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【つの版】日本刀備忘録06:鬚切太刀

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 10世紀初め頃、日本では刀身に反りのある「太刀」が誕生し、チャイナへの輸出品ともなりました。太刀を装備した武士たちは所領を巡って相争い、盗賊を鬼や土蜘蛛として討伐し、砂金や馬を獲得するため奥州へ攻め寄せることになるのです。

◆鎌◆

◆倉◆


奥州鍛冶

 8世紀から9世紀まで続いた日本国と蝦夷の戦争の後、日本国は蝦夷の捕虜(俘囚)を内地に移住させて戦力とする一方、陸奥国北部(現岩手県中南部)に新たな郡を設置して統治機構に取り込みます。これが「奥六郡」で、陸奥鎮守府の支配下に置かれました。

 11世紀になると、この奥六郡の代表者として安倍氏が出現します。初代の忠良は鎮守府や朝廷が馬や砂金を安く買い付けるため現地に派遣した人物だったようですが、土着して世代を重ねるにつれ現地の利益代表と化し、交易品を安く買い叩けなくなった朝廷は彼らを討伐させます。しかし安倍氏は現地の俘囚(蝦夷)を率いて官軍を撃退したため、朝廷は大赦を発して手懐けることにしました。

 陸奥守・鎮守府将軍の源頼義は、天喜4年(1056年)に安倍氏との戦争を再開し、苦戦の末に仲間割れを誘ってこれを滅ぼします。しかし奥六郡の支配権は安倍氏を裏切った出羽清原氏に移り、頼義の子・義家は清原氏の内紛につけこんでこれを滅ぼしたものの、今度は奥州藤原氏が支配権を握っただけでした。義家は私戦の罪で失脚し、その子らも互いに争って勢力を失い、代わって伊勢平氏が白河院・鳥羽院に取り入って出世していきます。

 1120年頃に編纂された『今昔物語集』には、奥州産の太刀が出てきます。ある男が妻を連れて京都から丹波へ赴いた際、途中の大江山で若い男に出逢い、「陸奥の国より伝へ得たる高名の大刀」を見せられ、「あなたの弓矢と交換しませんか」と持ちかけられます。夫は「これは儲けた」と喜んでそうしますが、藪の中に入って昼食をとろうとした時、若い男は距離をとって弓に矢をつがえ、夫を脅しつけて妻と太刀を捨てさせます。そして夫を縄で木に縛り付け、妻を抱いて愉しんだのち、太刀と弓矢と馬を奪って逃げ去ったといいます。この頃には陸奥国の太刀が京都で高値で取引されていたことを物語りますが、間合いでは弓矢にはかなわなかったというわけです。

 この陸奥国の太刀は、前述の「舞草もくさ刀」に相当するものと思われます。日本と蝦夷の最前線であり、馬の名産地である奥州では、馬上戦闘に適した太刀が特に発達したのでしょう。また大江山の盗賊話は、のちの酒吞童子伝説のもとになった可能性があります。『今昔物語集』には太刀や盗賊、鬼に関する話がいくつかあり、それらが混ぜ合わさったのでしょう。

『今昔物語集』巻27第18話によると、ある夏の夜、とある人の邸宅に大きなが出現し、庭先で宿直していた2人の侍の前に舞い降りてきました。侍たちが太刀を抜いて構えていると、板は格子の隙間から客間に入り込み、そこで寝ていた別の侍に襲いかかって殺してしまいました。人々は鬼のしわざかと訝しみ、太刀を持たずに寝ていた侍を軽蔑したといいます。

鬚切太刀

 義家の子(孫とも)を為義といい、摂関家の内戦・保元の乱(1156年)において敗れ、子の義朝に処刑されます。義朝は続く平治の乱(1160年)において敗死し、後白河天皇と手を組んだ平清盛が天下の実権を握りました。義朝の三男頼朝は伊豆国へ流されますが、彼はのちに伊豆で挙兵し、父の仇である伊勢平氏/平家を滅ぼして鎌倉幕府を開くことになります。

 13世紀半ば頃までに成立した『平治物語』には、源頼朝の佩刀「鬚切ひげきり」が登場します。平治物語上巻第14「源氏勢汰の事」によると、平治の乱において義朝が帯びたのは「怒物いかもの作り(いかめしい作り)の太刀」でした。嫡子の義平は19歳で石切いしきりと名付けた太刀を帯び、次男の朝長は16歳で薄緑うすみどりという太刀を、三男の頼朝は13歳で鬚切という太刀を帯びていました。

