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【つの版】度量衡比較・貨幣119

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 寛永16年(1639年)、江戸幕府はポルトガル船の入港を全面的に禁止し、欧州諸国ではオランダだけが日本との貿易・外交を継続します。いわゆる「鎖国」体制の完成です。この頃の日本の貨幣について見てみましょう。

◆銭◆

◆形◆


寛永通宝

 振り返ってみましょう。中世から近世の日本では銅銭と米が主な貨幣として流通し、銀と金は地金が秤量貨幣として用いられてきましたが、その相場は時代や地域によってまちまちでした。慶長14年(1609年)の「御定相場」では「金1両=銀50匁=永楽銭1貫文=京銭4貫文」と定められており、銀1匁=永楽銭20文=京銭80文、永楽銭1文=京銭4文にあたります。当時は米1升が10文(1斗100文、1石1貫文)、労働者の日当が100文ですから、京銭1文≒現代日本円の100円相当として、銀1匁≒80文≒8000円、京銭1貫文≒銀12.5匁≒米1石≒10万円、金1両≒米4石≒40万円です。

 乱世が終わって経済活動が活発化し、各地の銀山の開発が進められ、生産された銀が大量に海外へ輸出されたことで、御定相場は形骸化します。のち民間市場では金1両≒銀60匁前後となりました。

 また慶長11年(1606年)頃には国産銅銭「慶長通宝」が発行され、慶長13年(1608年)には永楽銭の使用が禁止されています。しかし慶長通宝の流通量は少なく(元和通宝も現存しますが私鋳銭か試験的鋳造と思われます)、幕府はその後も長く渡来銭や私鋳銭(京銭)の使用を許しています。とはいえ対外貿易では金銀だけでなく銅銭や銅の地金も輸出され、国内の銭相場が上昇しており、これに歯止めをかけることは必要でした。

 寛永13年(1636年)、幕府は海外貿易を制限する(いわゆる)「鎖国令」を発布するとともに、新たな国産の銅銭「寛永通宝(寶)」の発行を開始します。形状は永楽銭などと同じく円形方孔で、表面に「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印され、裏面には鋳造地や年代を示す文字などが刻まれたこともあります。1枚の重さは1文目/匁≒3.73gです。

 幕府が新たな銅銭を発行する計画は10年前に遡ります。寛永3年(1626年)、常陸国水戸の豪商・佐藤新助が銭貨の不足を理由に銅銭鋳造を幕府と水戸藩に願い出て許可され、試験的に鋳造しました。新助はのち病死し鋳造は途絶えますが、足尾銅山などからの銅の産出が増大したことを受け、新助の息子・庄兵衛の願い出を許可する形で鋳造が再開されたのです。

 幕府は江戸では浅草の橋場と柴の網縄手、西国では近江国坂本に「銭座」を置き、発行と流通を管理させました。翌年には常陸国水戸、陸奥国仙台、三河国吉田、信濃国松本、越後国高田、長門国萩、備前国岡山、豊後国竹田に8つの藩営銭座が新設され、寛永16年(1639年)には駿河国井之宮にも設置されて12箇所となります。また寛永14年から銅銭発行のため銅の輸出禁輸措置をとり、旧銭は次第に回収されて寛永通宝に交換されていきました。

 この大規模な発行政策により寛永通宝は全国に普及し、高騰していた銭相場は下落します。寛永15年(1638年)には1貫文=銀23匁前後(御定相場の倍)でしたが、翌年には1貫文=銀16匁まで下落しました。寛永17年(1640年)8月には各藩の銭座が停止され、翌年末には幕府直営の銭座も停止されていますが、これは大飢饉の影響によるものでした。

 島原の乱が鎮圧された寛永15年頃から、九州では牛疫が発生して西日本に拡大し、牛の大量死をもたらします。続いて寛永17年6月には蝦夷駒ヶ岳が噴火し、津軽などでは火山灰が降って凶作となります。翌年と翌々年には旱魃や大雨が起きて飢饉が発生し(寛永の大飢饉)、米価など物価が高騰して銭相場が下落したのです。幕府はこれを受けて銭の発行を停止し、諸大名や領民に対して飢饉対策を指示するなど対応に追われました。明朝が滅んで清朝が入関したのはこの直後(1644年)ですから、鄭成功ら明朝の残党に要請されても国外出兵などしている暇はありません。

 しかし銭座の停止は鋳銭職人の失業を招き、彼らは生きていくため私鋳銭作りに手を染めます。幕府は全国に私鋳銭禁止令を出して取り締まりますがおさまらず、一時は1貫文が銀12匁にまで下落しました(御定相場ぐらいではありますが)。幕府は銭座に残った寛永通宝を公定価格で買い上げたり、宿場町に金や米を貸し与えて急場をしのがせ、後から寛永通宝で返済させるなどして銭相場の下落を押し留めようと努力を重ねています。

