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【つの版】度量衡比較・貨幣66

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1542-43年頃、日本にポルトガル人が到達します。この時代の日本やその周辺世界は、どのような状況だったのでしょうか。

◆戦◆

◆国◆

戦国開始

 室町幕府の最盛期を築いた足利義満の死後、天下は混乱し、将軍の権威は衰えて、各地に守護大名(領主・諸侯)が割拠してしのぎを削る乱世に突入します。応仁文明の乱の終結後、文明12年(1480年)に『樵談治要』を著して将軍・足利義尚(義政の子)に献じた一条兼良は「諸国の国司は任期四年に過ぎず、守護職も同じでしたが、いまや守護は世襲の領主となっており、(チャイナの)春秋時代の十二諸侯や戦国七雄と同じです」と記しました。このことから後世には応仁文明の乱以後、あるいは1493年の明応の政変以後を「戦国時代」と呼び習わします。始期については諸説あります。

 義尚は近江守護の六角氏を討伐するため諸侯を糾合し、多少は将軍権力を回復しますが、1489年に25歳で病死します。翌年には義政も逝去し、甥の義材が擁立されますが、義政の妻・日野富子や管領の細川政元と対立し、1493年に将軍職を追放されます(明応の政変)。義材は逃亡して越中へ赴き、義尹と改名して越前の朝倉氏を頼り上洛せんとしますが近江の六角氏に敗れ、1500年頃には周防の大内氏に身を寄せます。

 大内氏はもと多々良氏といい、周防国の在庁官人として勢力を広げ、平安末期・鎌倉時代には周防一国を支配下におさめていました。南北朝時代から室町時代にはさらに勢力を広げ、一時は足利義満と対立して衰退したものの復興し、応仁文明の乱においては山名氏に次ぐ西軍の事実上の総大将として細川氏率いる東軍と争いました。当時の大内氏は、東は兵庫、西は九州北部にまで支配を及ぼす大大名で、朝鮮・琉球・明朝など諸国との交易で莫大な富を得ていたのです。ただ内外に敵も多く、安定政権とはなっていません。

 そこへ義尹が身を寄せてきたのですから、大内氏の当主・義興は彼を現職の将軍として山口に幕府を開かせ、細川政元に対抗して上洛せんとします。これに対して政元らは周辺諸侯に義興討伐を命じ、1501年には天皇から綸旨(勅命)を得て義興を「朝敵」と認定します。しかし1507年に幕府を牛耳る政元が暗殺されて内紛が勃発すると、義興は九州・中国の諸大名に動員令をかけ、義尹を担いで東へ進軍を開始しました。

 細川氏は政元の養子の高国派と澄元派に分裂しており、義興は高国と結んで澄元を撃破、近江に駆逐して上洛します。義興は義尹を将軍に復帰させ、高国とともに幕府を牛耳ることとなりますが、次第に高国や義尹(1513年に義稙と改名)と対立します。また領国を長く離れていたため手勢が帰国・反乱し始め、1518年に義興も京都を離れて山口に戻りました。義稙は高国とも不和となり、澄元と手を結んで高国を近江へ追放しますが、高国の反撃に遭って敗れ、高国によって足利義晴が将軍に擁立されます。その後も細川政権では内乱が続き、足利将軍家も分裂して抗争する有様でした。

寧波之乱

 こうした中、日本と明朝との交易港であった浙江省の寧波において、大内氏と細川氏による抗争事件「寧波の乱」が勃発します。

 明朝は海禁政策により他国との貿易は朝貢のみ承認しており、日本は室町幕府の将軍が「日本国王」として冊封され、明朝に日本国王が朝貢するという形で使節を派遣していました。これに博多や堺の商人が随行して明朝と貿易していたのですが、日本側の利益と明朝の負担が莫大なため、十年に一度との制限がつけられています。抜け道としては琉球や朝鮮、私貿易業者である倭寇を介するなどの方法があります。そして細川氏は、大内氏は博多や兵庫に利権を持ち、日明貿易の利益を巡って対立していました。

