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【つの版】日本刀備忘録05:日本刀歌

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 起源についての論争はありますが、古来の直刀を前身として、刀身に反りのある日本刀「太刀」が平安時代中期、10世紀初め頃に生まれたことは確かなようです。太刀は武者が振るう実戦用の武器として、また装飾品や美術品として重んじられ、家門継承の証ともなっていきました。刀剣に刻まれる刀工のも、この頃には現れ始めます。

◆刀剣◆

◆乱舞◆


大和天国

 現存最古の刀剣書『銘尽めいづくし』(14世紀頃の編纂)によると、平貞盛が賜った「小烏丸」を作ったのは、大和国に大宝年間(701-704年)にいた天国あまくにという刀鍛冶でした。文永11年(1274年)、日蓮が北条弥源太入道に送った手紙『弥源太殿御返事』に「御祈祷のために御太刀と刀をお送り頂いたが、然るべき鍛冶の作でありましょう。あまくにや鬼切、八剣やつるぎ、異朝の干将莫耶の剣とも異なりますまい」とあり、鎌倉時代にはすでに名のある刀工として伝えられていたようです。

 また『銘尽』では、神武天皇の御剣「藤戸」を最古の銘とし、次いで宇佐明神の国重、村雲剣(天叢雲剣)の天国、春日大明神の天藤、龍王の海中と続けています。とすると天国は三種の神器の一つ(あるいはその形代)を作ったわけです。大和国高市郡清水谷村にアマクニというあざがあり、同国宇陀郡の八坂神社と並んで天国が作刀した地という伝承がありますが、彼が実在したかどうかも定かではありません。大和は古来王権が置かれた地ですから、古くから刀工はいたでしょうし、彼らを代表する存在として天国という刀工の伝説が作られたのかも知れません。

 しかし、現存する小烏丸は鋒両刃造という古い様式を残してはいますが、大宝年間や奈良時代前期のような直刀ではなく、わずかに反りがある等の特徴からして平安時代前期の様式で、銘は何も刻まれていません。その他の天国作とされる太刀も本物かどうかは不明です。とはいえ大和に古くから刀工がいたことは確実視されますから、天国は一応「日本最古級の名刀工」として記録・記憶されています。

 長享2年(1488年)ごろに書かれたとされる刀剣書『長享銘尽』には、「諸国著名鍛冶」として天国・藤戸・實次・神息・武保などの銘が記録されています。このうち神息は神足とも記し、豊前国宇佐神宮の社僧で、和銅元年(708年)から大同年間(806-810年)まで100年を生きて行方知れずになったという伝説的な刀工です。彼は六寸五分の短刀「宝動」や、平城天皇の第一皇子の御剣などを作ったといいますが、実在は定かでありません。

三条宗近

 より実在性が高い刀工には、平安時代中期に京都三条にいたという宗近むねちかがいます。『銘尽』によると、彼は「三条の小鍛冶(製鉄を行う者を大鍛冶、鉄を加工して製品を作る者を小鍛冶という)」と呼ばれ、後鳥羽院の御剣「うきまる」、少納言信西の佩刀「こきつね」を作ったといいます。信西は俗名を藤原通憲といい、藤原南家貞嗣流の貴族ですから、後者は彼の家門に伝わっていたものでしょうが、複数が現存しています。

 伝説によれば、宗近は従四位下・橘仲道(仲遠?)の次男で、もとの名を仲宗といいました。彼は朝廷に仕えて従六位上・信濃大掾に任じられましたが、趣味として作刀を習い、やがて名人になったといいます。室町時代の謡曲『小鍛冶』によると永延年間(987-989年)、一条天皇が夢にお告げを受け、「京三条の小鍛冶宗近に守り刀を打たせよ」と命じられます。不思議に思った天皇は、橘道成を遣わして勅命を伝えました。

 宗近は必死で作刀に励みますが満足のいくものができず、氏神である稲荷明神へ参詣して助けを請います。すると一人の童子が現れ、作刀の助手として相槌を打とうと申し出ます。宗近がこの童子とともに作刀すると、果たして見事な太刀が出来上がり、狐を使いとする稲荷明神にちなんで「小狐丸」と名付けられたといいます。平治の乱で信西が討たれたのち、この小狐丸は藤原北家嫡流の九条家に伝わり、のち鷹司家に遷りましたが逸失しました。