文治政治

 こうした中で、将軍・家光は慶安3年(1650年)に病に倒れ、翌年48歳で薨去します。後を継ぐ息子・家綱はまだ11歳で、会津藩主の保科正之が家光の遺言により補佐役(大政参与)に任じられました。彼は家光の父・秀忠の庶子であり、異母兄の家光から寵愛を受けています。

 同年7月、駿府の軍学者・由比正雪や丸橋忠弥・金井半兵衛ら浪人による幕府転覆計画が密告により露見します(慶安の変)。正雪は取り囲まれて自害し、首謀者らは捕らえられて処刑されました。正雪は紀州和歌山藩主・徳川頼宣(家康の十男)の書状を偽造して所持していたため、頼宣は謀叛の疑いをかけられて10年間紀州へ帰国を許されませんでした。これは紀州が畿内に近く、多くの浪人が紀州に招かれて再就職していたのを怪しまれてのことと思われます。また翌年には軍学者の別木庄左衛門ら浪人によるテロ計画が露見(承応の変)し、幕府は浪人対策に取り組むことを余儀なくされます。

 浪人発生の主な原因は、幕府による大名家の取り潰しです。家康・秀忠は乱世の再来を防ぐため武家諸法度(元和令)を制定しましたが、家光は寛永12年(1635年)に寛永令を発布してこれに付け加え、参勤交代の義務化、500石以上の大船の建造禁止、奉公構(旧主の赦しがない限り他家への仕官を禁じること)などの明文化を行いました。また跡継ぎがない大名が急死した際に末期養子をとることを禁じたため、これに抵触した大名家が多数取り潰され、多くの浪人が発生し、他家への再就職を禁じられていたのです。

 保科正之率いる江戸幕府は、こうした創業以来の「武断政治」を改革し、幕藩体制安定のため「文治政治」に切り替えます。彼らは大名家の取り潰しを減らすため末期養子の禁止を緩和し、武家諸法度を改正して殉死や人質(証人)を出すことを廃止しました。明暦3年(1657年)に江戸で起きた大火(明暦大火)に対しても積極的に庶民の救援や家屋の再建を行い、治安の悪化をおさえようと努力しています。とはいえ出費はかさみ、明暦大火で焼け落ちた江戸城の天守閣は資金不足もあって再建されませんでした。

鋳銭再開

 明暦大火の前年、明暦2年(1656年)には江戸浅草の鳥越、駿河国沓谷に銭座が再設置されます。承応2年(1653年)には京都建仁寺に銭座が置かれたともいいます。この頃には国内の経済状況も回復し、銭相場は1貫文=銀18匁前後にまで上昇していました。万治2年(1659年)には寛永通宝の輸出が禁止され、長崎中島の銭座では貿易取引専用の銅銭(長崎貿易銭)を鋳造しています。チャイナでも銅銭は不足していたため、こうした日本銭も一部では流通していたようです。この頃までに発行された寛永通宝は「古寛永」と呼ばれ、推計で325万貫文(32.5億枚)が鋳造されたといいます。

 万治4年(1661年)5月、改元されて寛文となります。将軍・家綱も成人しましたが、保科正之ら閣老は引き続き政務を執り行い、文治政策は続行されます。寛永通宝の発行はしばらく停止されますが、寛文5年(1665年)頃から再発行が開始され、寛文8年(1668年)からは江戸亀戸に大規模な銭座が設けられ、呉服屋の後藤縫殿助、茶屋四郎次郎らが鋳銭を請け負いました。

 この時期に鋳造されたものを「新寛永」あるいは裏に寛文の「文」の字があることから「文銭」と呼びます。均質かつ良質で、古寛永とは製法や質、文字の書体にも違いがあります。天和3年(1683年)までの15年間の発行数はおよそ200万貫文(20億枚)と推計され、古銭や渡来銭を交えての商取引は寛文10年6月(1670年)に禁止されました。これにより日本は10世紀末に銭の発行を停止してから700年ぶりに、銅銭の純国産化に成功したのです。

 寛永通宝はその後も江戸時代を通じて発行されました。18世紀以後は鉄銭が発行されたり、1枚で4文の価値を持つと定められた四文銭が発行されたりしています。明治政府も急に切り替えることはできず、明治30年に鉄銭の使用は禁じたものの、銅銭の使用は許可せざるを得ませんでした。寛永通宝が正式に通貨でなくなるのは、なんと昭和28年(1953年)になってからです。

◆黄◆

◆門◆

【続く】

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