 頼朝の鎧は「源太げんた産衣うぶぎ」といい、先祖の八幡太郎(源太)義家が2歳の時(長暦4年/1040年)に御所へ招かれて御目見えした際に着せられたといい、胸板に天照大神と八幡大菩薩が鋳つけられています。また鬚切の太刀は奥州の住人・文寿という鍛冶の作で、義家が奥州の安倍貞任・宗任を攻めた時、捕虜千人の首を刎ねたという業物です。この時に首ばかりか鬚(あごひげ、髭は口ひげ)も切ったことから、名付けて鬚切というのです。そして本来は鎧も太刀も嫡男に伝えられるものを三男頼朝が授かったのは、のちに源氏の大将となる証であったといいます。

 義朝は平治の乱に敗れて子らとともに東国へ落ち延びますが、頼朝は馬上で鬚切の太刀を振るって敵の追手を斬り捨て、父から称賛されました。一方朝長は落ち武者狩りに遭って重傷を負い、美濃国不破郡青墓宿(現岐阜県大垣市青墓町)で父に介錯されます。父も裏切りに遭って殺されると、頼朝は青墓に戻りますが、関ヶ原で捕縛され、伊豆国へ流されました。

『平治物語』最終章では、頼朝が上洛した時に後白河院から鬚切を賜ったとします。これは源氏相伝の太刀で、清盛のもとにあったのを後白河院が召し置かれていたのですが、頼朝が捕縛された時に身に着けていたから清盛が奪ったともされます。またある説では、頼朝は青墓の大炊のもとへ鬚切を預けており、捕縛された時は丸腰でした。清盛は鬚切を求めて大炊のもとへ使いを派遣しますが、大炊は鬚切を平家に渡すことを嫌い、泉水という別の太刀を鬚切と偽って渡したのだといいます。逃げる時に丸腰になるのも妙な話ですから、後付の与太話でしょう。

 また安倍貞任らの追討について記録のある『今昔物語集』等には、鬚切も「源太が産衣」も出てきません。要はのちに頼朝が鎌倉幕府を開いて武家の棟梁・(清和/河内)源氏の嫡流と称したため、後付で「本来頼朝が源氏の嫡流であり、その武具を帯びていた」とされたのです。ともあれこの神話伝説をもとにして、鬚切には様々な尾鰭がついていくことになります。

 13世紀末頃に編纂された鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』には、鬚切も薄緑も出てきません。寿永2年(1183年)7月に平家一門が都落ちした際、平清盛の孫・清経が後白河院の御所(法住寺殿)から吠丸ほえまる鵜丸うのまるという二振りの太刀を奪っていったとあります。清経は同年10月に豊前で死亡しましたが、のち平家が滅亡すると吠丸は大江公朝、鵜丸は源範頼により発見され、文治元年(1185年)に後白河院のもとへ戻されたとあります。とすると、特に源家重代の太刀ではなさそうです。

鬚切膝丸

 鎌倉時代中期以降に成立した『平家物語』の異本『源平盛衰記』剣巻によると、清和天皇の孫に平将門と争った源経基がおり、その子を多田満仲といいました。彼は天下を守護する武者として良き太刀を求め、鉄や鍛冶を召し集めて太刀を作らせましたが、心にかなうものはありませんでした。ある者が「筑前国三笠郡土山(太宰府市付近)に異朝から鉄の細工(鍛冶)が渡って数年になります。彼を召されては」と申し出たので、満仲は彼を都に召し寄せて太刀を多く作らせますが、やはり一つも心にかないませんでした。

 鍛冶は恥辱に思い、八幡宮に参詣して必死に祈ったところ、7日目に託宣がありました。喜んだ鍛冶は急いで鉄を沸かし鍛え、60日かけて二振りの最上の剣を作りました。その長さはともに2尺7寸(81cm)あり、満仲が罪人を試し切りさせたところ、一振りは首ばかりか鬚まで切れ、もう一振りは勢い余って罪人の膝まで切りつけました。喜んだ満仲はこれを鬚切・膝丸と名付け、天下を守護する宝剣としたといいます。

 満仲の子・頼光の配下で「四天王」の随一とされた渡辺綱は、この鬚切を貸し与えられて「宇治の橋姫」なる鬼女の腕を切ったため、鬚切はこれより「鬼切」あるいは「鬼丸」と呼ばれるようになります。また頼光は膝丸を振るって蜘蛛の妖怪(山蜘蛛)を切ったため、こちらは「蜘蛛切」と呼ばれるようになったといいます。治安元年(1021年)に頼光が没すると、その子・頼基がこの両剣を受け継ぎましたが、頼光の弟・河内守頼信の子である頼義が奥州遠征に際して譲り受け、子の義家、孫の為義に伝わりました。

