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【つの版】度量衡比較・貨幣67

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 15世紀末から16世紀にかけて、日本では室町幕府の権威が衰え、各地に大名が割拠する戦国時代を迎えます。このうち周防に拠点を置く大内氏は北部九州と瀬戸内海を掌握し、海外貿易によって栄えていました。また倭寇たちは東南アジアにまで進出し、ポルトガル人と接触することになります。

◆魔◆

◆弾◆

鉄砲伝来

 慶長11年(1606年)に編纂された『鉄炮記』によれば、天文12年癸卯(1543年)陰暦8月25日、大隅国の種子島南端、西村の小浦に一艘の大きな船が漂着しました。船員は100人余、姿かたちは異様で言葉は通じませんでしたが、西村の長の織部丞は船に同乗していた大明儒生(明国の儒者)の五峯とたまたま知り合い、砂浜に杖で漢字を書いて筆談します。それによると「彼らは西南蛮種の賈胡(異国の商人)で、怪しい者ではない」とのことでした。そこで織部丞は「島主のおられる赤尾木という港へ行かれるがよい」と伝え、島主である16歳の種子島時堯のもとへ行って事情を話します。時堯は了解して船を赤尾木まで曳航させ、法華宗の僧侶と五峯を筆談させます。

 船には異国の商人の代表者が二人おり、牟良叔舎および喜利志多佗孟太という名でした。彼らは長さ2-3尺(60-90cm)の鉄炮(火縄銃)を持っており、時堯の前で射撃の実演をしてみせたので、その威力に驚いた時堯は二挺を買い求め(鉄炮記には値段が書かれていません)、自ら操作法を習って訓練を重ね、家臣の篠川小四郎に妙薬(火薬)の調合を学ばせました。

 この頃、紀伊国根来寺の僧坊・杉ノ坊の僧侶がこれを求めたので、時堯は「どうして惜しもうか」と津田監物を遣わして鉄炮一挺を贈り、妙薬の法と放火(射撃)の法も教えたといいます。

 手元に残ったのは一挺となりましたが、時堯は鉄匠(鍛冶師)数人を集めてこれを観察させ、複製品を作らせようとします。しかし火筒の底を塞ぐ技術がわからず難航していたところに、翌年また「蛮種の賈胡」が種子島にやってきました。その中に幸いにも鉄匠がおり、火筒の底を塞ぐ技術を知っていたので、時堯は金丘衛尉清定(八板金兵衛)に習わせました。彼は一年あまりで数十の鉄炮を作成し、ここに日本最初の国産銃が生まれました。なお「鉄炮」の名はポルトガル語ではなく、明人が名付けたとも島人が名付けたとも定かではないといいます。

 また八板家系図によると、金兵衛は自分の娘の若狭を天文12年に牟良叔舎に嫁がせましたが、翌年船に乗って戻ってきました。金兵衛は娘が大病に罹って死んだと偽り葬儀を行いましたが、蛮人はこれを見ても涙を流さなかったといいます。このことから「金兵衛は娘の若狭をポルトガル人に嫁がせて鉄炮の作り方(尾栓をしめるネジの作り方)を学ばせた」との伝承が生まれましたが、鉄炮記などの記録にはそうした記述はありません。

 その後、泉州堺の商人・橘屋又三郎が話を聞いて種子島を訪れ、鉄炮の作成法を習いました。彼は二年ほどで学び終え、技術を持ち帰って伝えたので「鉄炮又」の名で呼ばれ、畿内で鉄炮鍛冶が始まり、関西や関東にも伝わったといいます。また古老の伝えによれば、大明国への朝貢船が種子島を経て寧波に渡り、日本へ戻る際、暴風に遭遇して伊豆国に漂着しました。この船には種子島の松下五郎三郎なる者がおり、鉄炮を持っていたので、関八州に鉄炮が伝来したといいます。さて、どこまで本当でしょうか。

伝来検分

『鉄炮記』は鉄砲伝来から60年以上後に編纂された書ですが、おおむね実態を伝えているようです。ただ五峯という人物は儒者などではなく、五峰と号した倭寇(海商)の頭目・王直のことと推測されます。明の鄭舜功が1565年に編纂した『日本一鑑』によると、彼は徽州府歙県(現安徽省黄山市歙県)出身で、寧波沖合に拠点を置く海商の配下となり、博多商人と交易していました。1540年には五島列島(五峰)に遷り、1542年には松浦氏に招かれて平戸に赴き、密貿易を拡大しています。1548年には明朝の取り締まりを逃れて海賊化し、舟山諸島を本拠にして徽王と号しました。種子島に彼が来ることは有り得ますが、ポルトガル人とはどこで出会ったのでしょうか。

