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【つの版】度量衡比較・貨幣40

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 鎌倉幕府が滅亡し、日本は南北朝時代に突入します。全国各地で戦乱が続き、中央の統制も緩いこの時代に倭寇が出現しました。

◆Edge◆

◆Runners◆

南北朝乱

 吉野の後醍醐天皇は、北陸に恒良親王や新田義貞、鎮西(九州)に懐良親王、東国へ宗良親王、奥州へ義良親王らを派遣し、光明天皇を擁する足利尊氏から天下を奪還せんと図ります。しかし1338年には越前で新田義貞が戦死し、恒良は捕らえられて幽閉され、宗良・義良は伊勢から出航したものの船が座礁して遠江に漂着し、懐良は伊予から先へ進めぬままでした。1339年、後醍醐は吉野に戻ってきた12歳の義良を皇太子とし、8月に皇位を禅譲すると翌日崩御しました。これが後村上天皇です。

 足利尊氏は1338年には征夷大将軍に任命されますが、南朝との戦のために京都を離れられず、二条高倉などの邸宅に住んでいました。1348年には足利家執事の高師直らが京都へ侵攻してきた南朝方の楠木正行(正成の子)を撃破し、吉野へ攻め込んで後村上天皇を紀伊まで追い払いましたが、尊氏の弟で幕府の実権を握る直義は師直らと対立します。

 1350年、この対立は足利政権の内戦にまで発展し、直義は南朝と結んで兄と対立します(観応の擾乱)。尊氏は事態を鎮めるべく南朝に降伏し、北朝の天皇(崇光天皇)を廃位して皇統を再統一します(正平の一統)。喜んだ後村上天皇は尊氏に直義追討の綸旨を授け、鎌倉に割拠していた直義は敗戦の末1352年に降伏、直後に死去しました。勢いに乗った南朝方はこれを好機として足利氏と北朝勢力を排除しようとしますが、尊氏は再び北朝系の後光厳天皇を擁立して対抗します。その後も南朝方はしばしば京都を襲撃し、尊氏は対処のために東奔西走した末、1358年に逝去しました。

倭寇之侵

 1451年に編纂された『高麗史』によると忠定王2年庚寅(1350年)2月、倭が固城・竹末・巨済・合浦など高麗南部沿岸を寇し、武官らにより撃退されました。これ以前にもしばしば倭の侵入は記録されていますが、これが「倭寇之侵」の始まりとされます。同年4月には倭船100艘が順天府・南原・求礼・霊光・長興など全羅道南部の各地を襲撃し、5月にも倭船66艘が順天府を襲いました。6月には倭船20艘が合浦・固城・会原・長興を、翌年8月には倭船130艘が紫燕・南陽などを襲い、次の恭愍王(在位:1351-1374年)の時にも頻繁に倭の襲撃がありました。

 状況的に、これらの倭寇は九州を抑えていた南朝方の武士や海賊と思われます。数十から百を超える船に乗った武装集団が各地を襲撃し、土地を占領するでもなく食糧や金品・人民を奪って去っていくのですから、軍資金を調達するための行動でしょう。当時のチャイナは元末の動乱期で治安が極度に悪化しており、高麗も動乱に巻き込まれて動揺していましたから、例の悪党たちが日本を飛び出て跳梁跋扈してもおかしくはありません。商売上手な亡命宋人の末裔も加わっていたことでしょう。

 この頃、日本ではチャイナからの宋銭輸入が停止し、銭が不足して貨幣価値が高騰したため、宋銭を模倣した粗悪な私鋳銭(島銭)が横行しました。文字は稚拙で形をなさず、薄く軽い悪銭(鐚銭)ではありますが、嫌われつつもそれなりに流通したようです。倭寇の活動はチャイナ本土や高麗から良質な銭を獲得するためもあったのでしょう。

懐良親王

 この頃、九州では後醍醐天皇の皇子・懐良親王が活動していました。彼は1329年頃の生まれと思われ、1336年に8歳で伊予国忽那島へ渡り、父が崩御したのち1341年頃に薩摩に上陸します。五条頼元の輔佐のもと、北朝方の島津氏と対峙しつつ菊池氏・阿蘇氏ら諸豪族を味方につけ、1348年に肥後国隈府城(熊本)に入って征西府を開きます。