 ところが為義は鬼丸を「獅子の子」、蜘蛛切を「吼丸」と改名し、後者を熊野別当の教真に譲ってしまいます。為義は播磨国から鍛冶を召し寄せ、「獅子の子」を手本にして太刀を作らせましたが、これは目貫に烏が彫られていたので「小烏」と名付けられました(平氏の小烏丸とは別)。しかし両剣をともに納めておいたところ、小烏のほうが二分ほど縮んでいたため、不思議に思い「獅子の子」を「友切」と改名します。

 これが良くなかったのか、為義は子の義朝と保元の乱において敵味方に分かれ、義朝に討たれてしまいます。両剣を受け継いだ義朝も平治の乱で平家に敗れて落ち延び、八幡大菩薩の託宣により友切を鬚切の名に戻しました。しかし義朝は裏切りにあって殺され、小烏は平家の手に渡りました。鬚切を父から受け継いでいた頼朝は、これを熱田神宮に預けたのち、敵に捕まって伊豆国へ流されます。それから21年を経て治承4年(1180年)夏に挙兵した後、頼朝は熱田神宮に預けておいた鬚切を引き渡されて身に帯び、ついに五畿七道を打ち従えたといいます。

 一方、頼朝の弟・義経は、平家追討のため摂津へ赴いた際、熊野別当教真の子・湛増より「吼丸」を渡されます。すなわち源為義が教真に譲った源氏重代の宝剣で、もとの名を蜘蛛切、初名を膝丸といいました。義経は喜んでこれを受け取り、「熊野より春の山を分けて出でたり。夏山は緑も深く、春は薄からん」として「薄緑」と名を改めます。この剣を得てより平家に従っていた西国は源氏に従い、義経は平家を討滅して凱旋します。ただこの時、三種の神器のうちの天叢雲剣/草薙剣は壇ノ浦に沈んで失われました。

 やがて頼朝と義経は不和になり、義経は和解を願い「薄緑」を箱根権現に献上しますが、それゆえか勢力をたちまち失い、ついに奥州で自害に追い込まれます。頼朝は続いて奥州藤原氏を滅ぼし、建久4年(1193年)には富士の巻狩りを催しますが、この時に曽我兄弟が親の仇の伊東祐経を討ち取ります。彼らは箱根の別当から薄緑を授けられ、思いのままに仇討ちを果たして名を上げましたが、頼朝の命令で処刑され、薄緑は頼朝の手に入ります。かくて鬚切と膝丸は紆余曲折を経て、頼朝の手元に揃ったというのです。

 剣巻には天叢雲剣に関する中世神話も記されており、壇ノ浦の戦いで皇室からこれが失われ、武家の世が始まったことに対する説明が必要となったことを物語ります。熱田神宮には天叢雲剣の本体が納められているとされますから、母方で熱田大宮司の血を引く頼朝が武家の棟梁になったのはこうした因縁があったと説明できるわけです。また鬚切の起源が奥州ではなく多田満仲まで遡ったのは、河内源氏だけでなく頼光系の摂津源氏も含めた清和源氏の嫡流が頼朝であるとしたためでしょう。前述の文永11年(1274年)の日蓮の手紙にある「鬼切」とは、この鬚切のことかと思われます。

 しかし頼朝の嫡流は子の頼家・実朝で絶え、頼朝の妻の実家である北条氏が摂関家や皇族から将軍を迎えて鎌倉殿とし、執権として実権を握る体制に移行しました。北条時宗の子・貞時が記した法華堂への寄進状によると、鬚切は頼朝上洛の時にある貴人のお守りとして進上され、ある霊社に奉斎されていましたが、のち鎌倉幕府御家人の安達泰盛が探し出して所持していました。弘安8年(1285年)に泰盛が討伐されると(霜月騒動)、鬚切は貞時の手に渡りましたが、彼は鬚切を自分のものとせず、赤地の錦袋に包んで法華堂に奉納したといいます。

 それから半世紀ほど後、北条氏は鎌倉幕府ともども足利高氏/尊氏と新田義貞に滅ぼされます。彼らは義家の三男・義国の末裔であり、源家重代の宝剣である鬚切/鬼切を巡って相争うことになります。

◆逃◆

◆若◆

【続く】

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