見出し画像

【つの版】度量衡比較・貨幣48

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 成化7年(1471年)3月、世子の尚圓(尚円)が使者を遣わして父の喪を明朝に告げ、王に封じられました。琉球の史書によれば尚円は尚徳の子ではなく、クーデターによって王位を簒奪したといいます。これが第二尚氏です。

◆Let's◆

◆Rock◆

尚円簒位

 琉球の史書『中山世鑑』によれば、尚円は北夷伊平也いへや嶋の伊是名いぜな首見(現沖縄県島尻郡伊是名村諸見しょみ)の出身です。伊是名島は沖縄本島今帰仁村の北30km沖にあり、北の伊平屋島とともに古くから栄え、三山時代には山北/北山王国に所属していました。

 伝説によると伊平屋島は尚巴志の曽祖父・屋蔵大主が住んでいたとされ、その子・鮫川大主は伊是名に城を築きましたが、島を追われて佐敷に移住したといいます。しかし尚円は彼らとも繋がりがなく、代々百姓であったといいます。後に王になったため、たぶん先祖は王族だったのではないか、とは書かれています。のちの『中山世譜』では舜天王統の義本王の末裔とも、天孫氏の末裔ともいい、父は尚稷という立派な漢名を贈られています。

 尚円の誕生年は永楽13年乙未(西暦1415年)で、幼名は思徳金うむとくがね、本名を金丸かなまるといいます。20歳の時に父母が亡くなり、跡を継いで農耕を行っていましたが、旱魃の時も田に水が枯れないという奇瑞がありました。このため「水を盗んだ」と村人に嫌疑をかけられ、24歳の時に家族ともども対岸の国頭村へ移住しました。そこに数年住みましたが馴染めず、正統6年(1441年)27歳の時に首都・首里へ移住します。

 金丸は尚金福王の時、王叔である越来王子(泰久)の家人となり、次第に出世して景泰3年(1452年)に38歳で黄冠(高官)を賜ります。景泰5年(1454年)に泰久が即位すると西原間切の内間領主に任命され、天順3年(1459年)には御物城御鎖側官(貿易長官)に昇進します。しかし翌年泰久が薨去すると、金丸は尚徳王と意見が合わずに対立し、官を辞して自領に隠遁しました。

 尚徳王は奄美群島に遠征して島津氏とも交流があり、父に続いて世高通宝という銅銭を作りました。また1463年には東南アジアのマラッカ王国(滿剌加)に使節を派遣し、貿易関係を締結しています。

 成化5年(1469年)4月、尚徳王が29歳の若さで薨去したため、群臣はその子を王位につけるか否かを協議します。この席で安里大親なる人が神がかりとなり、「物呉ゆすど我が御主、内間御鎖(金丸)ど我が御主」と世謡を歌ったところ、群臣は「その通り」として金丸を王位に擁立したといいます。ただ『中山世譜』には「群臣が世子を殺し、国人が金丸を推戴した」とありますし、『球陽』には「貴族近臣、王妃乳母が世子を抱えて城に籠り、兵がこれを追って殺した」とありますから、クーデターによる即位に違いありません。金丸がこれに関与していたかはあくまでぼかされていますが、関与していないとはあまり思えません。

 金丸は先代以来の尚氏を名乗り、丸の字を円(圓)となし、漢名を尚円と名乗って明朝に朝貢しました。クーデターのことは明史に記されておらず、尚徳の「子」として跡を継いだと報告しており、明朝もそれを鵜呑みにして(あるいは黙認して)います。背後で何らかの動きがあったのかも知れませんが、史書は黙して語りません。

 日本ではこの頃「応仁文明の乱」が勃発し、東軍の細川氏、西軍の山名氏・大内氏らが争っていますが、明朝への朝貢貿易は続けられています。成化4年/応仁2年(西暦1468年)には「日本国王」足利義政・細川氏・大内氏が共同で朝貢使節を派遣しており、1477年・1484年にも朝貢が行われたと記録があります。細川氏は畿内の堺を、大内氏は博多を主要な貿易港として掌握しており、経済的にも日本国を二分していました。

尚真即位

 琉球の史書によると成化12年(1476年)、尚円王は在位7年で薨去しました。年齢は60歳を越えていますから寿命でしょう。その子真加戸樽金まかとたるかねはまだ12歳であったため、尚円の弟が即位して尚宣威王と号しますが、半年後に行われた即位式の場で神託により退位し(同年逝去)、真加戸樽金が擁立されて尚真王と称したといいます。

