教に改宗しない者たちをカザフ人らがそう呼んでいたもののようです。

 モスクワはこの申し出を断りますが、ウバシ・ホンタイジは1620年に侵攻してきたオイラトを単独で撃破します。オイラトの首長らはシベリアへ逃げ込んで体勢を建て直し、1623年に再びハルハを攻め、ウバシ・ホンタイジを殺害しました。チャハル部のリンダン・ハーンはこの隙に勢力を広げ、フフホトを制圧します。彼はゲルク派ではなくカルマ派につき、ゲルク派勢力を打倒すべくチベットに遠征しますが、1634年に急死しました。

 なお1630年、オイラト・トルグート部の長ホー・オルロクらは内紛を避け、5万家族の属民を率いて西方へ移動し、ヴォルガ川流域に住み着きます(ヴォルガ・カルムイク)。彼らはチベット仏教を信仰しており、現地のムスリム系遊牧民ノガイを追い払って勢力を広げ、ロシアと同盟しています。

 リンダン・ハーンに従っていた外ハルハ左翼の長チョクト・ホンタイジはそのままアムド(青海)へ侵攻し、1635年にこれを平定します。ここに至りゲルク派はモンゴルの敵であるオイラトを新たな庇護者とし、救援を要請しました。ホシュート部の長トゥルバイフ、ジュンガル部の長ホトゴチンらはこれに応じてアムドへ進軍し、1637年にこれを平定します。

 ダライ・ラマ5世はトゥルバイフに「テンジン・チューキ・ギャルポ(持教法王、護教法王)」の称号を授けました。これはモンゴル語でシャジンバリクチ・ノミン・ハン(護教法王)あるいはグーシ・ノミン・ハン(国師法王)と訳されます。略してグシ・ハンといい、非モンゴル系オイラトながらチベット仏教の権威を借りて「ハン」を名乗ったのです。

 グシ・ハンはホトゴチンに「バートル・ホンタイジ」の称号を授けてオイラトに帰らせ、自らはアムドにとどまってチベット平定を続行します。1642年までにはチベット全土をほぼ平定してチベットの王(ハン)となり、ダライ・ラマの権威によって君臨しました。

 この間に、後金ハンのホンタイジはフフホトを征服してトゥメト部とチャハル部を滅ぼし、モンゴル帝国の天命を受け継いだと称して1636年に大清皇帝を名乗りました。外ハルハとオイラトはこれに対抗するため和睦・同盟しますが、清朝はチャイナの征服を優先し、モンゴルやオイラト、チベットに対しては友好関係を結ぶだけにとどめます。しかしこの頃には北方からロシア人が進出し始め、ハルハやオイラトも絡んで国境紛争が始まります。

◆Out◆

◆Sider◆

 駆け足で明清交替期を見てきました。次回はロシアに戻りましょう。イヴァン4世ののち、モスクワ・ロシアはどうなっていたのでしょうか。

【続く】

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