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【つの版】度量衡比較・貨幣42

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 チャイナでは古来銅銭が流通し、宋金元の頃には紙幣が流通しました。日本では大量の宋銭を輸入することで貨幣経済が活性化し、平安末期から鎌倉時代には銭が一般庶民にも流通するようになりました。この頃、朝鮮半島ではどのような通貨が流通していたのでしょうか。

朝鮮半島と琉球諸島における銭貨流通と出土銭http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/research/report/report2000/senka/senka.pdf

◆世◆

◆宗◆

高麗以前

 朝鮮半島はチャイナと地続きで、日本よりもチャイナに近いのですから、早くからチャイナの貨幣が届いていました。考古学的には戦国時代ので流通していた「刀銭(明刀銭)」が朝鮮半島北部の遺跡から出土しています。平安北道渭原郡の龍淵洞遺跡では積石を伴う墳墓に400枚もの明刀銭が埋納されており、細竹里遺跡では住居跡付近の土坑から2500枚あまりの明刀銭が50枚ずつ束ねた状態で出土しました。燕国は戦国時代後期には朝鮮半島へ進出していましたから、燕人が持ち込んだものと思われます。

 燕を滅ぼした秦、秦を滅ぼした漢も朝鮮半島に進出し、半両銭・五銖銭・王莽貨泉などをもたらしました。これらの貨幣はチャイナ本土に面した半島西部沿岸に多く見られ、済州島や巨文島、海南郡や金海市のような海上交易と関わる地域からの出土例が多いようです。倭地/日本列島にもたらされたチャイナの貨幣も、このようなルートを通っていたでしょう。高句麗・百済・新羅・任那/加羅が分立した時代にもチャイナの銭が用いられたようですが、民間では穀物や農産物、塩や海産物、布などが取引(物々交換)に使われ、銭は都市部で流通し、副葬品や装飾品としても用いられていたようです。

 7世紀後半に新羅は唐の勢力を駆逐して半島をほぼ統一しますが、独自の貨幣を鋳造した記録はありません。強国であった高句麗や、その後継国家を称した渤海国でも、貨幣はチャイナからの輸入品か、毛皮や布などの実物貨幣だったようです。国際取引には金銀や絹布などを用いました。新羅も後期には豪族が各地に割拠して統制を失い、貨幣発行どころでなくなります。

高麗貨幣

 918年に建国された高麗は、936年に新羅と後百済を滅ぼして朝鮮半島を統一しました。一方、北の契丹は926年に渤海国を滅ぼし、高麗と国境を接することとなります。当初は友好関係を結んでいたものの、高麗が渤海国の王族を匿ったことから関係が悪化します。高麗は契丹との交易を停止し、金属貨幣の流通を禁止して、米(穀物)と布を貨幣としました。960年に宋朝がチャイナに成立するとこれを宗主国とし、契丹に対抗しています。

 993年、契丹/遼朝は高麗に侵攻して臣属させ、宋朝と断交させて朝貢を課し、貿易を再開させました。契丹では鉄銭を用いていたため、高麗は契丹との取引のために初めて銭を作り、996年に唐の「𠃵元重宝」を真似て鉄銭を鋳造しました。背面には「東国」の銘があり、高麗で発行したことを示しています。997年には布を貨幣として用いることを禁止し(1002年に解除)、998年には唐の開元通宝を真似て銅銭を鋳造しました(高麗開元)。高麗は1018年に契丹軍を撃退しますが、1020年に講和して朝貢を継続します。

 1097年、高麗は鋳銭司(造幣局)を設置し、1101年に重さ1斤(600g)の銀瓶を公定の貨幣とし、1102-07年には東国通宝・東国重宝・三韓通宝・三韓重宝・海東通宝・海東重宝という6種の銅銭を発行しました。これは南京(ソウル)建設や北方の国防費を調達するためです。銅銭はあまり流通しませんでしたが、銀瓶は銀のインゴットとして貴族層を中心に流通し、細分化されたものは布とともに民間でも用いられました。1123年、宋朝の使節は「高麗では銭ではなく銀瓶を貨幣としている」と報告しています。

 (麻布)は穀物よりは保存がきくことから、古来民間で貨幣として流通していました(そも貨幣の幣とは布のことです)。高麗政府は通貨となる布の基準を定め、縦糸80本を1升として5升(400本)・長さ35尺(10m余)を1反、2反を1疋/匹としています。奴婢は成人男子で100疋以下、成人女子で120疋とされ、銀瓶1斤が布100疋といいます。とりあえず銀1gを3000円とすれば、600gで180万円となりますから、布1疋は1.8万円(銀6g)、1反は9000円(銀3g)です。

 1125年から27年にかけて、女真族の金朝は契丹/遼朝と宋朝を滅ぼし、契丹は西遼、宋朝は南宋として復活します。高麗は金に臣属しつつ南宋とも貿易を行い、金や日本へ南宋の富をもたらしました。日宋貿易の発展は日本に平氏政権(12世紀中頃-1185年)や鎌倉幕府を成立させ、高麗でも武人によるクーデターが起きて武臣政権(1170-1270年)が成立しています。南宋は1199年に高麗と日本への銭の輸出を禁止しましたが、高麗では宋銭があまり流通していないため、高麗から日本へ輸出されていたものと思われます。

後期高麗

 1206年に成立したモンゴル帝国は、1234年に金朝を滅ぼし、高麗には1231年から侵攻を開始しました。武臣政権と高麗朝廷は江華島へ移転し抵抗を続けますが、1258年に高麗王がモンゴルに降り、武臣政権の残党も1272年までに滅ぼされます。高麗はモンゴル/元朝の支配下に入り、銀や紙幣(宝鈔)が流通する経済圏に組み込まれました。