 観応の擾乱が勃発すると、尊氏の子で長門探題であった直冬は瀬戸内で不穏な動きを見せ、父に追討されて九州へ逃れました。彼は懐良親王らと手を組んで勢力を盛り返し、一時は父と和解して九州探題に任じられますが、再び背いて南朝方とともに上洛します。こうした混乱に乗じて懐良らは勢力を広げ、尊氏没後の1361年にはついに大宰府を制圧しました。

 尊氏の跡を継いだ義詮は、直冬派を鎮圧しつつ斯波氏経を九州探題に任命して討伐に向かわせますが撃退され、続いて派遣された渋川義行は九州にすら入れず、義詮は混乱を収拾できぬまま1367年に世を去ります。跡を継いだ義満は僅か10歳で、管領・細川頼之が実権を握りました。

 この頃、懐良親王は明朝からの使節を迎えています。『明史』日本伝によれば、明朝が興って方国珍・張士誠ら江南の諸勢力を制圧すると、諸豪は亡命して島人を糾合し、山東地方沿岸部の州県を寇(襲撃)しました。洪武2年(1369年)3月、洪武帝朱元璋は楊載を使者としてその国に派遣し、日本国王の良懐(懐良親王)に詔勅をもって告諭させ、入寇の理由を詰問させました。しかし良懐は従わず、福建にまで襲撃してくるようになります。

 洪武3年(1370年)3月、明朝は萊州府同知の趙秩を派遣して再び問責させます。関所(港)を守る者は使節を拒んで入れませんでしたが、詔書をもって抵抗すると良懐は使節を招き入れ、話を聴きます。そしてこう答えます。

「我が国は扶桑の東にあるといえど、いまだかつて中国(チャイナ)を慕っておらぬ。かつて蒙古が我らを侮って服属させんとしたが、我が先王は服属しなかった。蒙古は趙姓の使者を遣わし脅しと友好的な言葉で交渉したが、言い終わらぬ間に水軍十万が海岸に満ちた。すると天の霊により雷霆と波涛が起こり、たちまち敵軍は転覆したのだ。いま新たな天子が中夏(中華)の皇帝になったというが、使者はまたも趙姓である。蒙古の裔が再び我らを襲おうとしておるのではないか?」

 良懐はこう言って左右の将兵に目配せし、使者を脅しますが、使者は動揺することなくこう答えます。「我が大明天子は神聖文武、蒙古に比べるべくもなく、私も蒙古の使者ではござらん。そちらが兵を用いれば、こちらにも兵はございますぞ」。良懐は恐れてやる気を失い、使者を迎え入れて鄭重にもてなしました。そして僧侶を遣わして表(手紙)を奉らせて臣と称し、馬や方物を朝貢させます。また明州・台州から掠奪した70余人を送還し、洪武4年(1371年)10月に明朝の都・応天府(南京)へ至らせました。洪武帝はこれを嘉し、僧侶を使者として派遣し、暦や錦を良懐へ贈らせます。明朝は良懐を正式に日本国王として承認したわけです。

 ところが、山東や福建での倭寇の活動は全く鎮まりませんでした。洪武6年(1373年)には抗議のために再び明朝から使者が派遣されますが、良懐は傲慢無礼にも使者を拘留し、翌年5月に帰国させました。使者によると、良懐は年少で、持明(持明院統、北朝)が立って争い、国内が乱れているとのことでした。その後も良懐はしばしば朝貢したものの、表がなかったり明朝の暦を用いていなかったりと無礼千万で、倭寇もおさまりませんでした。

征夷将軍

 1370年頃、細川頼之は今川貞世(了俊)を九州探題に任命しています。彼は京都を出発すると1371年に安芸国で毛利・吉川ら国人衆を集め、同年末に豊前に上陸しました。了俊は周防・長門の大内氏ら新興国人勢力と連絡し、豊後の阿蘇氏と肥前の松浦党に一族を送り込むと、1372年6月に大宰府を奪還して懐良親王らを肥後まで駆逐しています。とすると明朝の使者は大宰府に到着して了俊に囚われたわけです。