 大内義興が上洛すると、その功績により1516年に幕府と朝廷から「日明貿易に対する独占的権利」を保証されます。堺よりは博多の方が明朝や朝鮮・琉球に近く、幕府や朝廷へのアガリも大きかったのでしょう。利権を失った細川高国は反発しますが手出しできませんでした。

 1523年、帰国した義興が遣明船を送ると、高国は対抗して別の遣明船を送ります。細川側は寧波の入国管理者に賄賂を送り、先に正式な使節として入港しますが、怒った大内側は細川側の船を焼き払い、細川側をかばった明朝の役人も殺してしまいます。態度を硬化させた明朝は日本からの朝貢貿易をしばらく停止させますが、のち大内氏により貿易は再開され、博多は大いに賑わうこととなります。また大内氏は琉球・朝鮮との貿易も牛耳っていますから、残る抜け道は密貿易、すなわち倭寇しかありません。

後期倭寇

 前期倭寇は室町幕府や守護大名の取り締まり、勘合貿易の再開によって終息していきましたが、後期倭寇の構成員は倭人(日本人)よりもチャイニーズやコリアンが多く、あるいはその混成・混血でした。彼らは明朝の海禁政策に背いて私貿易を行うために「倭」と名乗り、東アジア海域世界を股にかける武装商人として活動したのです。当然海賊行為も盛んでした。

 寧波の乱の13年前、1510年には、朝鮮南部の三浦(釜山・鎮海・蔚山)で居留日本人(倭人)による乱が勃発しています。朝鮮はこの三浦を日本との交易港に定めており、日本の商人の中には居留地(倭館)を築いて恒久的に住み着く者(恒居倭)も現れました。彼らは私貿易・密貿易にも携わり、朝鮮の役人にも賄賂を送って便宜を図っていましたが、治外法権の存在として様々なトラブルを起こし、朝鮮側は取り締まりを強化しています。

 また日朝貿易では綿布が朝鮮から輸出されましたが、日本からは胡椒・丹木・朱紅・銅・金など多様な物品が輸出され、朝鮮側は貿易赤字に悩まされました。そのため朝鮮は15世紀末に綿布の交換レートを引き上げ、銅や金などの貿易を禁止しますが、不満が鬱積して密貿易業者(倭寇)の横行を招いただけでした。対馬の宗氏は銅の公貿易を巡って朝鮮側との交渉を繰り返したものの物別れに終わっています。

 1510年、朝鮮の役人が三浦の恒居倭を海賊と誤認して斬り殺したため、恒居倭らは一斉に武装蜂起します。対馬宗氏もこれに呼応し、恒居倭の抑圧政策の禁止と貿易の自由化を求めて朝鮮の軍事施設を攻撃しました。驚愕した朝鮮は軍隊を派遣して鎮圧し、日本と国交断絶して貿易を全面的に禁止しますが、1512年に対馬と和解が成立します。しかし貿易は以前より制限され、倭人の駐留も禁止されるなど厳しい措置を受けました。対馬宗氏は抜け道として日本国王の偽使を派遣することとし、貿易制限は次第に有名無実化します。宗氏の背後には博多を抑える大内氏がおり、日朝貿易は対馬が窓口として固定化されますが、締め出された者たちは倭寇となっていきました。

 倭寇たちは日本・朝鮮・明朝のみならず、琉球や東南アジアにも進出していました。1490年にインド洋の航海者アフマド・イブン・マージドが著した航海術の書には「リキウ(Likiw)」すなわち琉球が記され、「鉄剣を帯びてチャイナと勇闘するアル=グール(Al-Ghur)」なる民族の名も現れます。これはマラッカを陥落させたポルトガル人が「ゴーレス(Gores)」と呼んだものたちで、琉球ないし高麗が訛ったものとも言われますが、明朝と朝貢関係にある琉球や高麗(朝鮮)の人がチャイナと闘うのも妙ですから、琉球や高麗に拠点を置いていた倭寇たちでしょう。この倭寇が活動する海域にポルトガル人は進出し、日本までやってくることになるのです。

◆戦◆

◆国◆

【続く】

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