 1282年、高麗政府は価格統制を行い、銀瓶1つにつき首都では米15-16石(元朝の1升は約1リットル、1石は100リットル)、地方では18-19石と設定しました。銀瓶1つ180万円とすれば1石9.47万-12万円、1斗1万円前後、1升は1000円前後となります。同時代の日本でもこのぐらいですね。「砕銀」と呼ばれる細分化された銀瓶も流通していましたが、銅など不純物が混ぜ込まれた劣化品も多く、1328年には銀瓶1つが布10疋(18万円)に値下がりしています。1331年に高麗政府は銀瓶を廃止し、布15疋(27万円)に固定した小銀瓶を発行しましたが、劣化と偽造は続きました。

 元朝支配下の高麗では紙幣(宝鈔)が流通し、軍隊への支払いや元朝との交易で広く使用されました。ただ日本では紙幣は流通しておらず、銀や銅銭が求められたため、チャイナの銅銭が高麗を介して日本へ流入することは継続しました。1356年に高麗が元朝から離反すると、元朝の紙幣は廃止され、銀と麻布が通貨となる時代に戻りますが、多くの混乱を招きました。高麗の沿岸部に倭寇が襲来し始めたのもこの頃です。

朝鮮楮貨

 倭寇討伐に活躍した武将・李成桂は、高麗王を廃位して自ら高麗王に即位し、1393年に明朝から権知朝鮮国事の称号を授かります。1400年に即位した李成桂の五男・芳遠(太宗)は明朝から正式に朝鮮国王に冊立され、王権を強化して国制を整備し、国内を安定させました。

 1401年、太宗は「楮貨」を法定貨幣とします。これは楮(こうぞ)の紙で作った紙幣で、高麗王朝の末期に導入が予定されていましたがお流れになったのを復活させたのです。大きさは長さ1尺1寸、幅1尺で、1枚が布1疋、米2升にあたると定められます。しかし布貨と違い塩との兌換性がなかったため庶民に嫌われ、1403年に一旦廃止されます。

 1410年、太宗は楮貨を再発行しました。今回は楮貨1枚が米1升、楮貨30枚で木綿布1疋と改められ、布貨の使用は禁止されます。1415年には布貨の使用を認める代わりに1/30の布帛税を課すこととしますが、楮貨1枚未満の額を処理するには結局銅銭が必要となり、議論が巻き起こります。

 太宗の跡を継いだ世宗は、1425年に銅銭「朝鮮通宝」を発行し、銅銭1文が楮貨1枚=米1升と等価と定めました。しかし同時代の日本では銅銭10文で米1升ですから貨幣価値が高く設定されすぎ、一般に流通しませんでした。のち塩1石=布1疋=楮貨1枚=銅銭2文と改めますが、民間では米1升が(宋銭)12-13文で流通していたといい、これは同時代の日本とほぼ同じです。

朝鮮通信

 世宗の時代より、朝鮮は日本へ通信使をしばしば派遣し、交誼を通じる傍ら国情を視察させ、記録を残しています。1429年の通信使・朴瑞生は、次のように報告しています。

「臣(わたし)が日本に到達し、対馬から兵庫までの往来の路を見聞しますに、対馬・壱岐・志賀・平戸などの島々、赤間関(下関)から西は西の賊徒(倭寇)がおり、その東には東の賊徒がおります。兵は数万、船は千隻をくだらず、東西が相応じて兵を興せば防御は困難です。しかし対馬には宗貞盛がおり、赤間関には大内殿が、大島には宗像殿が、豊後には大友殿がいて、海賊の往来を防いでおります。…
 …日本人は浮屠(仏教)を好み、経典を贈れば喜びます。仏典を校閲して欠けた部分を補えば、日本との通好の元手となりましょう。日本の農民は水車を設けて水田を灌漑し、石臼を動かしております。これを学んで作らせれば利益となりましょう。日本では銭が流通しており、旅行者は千里の彼方にあっても銭を携行すれば食事に困りません。至るところに宿屋があり、銭を支払えば人馬をもてなしてくれますし、関所や橋では通行税をとって補修費とします。田畑や船や車に重税を課せば銭を用いる余裕もないのですから、重税や労役をやめれば銭を使う者は増えることでしょう。…
 …倭賊はかつて我が国を侵略し、我が人民を虜にして奴婢となし、あるいは遠国へ転売して帰還させず、父兄子弟は痛切に悲しみましたが、未だに報復をした者はおりません。臣らは港ごとに枷と鎖に繋がれた捕虜がおり、争って逃げようとしているのを見ました。まことに憐れむべきです。…壱岐島は兵乱によって食糧が絶え、人々は盗人か奴婢となって辛うじて生き延びている有様ですが、我が国は倭との交易を禁じたゆえ奴婢を売りに来る者もおらず、倭は恨んでおります。いま倭に10歳以下の男児と20歳以下の女子の売買を許可して奴婢とし、彼らを沿岸に置かず内陸へ住まわせれば、倭寇の襲来もなくなり、奴婢らが呼応して反乱することもないでしょう」

 なかなかもっともですね。朝鮮から日本への通信使は15世紀に何度か到来し、室町幕府の将軍や九州探題、大内氏らと交渉を行っています。その後は対馬の宗氏が朝鮮との交渉を引き受けています。

 そして1429年、日本の南西に琉球王国が誕生しました。この国は明朝・朝鮮・日本の間の交易を取り持って栄えます。次回は琉球について見ていきましょう。

◆琉◆

◆球◆

【続く】

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