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残された子供と養母の絆。『あの戦争から遠く離れて』城戸久枝


第7回 黒田清JCJ新人賞、第30回 講談社ノンフィクション賞、第39回 大宅壮一ノンフィクション賞の3冠に輝いた作品。鈴木杏さん主演でドラマ化もされました。でも、私は本でもドラマでもなく、最初にドキュメンタリーで知りました。

今の人は、中国残留孤児って知らないと思いますが、戦前の日本は農村の不況と失業対策、そしてソ連との戦いに備えて多くの人を当時の「満州国」、つまり今の中国東北地方(吉林省、黒龍江省、遼寧省、一部内モンゴル自治区)に開拓民として送りました。私の実家のある長野県は、日本で一番行った人が多かったところです。

戦争が終わったとき、大勢の人たちは帰ってくることが困難で、亡くなった方も多いのですが、なんといっても大変だったのは子どもです。亡くなったり、捨てられたり、中国人にもらわれた子供など様々でした。そして、戦争が終わっても、30年近く日本と中国は国交がなかったので、子供たちは放置されました。彼らが残留孤児と言われる人達です。

1972年、日本と中国の間にようやく国交が結ばれて、その後、残留夫人(中国の男性と結婚して戦後も中国に残った女性)や残留孤児の調査、一時帰国などが始まったのは1980年代ですが、両親と生き別れたり、中国人に預けられた子どもはもう30才以上になっています。当然、日本語も家族のことも忘れているので、いろんな難しい問題が山積みです。

なのに、本書の主人公の城戸さんは、日中の国交が結ばれる前の1970年に命がけで帰国を果たすことができました。例外中の例外です。それは、戦争末期の混乱の中、城戸さんの家族と親しかった中国の人たちが、3歳の城戸さんを護り、子供のいない中国人女性に預けてくれたからでした。

養母は城戸さんに一心に愛情を注ぎ、城戸さんも本当のお母さんとして懐いていました。普段は養母のお手伝いをし、学校ではものすごく勉強をさせられたおかげで、城戸さんは村一番の秀才になり、奨学金をもらって都会の高校に行けました。

でも、都会の進学校でも成績がいいと、足を引っ張る同級生が出てきます。あるとき、日本人であることを指摘され、それまでの戸籍を中国人から日本人に変えてしまったおかげで、城戸さんは旧敵国の人間として大学に進学することができなくなってしまいました。以来、城戸さんは日本への帰りたい気持ちを持つようになったそうです。

大学をあきらめ、就職してお金をたくさん貯め、養母に残そうと一生懸命働きました、養母は自慢の息子が自分から離れてしまうとショックをうけましたが、文化大革命が始まって外国人に対する迫害が激しくなってくると、「息子の命の方が大事だから」と帰国を許してくれました。

子供だった城戸さんに両親の記憶はほぼなかったのですが、城戸さんの両親を知る中国の人が父親の軍隊名を覚えていたのと、城戸の「城」の文字が洋服に記してあったので、城戸さんが日本赤十字社に送った何十通もの手紙のおかげで、家族を見つけることができました。これが奇跡でなくてなんでしょう。

でも、本書を読んで一番ショックだったのは、城戸さんの帰国後です。城戸さんは、成績優秀なのに中国では大学にいけませんでした。だから、日本に戻ったら大学に行きたかったのです。でも、城戸さんのご両親は四国在住で、息子は死んだと聞かされていました。息子の出現は青天の霹靂ですし、は年の離れた弟が二人いて、一人は大学生、もうひとりは受験生でした。

28歳で日本語が不自由で、しかも養母の愛情を一心に受けてそだった城戸さんには、大学進学を許してくれない、言葉も通じない両親と弟二人は他人同然だったようです。父親は、わずか3歳で中国に一人とり残され、苦労した息子にこう言ったそうです。

「俺は25年前の中国語を覚えているのに、なぜお前はたった25年で日本語を忘れてしまったのか?」

涙の再会劇からわずか3ヶ月。城戸さんは家を出て就職し、社宅に入りました。ここで幸せだったのは、会社の人たちが城戸さんを認めてくれたことで、定時制の高校に通わせてくれました。看護婦だった奥さんとも、高校で知り合ったそうです。

城戸さんは、その後、来日した残留孤児のために日本語学校の先生をしたり、後のちには会社の中国支所の仕事も任されるようになります。中国の養母にも何度も会いにいきました。そして、娘の久枝さんが大学生になって中国に留学し、作家になってお父さんのことや自分のことを書いて評価されるなんて、すてきなサプライズですよね。

娘さんのパートについても、いろいろ考え深いです。ぜひ、読んでみてください。


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