 これは尚円の妃で尚真の母である宇喜也嘉おぎやかの陰謀でした。彼女は王府の女官を掌握していましたから、神女のろに思い通りの託宣を言わせることなど朝飯前です。彼女は摂政として実権を握り、国内の神女・祝女を統括する聞得大君ちふぃうふじんという役職を設け、尚真の同母妹をその位につけています。宗教的権威を王家に結びつけ、自らのもとに中央集権を進めようとしたのでしょう。

 明朝からも王位を承認された尚真は、成人すると群臣の支えを受けながらも親政を開始します。彼の治世は母の摂政期間を含めて50年にも及び、按司を首里に集めて位階を授け、地方を再編して間切やシマを置き、王を輔佐する三司官を設けて中央集権を進めました。しかしこの頃、琉球と明朝の関係に変化が現れます。

二年一貢

 明史によると成化10年(1474年)、琉球の貢使が福建で殺人・放火・掠奪を行い、明朝の官憲は捕まえようとしますが逃げられてしまいました。明朝はこれを問題視し、翌年勅を発して王を戒め、「これより朝貢は二年に一度とし、使節団は百人を超えてはならない。私物を携えて勝手に商売したり、道中で騒動を起こしてはならない」と命じました。琉球は「年に一度に戻して下さい」と何度も懇請しますが、明朝は赦しませんでした。明朝にとって朝貢貿易は政治的なパフォーマンスで、財政上は損失なのです。琉球への人材援助や船の提供も、これに先立って取りやめとなっています。

 このため成化14年(1478年)に尚真が父の喪を告げてからは、琉球からの朝貢使節は成化16年(1480年)、18年(1482年)、22年(1486年)、弘治元年(1488年)、3年(1490年)と間隔を開けています(成化20年のは到着しなかったのでしょうか)。しかし弘治3年の使節は「勝手に商品を携え、福建で商取引をした」として明朝からお叱りを受け、弘治17年(1504年)まで14年もの間朝貢していません。記録しなかっただけで朝貢は続いていたのかも知れませんが、この間に何があったのでしょうか。

 琉球側の記録では弘治5年(1492年)、27歳の尚真王は首里に父の冥福を祈って菩提寺を建立し、弘治7年(1494年)に芥隠承琥が開山となって天徳山円覚寺と名づけました。鎌倉の名刹・円覚寺を模して作られ、梵鐘は周防国で鋳造されたといい、周防を拠点として西国を統治していた大内氏との関係を物語っています。芥隠承琥は開山翌年に亡くなりますが、この寺は琉球王国の迎賓館を兼ねて長く繁栄しました。

 弘治13年/明応9年(1500年)には西の八重山諸島に遠征軍を派遣し、反抗した石垣島のオヤケ(按司)であるアカハチ(赤蜂)を討伐して、支配下におさめました。この先導をしたのが宮古島の仲宗根豊見親で、西表島・石垣島などは仲宗根の同盟者が治めることとなります。仲宗根が琉球王府を背景にして先島を支配下に置くために仕向けたのでしょう。先島西端の与那国島はサンアイイソバという女酋長が統治しており、一度は宮古軍を撃退しますが、結局服属します。

 同年には7歳の長男・朝満を廃嫡し、5男の真仁堯樽金(尚清)を嫡子に立てました。これは朝満の母が尚宣威の娘であったためで、彼を廃位した宇喜也嘉には都合が悪かったのでしょう。翌年には王族を葬る陵墓「玉陵たまうどぅん」を建設し、石碑を立てて碑文に被葬者たるべき者を並べ立てていますが、朝満は含まれていません。1505年に宇喜也嘉が亡くなると、尚真王は朝満を世子としますが、1508年に妃の反対で再び廃嫡します。しかし朝満の曾孫はのちに王位に昇っています(その後は尚清王統に戻りますが)。

 成化17年(1504年)には明朝へ久しぶりに朝貢し、「我が国は滿剌加(マラッカ)と常に取引して貢物を得ていますが、嵐に遭って時期を失っておりました」と言い訳しています。正徳2年(1507年)には一年一貢の制度に戻して頂きたいと何度目かの申し出を行い、宦官の劉瑾に取り入って特別に許可されましたが、5年(1510年)に劉瑾が誅殺されると見直されています。

 そして1511年、琉球の取引先であるマラッカ王国はポルトガル人によって攻め落とされ、征服されます。ヨーロッパの西の端からアフリカ大陸沿岸を巡り、インド洋を通って遥々やってきたポルトガル人が、ついにマラッカ海峡を抑えて南シナ海に出現したのです。

◆葡◆

◆牙◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。