見出し画像

【つの版】度量衡比較・貨幣41

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 南北朝時代の戦乱にあって、高麗や明朝に倭寇が襲来します。これは南朝方の勢力が軍資金集めに行ったもののようでしたが、足利義満は各地に御家人を派遣して天下統一を推し進め、倭寇を平定して明朝と国交を結びます。

◆犬◆

◆王◆

足利義満

 足利義満は1358年に生まれ、父・義詮の逝去により10歳で家督を継承しました。管領・細川頼之が後見人となり、1368年に彼を烏帽子親として元服、翌年末に朝廷より征夷大将軍の宣下を受けます。1378年、義満は邸宅を三条坊門から北小路室町に遷し、幕府の政庁・室町第(花の御所)としました。足利家の政権を史上では「室町幕府」と呼びますが、尊氏も義詮も室町に住んでいなかったため、実際に室町に住んだ将軍は義満からです。同年には右近衛大将・権大納言を兼務し、公家社会の一員となりました。

 1379年、反細川派の斯波氏・土岐氏に邸宅を包囲され、彼らに罷免を求められた頼之は失脚します。しかし頼之は翌年には赦免されて幕政に復帰し、斯波・細川両派を抗争牽制させた義満が実権を掌握しました。明朝の丞相宛てに「日本国征夷将軍源義満」名義で書状を送ったのはこの年です。1374年にも明朝への使者を送っていたのですが、明朝は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として承認しており、ならばとこのような形式にしたのでしょう。ただ明朝からは突っぱねられ、義満は新たな方策を考えることにします。

 国内においては京都市内の行政権・課税権を幕府に一元化し、将軍直属の常備軍(奉公衆)や官僚団(奉行衆)を設けています。興福寺の強訴もはねのけつつ各地の寺社を手懐け、1381年には内大臣、翌年左大臣、1383年には源氏長者・淳和奨学両院別当・准三后(太皇太后・皇太后・皇后に准じた者)の称号を授かり、名実ともに武家と公家の頂点に立ちました。1391年には11カ国の守護を兼ねた大名の山名氏を、1392年には河内の楠木正勝を討伐し、同年には南朝を説得して南北朝の合一までも成し遂げます。

 1395年、義満は征夷大将軍を辞任し、息子の義持に位を譲ります。同年に太政大臣となりますが、在任1年で辞任・出家し、法号を道有、のち道義と称しました。ただし実権は握り続けており、出家することで天皇の指図にも従わぬ自由の身(法外)となったうえ、寺社勢力にも支配権を及ぼすようになります。同年、長年九州探題をつとめた今川了俊を京都に呼び寄せて罷免し、24歳の渋川満頼を新たな九州探題に任命しました。

 1397年、義満は西園寺家から京都北山の山荘を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘「北山第(現・鹿苑寺)」を造営します。1399年にはここに移り住み、花の御所に代わる活動拠点としました。この時代の文化を「北山文化」と呼ぶのはこれによります。

 同年、西国の有力大名(周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護)大内義弘が堺で反乱します。鎌倉公方もこれに呼応しますが、義満は義弘を包囲して討ち取り、平定します。今川了俊・大内義弘は高麗や朝鮮と独自に貿易を行って富を蓄えており、倭寇平定にも尽力しましたが、義満にとっては邪魔な存在でした。

 1401年、義満は「日本国准三后源道義」の名義で明朝に使節を派遣し、明朝の建文帝から「日本国王」に冊立されます。時の明朝では燕王の反乱(靖難の変)の真っ最中で、倭寇によって明朝を悩ませた日本が友好国となることは大いに歓迎されましたが、翌1402年6月には南京が燕王軍により陥落、燕王は皇帝に即位します(永楽帝)。1403年、義満は改めて明朝に使節を派遣し、永楽帝より日本国王の称号を承認され、公式に朝貢(貿易)が許可されました。これは先述のように莫大な利益をもたらしましたが、義満は1408年に51歳で亡くなり、子の義持は日明貿易を停止します。