 スペイン人ガルシア・デ・エスカランテ・アルバラードが1548年に編纂した『ビーリャロボス艦隊報告』、ポルトガル人アントニオ・ガルヴァンが1563年に編纂した『新旧世界発見記』等によれば、鉄炮記の記述の前年にあたる西暦1542年に、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ダ・モッタ、アントニオ・ペショトなる三人のポルトガル人が日本に漂着したといいます。彼らはシャム(タイ)に停泊していたポルトガル船から脱走し、ジャンク船でチャイナの寧波へ向かおうとしましたが嵐に遭った、というのです。

 鉄炮記にいう牟良叔舎とはフランシスコ(・ゼイモト)、喜利志多佗孟太とは(アントニオ/クリストヴァン?)ダ・モッタのことでしょう。ペショトについては記録がなく、漂流中に死亡したものと思われます。ゼイモトとモッタは船を修理したのち種子島を去り、消息を絶っていますが、彼らがもたらした火縄銃は日本に大きな変革をもたらすことになります。

 またポルトガル人フェルナン・メンデス・ピントの『遍歴記』には、彼がクリストヴァン・ボラーリョ、ディオゴ・ゼイモトらと日本のタノシマ(種子島)に漂着して鉄炮を伝えたとの記述があります。イエズス会の歴史家マッフェイが1582年に書き留めたピントの証言によれば、これは1541年6月24日のことといい、フランシスコ・ゼイモトたちより早くなりますが、彼の『遍歴記』にはが多く(チャイナの皇帝の陵墓を盗掘しただとか)、あまり信頼できません。マルコ・ポーロの東方見聞録のごとく、各地で仕入れた情報を継ぎ接ぎにして自分の手柄にしたりしたのでしょう。

銀一千両

 ともあれ、1542-43年頃には種子島にポルトガル人が漂着し、鉄炮が伝来したことは確かなようです。気になる値段は鉄炮記にはなく、ピントの『遍歴記』に「銀1000タエル」とあるばかりですが、上述のようにほら話が多いのであまり信頼できません。そもそもタエルとはなんでしょうか。

 タエルがターレル(Thaler)のことであれば、1518年にボヘミアのザンクト・ヨアヒムスタール(聖ヨアキム谷、現ヤーヒモフ)で発行された大型銀貨「ヨアヒムス・ターレル」に代表される貨幣です。重さはおよそ1オンス(28.58g)、グルデン/ギルダー/フローリン/ドゥカート金貨と等価とみなされ、一般的労働者の月給の半分として現代日本の10万-12万円。しかし銀1gを3000円とすれば、純銀としても8万5740円にしかなりません。仮に10万円とすれば、1000ターレルは欧州においては1億円にもなります。

 一方、タエル(tael)という重量尺度も存在します。これは「重さ」を意味するマレー語タヒル(tahil)に由来し、ポルトガル語でタエル、英語に入ってテールとも発音されます。およそチャイナの「」に相当し、唐代以後は1文銭の重さ3.73g(銭、匁)を基準として10銭(37.3g)とされます。時代や地方によりバリエーションがあり、交易や商売ではより軽い(あるいは重い)タエル/両も使われました。一応37.3gとすると、銀1g3000円として11万1900円。純度を低く見積もって1タエル=10万円とすれば、1000タエルはターレルの場合と同じく1億円になります。一挺で1000タエルとは原文には書かれていませんから、二挺で1000タエルなら一挺500タエル=5000万円。どのみち破格の高値ですが、それに見合うだけの価値はあったでしょう。

 火薬や火器はチャイナで発明され、イスラム世界やモンゴル帝国を介して13世紀末には欧州に伝来しました。火縄銃(アルケブス、マッチロック・ガン)は15世紀前半にドイツで発明されたもので、火薬に着火する火縄を手元で操作する改良を加えています。オスマン帝国やペルシア、東南アジアにも伝来して盛んに現地製作が行われ、大砲とともに世界の軍事史を大きく変えてきました。日本に伝来したのは東南アジアに広まっていた「鳥銃(鳥撃ち銃)」と呼ばれるタイプのようです。倭寇は東南アジアなどでも活動しており、早くからこれら火縄銃や大砲と接触していた可能性はあります。

 そして、種子島時堯は火縄銃をポルトガル人から購入しただけでなく、複製品を日本で量産させ、火薬の製法についても学ばせています。しかも種子島だけでなく、伝来当初から根来や堺などに輸出し、それらの地でも鉄砲鍛冶を行わせているのです。同じ九州の薩摩や博多でなく、一足飛びに紀伊や畿内へ伝来したということは、種子島が黒潮によって紀伊・畿内と結びついていたことを物語ります。また堺といえば細川氏の利権がありますから、堺の商人は南海道経由で種子島・南島・寧波に進出していたわけで、大内氏とはある程度の対立関係にあったのでしょう。こうして鉄炮が日本に伝来してまもなく、キリスト教が日本に入ってくることになります。

◆漂◆

◆流◆

【続く】

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