 了俊ら足利家・北朝方からすれば、明朝が南朝の懐良親王をまがりなりにも正式に「日本国王」と承認していたことは大変不都合でした。そこで一応明朝の使者に事情を説明し、我が持明院統こそ正統政権だと主張したのでしょうが、足利家自体が北朝と南朝の間をフラフラしており、どうもうまく伝わらなかったようです。了俊は九州制圧を進めますが、島津氏が離反して南朝方につくなど手こずり、1392年まで20年以上かかっています。

『明史』日本伝によれば、洪武13年(1380年)に明朝に朝貢に来た日本国の使者は表を持たず、「征夷将軍源義満が丞相に奉る書」を携えていました。しかし書状の言葉は傲慢で、明朝は使節を追い返します。翌年また使者が来ましたが、洪武帝は再び追い返し、書をもって日本国王と征夷将軍とやらを問責しました。特に「征」の字が気に入らなかったようです。これに対し、良懐は書状を送ってこう答えたといいます。

「臣(わたし)が聞きますには、むかし三皇が初めて帝位につき、五帝が宗廟を祀ったとのことです。しかしただ中華に君主がいるだけで、夷狄に君主がないことがありましょうか。天地は広大で、ひとりの君主が権力を独占してはおらず、諸邦は各々分かれています。天下とは天下の天下であり、一人の天下ではございませぬ。臣は遠く弱い倭国におります。狭く小さな国で、城池は六十に満たず、封地は三千に満たず、なお足るを知る心があります。陛下は中華の主となられ万乗の君となり、城池は数千余、封地は百萬里もありながら、なお足るを知るの心を持たず、常に他国を絶滅させようとしておられます。天が殺機を発すれば星宿が移り、地が殺機を発すれば龍蛇が陸を走り、人が殺機を発すれば天地がひっくり返ります。むかし堯舜は徳があって四海が来賓し、湯武は仁であって八方が貢を奉りました。
 臣は天朝(明朝)で戦を興す計画があると聞きましたが、小邦(我が日本国)にもまた敵を防御する策があります。文を論ずれば孔孟道徳の文章があり、武を論ずれば孫呉六韜の兵法がございます。また陛下が股肱の将軍を選抜し、精鋭の軍を起こして我が国境へ侵攻すると聞きましたが、我が国は水澤の地、山海の洲であり、自ら防備を持ちますのに、どうして跪くことを肯んじましょうや。恭順しても生き残れるとは限らず、逆らっても死ぬとは限りませぬ。賀蘭山(寧夏の山)で博打を行い、勝負を決めることをどうして恐れましょうや。もしそちらが勝利して臣が負ければ、しばらくは上国の意を満たせましょうが、臣が勝利すればそちらが恥を晒すことになりますぞ。古来講和を上策とし、戦争を避けるのをよしとするのは、人民を塗炭の苦しみから免れさせ、艱難辛苦から救うためです。特に使者を派遣して陛下に拝礼させます。上国にはこれを図られんことを」

 洪武帝は激怒して日本討伐を計画しますが、蒙古が失敗したことを鑑みて取りやめたといいます。堂々たる文章ですが、これを書いたのは懐良親王でしょうか、それとも征夷将軍こと足利義満でしょうか。

 この頃、懐良親王は大宰府を追われて肥後に逃れており、甥の良成親王に征西将軍の位を譲っています。懐良親王の没年は不明ですが、この頃ではないかと言われます。義満が自らの名で書状を送ってみたものの突っ返されたため、良懐の名を騙って明朝に対抗してみたのでしょう。明朝が怒って日本国王の称号を取り上げてもよし、そうでなくても明朝から良懐への心証を下げられます。倭寇は引き続き高麗や明領を襲撃し続けているのですから、その罪も良懐になすりつけられるというわけです。高麗も倭寇討伐を進めており、1389年には倭寇の本拠地であった対馬に侵攻しています。

 1392年、義満は衰退著しい南朝との間で和約を結び、南朝が北朝に神器を譲ること、南朝と北朝から交互に天皇を出すことなどを条件として、南北朝の対立を一応解消させます。北朝方は反発しますが、九州の良成親王もこれを聞いて降伏し、足利義満のもとで天下はほぼ統一されました。そして彼は明朝から「日本国王」の称号を受けることになるのです。

◆Cyberpunk◆

◆Edgerunners◆

【続く】

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