幕政動揺

 天下人・義満の死により幕政は動揺し、各地で反乱が相次ぎます。東国では前関東管領の上杉禅秀、鎌倉公方の足利持氏らが相次いで背き、1419年には倭寇討伐のため朝鮮軍が対馬に侵攻しました(応永の外寇)。小競り合いがあって引き上げた程度でしたが、幕府と朝廷は「蒙古襲来」との誤報を聞いて恐れをなしたといいます。また義持は1423年に息子・義量に将軍職を譲って大御所となりますが、義量は1425年に若くして逝去し、義持も1428年に急死してしまいます。

 義持は後継者を決めていなかったため、群臣はくじ引きによって後継者を決めることとし、義持の同母弟で出家していた義円が選ばれます。彼は還俗して足利義宣、翌年改名して義教と名乗り、征夷大将軍を継承しました。義教は義満の政策を復興させ、1433年と35年には明朝へ使節を派遣し、九州を抑えるため大内氏を支援しています。しかし義満ほどのカリスマ性もないため各地で反乱が相次ぎ、1441年には播磨の守護大名の赤松氏に暗殺されてしまいます(嘉吉の乱)。

 跡を継いだ息子の義勝はまだ9歳でした。細川持之が管領となって幕政を主導し、赤松氏を討伐したものの1442年に逝去します。義勝も翌年急死したため、群臣は義勝の同母弟を将軍に祀り上げました。これが足利義政です。

 幼い将軍は傀儡に過ぎず、細川・畠山・山名・斯波など有力者が実権を巡って争い、戦乱と飢饉と疫病が襲い来るマッポーの世となります。1467年から1477年まで10年以上も続いた「応仁・文明の乱」により、室町幕府による国家秩序はおおむね崩壊し、日本は戦国時代へと向かっていくのです。

徳政一揆

 さて鎌倉時代から室町時代にかけては、土倉・酒屋など金融業者が勢力を伸ばし、高利貸しで儲けていました。朝廷や幕府、寺社はこれらに税を課して資金源としましたが、義満は1393年に「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」という法令を出して徴税を一本化し、土倉と酒屋が年間6000貫(1貫10万円として6億円)の土倉役・酒屋役を幕府に納める代わりにその他の税を免除しました。当初は幕府が直接徴税しましたが、後には有力な金融業者を納銭方(徴税請負人)に任命して徴税を肩代わりさせています。しかし朝廷や寺社は勝手に課税を行い、金融業者も脱税を繰り返し、税収は不安定でした。

 1428年の義持の死と1441年の義教の死の直後、土一揆が発生しました。これは「民(非武士、農民や地侍、馬借など)が手段()をつにして」行う運動で、土倉や酒屋、寺社などからの借金を棒引きにし、売買を帳消しにする徳政を求めたことから「徳政一揆」とも呼ばれます。幕府は混乱のもとだとして鎮圧していますが、一揆はその後も頻発し、武装集団が勝手に金融業者や寺院を襲撃して徳政を行う「私徳政」も行われました。

 こうなると幕府への納銭は減る一方で、嘉吉年間(1441-1444年)には月200貫(2000万円)・年2400貫(2.4億円)に、1496年には月80貫(800万円)・年960貫(9600万円)に減少したといいます。他にも臨時税などがあるとはいえ、幕府の権威も権力もかたなしです。

 足利義政の妻・日野富子は衰退する幕府財政を支えるため蓄財に精を出し、1459年には京都の七箇所に関所を設けて通行料(関銭)をとりました。これに対し民衆は1480年に徳政一揆を起こし、関所を破壊したといいます。義政が東山山荘(銀閣寺)を造営する時は一銭も出しませんでしたが、御所の修復などには自分の蓄財から銭を出し、1496年に逝去した時は7万貫(70億円)もの遺産があったといいます。

 幕府や寺社、大内氏らによる日明貿易、対馬宗氏を介した日朝貿易は続けられましたが、明朝や朝鮮は私貿易(密輸入)を禁止したため、かえって利益を求めて私貿易や掠奪行為を行う者が増えました。彼らは「倭人」と称していましたが、1446年の朝鮮の記録には「倭人は1割か2割に過ぎず、我が国(朝鮮)の民が仮に倭の衣服を着て徒党を組み、乱をなしている」とあります。『明史』にも「真の倭人は十人のうち三人である」と記されており、東アジアにはかつての倭寇を真似た非倭人の「倭寇」が出没し始めたのです。

◆犬◆

◆王◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。