 三条宗近の作とされる太刀はいくつかありますが、特に有名なのが「三日月宗近」です。その名は刀身に三日月のような刃文があるためといい、室町時代には記録に現れます。豊臣秀吉の正室・高台院から徳川秀忠に贈られて以来、徳川将軍家の重宝として伝来し、現在は東京国立博物館に所蔵されています。実際に宗近の作かどうかは定かでありませんが、少なくとも平安時代の作ではあるようです。

伯耆安綱

 また伯耆国会見郡大原(現鳥取県西伯郡伯耆町大原か)には、安綱という刀工がいました。『長享銘尽』には嵯峨天皇の大同年間(806-810年)の人とあり、藤原利仁や坂上田村麻呂、源頼光(1021年没)の佩刀を作ったとされます。弘仁4年(813年)に65歳で没したと伝え、であれば頼光の佩刀は作れませんが、現存する彼の作とされる太刀はみな反りがあるため、実際には宗近と同時代かやや後、10世紀後半の人物かと思われます。

 伯耆国は出雲国の東に接し、伯耆大山の麓の日野川流域などでは砂鉄採集と製鉄が盛んでした。実際に古代から中世・近世におよぶ製鉄遺跡が存在しますし、鉄や鉄製品は馬とともに年貢として畿内へ輸送されていたことが確かめられています。こうした地域から名刀工が現れるのは必然でした。

 この安綱が鍛えたとされるのが、清和源氏重代の太刀「鬼切」です。上述の日蓮の手紙にも「鬼切」の名があり、源頼光が酒吞童子なる鬼を斬ったことから「童子切」ともいいます。しかし鬼切・童子切・鬼丸といった名を持つ太刀は複数現存し、その伝承についても様々な説があります。これらについては大変込み入っていますので、後の記事に譲りましょう。

日本刀歌

 確かなこととして、この頃に日本で作成された刀剣は商品としてチャイナへ輸出されていました。北宋の文人・欧陽脩(1007-72年)は「日本刀歌」という有名な漢詩を詠んでいます。「徐福伝説」でも触れましたが、もう一度見てみましょう。

昆夷道遠不復通,世傳切玉誰能窮。
寶刀近出日本國,越賈得之滄海東。
魚皮裝貼香木鞘,黄白閒雜鍮與銅。
百金傳入好事手,佩服可以禳妖凶。


昆夷(名刀を産する西戎の国)への道は遠く、往来が途絶えている。
世(列子)に伝わる(昆鋙の)切玉の刀を誰が知り得ようか。
宝刀が近くの日本国に出て、越の商人がこれを海の東で手に入れた。
香木の鞘に魚(鮫)の皮を貼って装い、黄白金銅の装飾を施している。
好事家が百金をもって手に入れ、身に帯びれば妖凶を払うであろう。

傳聞其國居大島,土壤沃饒風俗好。
其先徐福詐秦民,採藥淹留丱童老。
百工五種與之居,至今器玩皆精巧。
前朝貢獻屢往來,士人往往工詞藻。


伝え聞くに、その国は大島に居住し、土壌は肥沃で風俗は好ましいという。
むかし徐福が秦の民を欺いて採薬に赴き、童子が老人になるまで滞留した。
(ゆえに)百工・五種がともにあり、今に至ってその器物は皆精巧である。
前朝(唐)の時にしばしば往来して朝貢し、その士人は漢詩に巧みである。

徐福行時書未焚,逸書百篇今尚存。
令嚴不許傳中國,舉世無人識古文。
先王大典藏夷貊,蒼波浩蕩無通津。
令人感激坐流涕,鏽澀短刀何足云。


徐福がそこへ行く時、始皇帝は焚書を行う前であったから、
中国では散逸した書がそこには今なおたくさんある。
もし中国にその書を伝えることを厳禁すれば、みな古文を知ることがない。
先王の大典が夷貊にしまわれ、青い波は広々として航路が通じない。
人を感激させ涙を流させることは、錆びついた短刀でもそうであるのに
(逸書を手に入れればなおさらであろう)。

 彼が生きた時代には、日宋貿易によって両国の産品が盛んに取引されていました。日本からは刀剣のほか木材・砂金・硫黄・扇・螺鈿・蒔絵などが、宋からは医薬品や香料、書籍・仏典、陶磁器や絹織物が輸出され、12世紀になると銅銭も宋から日本へ輸出されます。朝廷や寺社や摂関家はこの交易で富み栄え、華やかな王朝文化が花開きました。そして太刀を装備した武士たちは所領を巡って相争い、盗賊を鬼や土蜘蛛として討伐し、砂金や馬を獲得するため奥州へ攻め寄せることになるのです。

◆鬼◆

◆滅◆

【続く】

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