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丹波亀山城址に行ってきた①

10月27日

おっさんに迎えに来てもらい、お昼ご飯はパンを買って山の上で食べました。

そしてこの日は、京都府亀岡市の丹波亀山城址に行ってみる事になりました。

亀岡市なのに丹波亀山城?と思われるかもしれませんが明治2年(1869年)三重県亀山市と混同するため、亀山から亀岡へと改称されたという経緯があります。


案内図


駐車場に車を停めさせてもらい、まずは案内図を見に行きました。

これは受付で貰った案内図。

それから、みろく会館の1階の受付で拝観料1人300円を支払った後エレベーターで2階に進みます。

案内通り2階のギャラリーおほもとにて、
入館券を提示して10分間ぐらい丹波亀山城址の紹介DVDを見てから、外に出ました。

外に出て一番に目に入ってきたのが、これ。
鳥…ですかね?

亀山城の概要

亀山城は天正5年(1577年)頃に、明智光秀が織田信長の命を受けて丹波攻略の拠点として築城されました。

それから時は経ち、明治時代には廃城令により払い下げが行われ、遺構や石垣が切り売りされ城址は荒廃していきました。

大正8年(1919年)宗教法人「大本」の教祖である出口王任おに三郎により丹波亀山城址は買い取られ、信徒の力を借り石垣は復元され、大本の聖地となりました。

昭和10年(1935年)12月8日に第二次大本事件と呼ばれる政府による大弾圧が行われ、聖地は没収され全ての建築物・城跡石垣が破壊されました。

その後、昭和20年(1945年)9月大審院(今の最高裁)で無罪判決が確定し、また一から丹波亀山城址と石垣を信徒と共に再修復・整備がなされました。

万祥池

復元された丹波亀山城址の石垣、
左側の石垣は内堀跡。

天下普請の刻印

江戸時代の慶長15年間(1610年)に幕府は諸大名に助役すけやくを命じて天下普請ぶしんが行われ、亀山城も大改修が行われました。

それを示しているのがこちらの刻印。
刻印は石垣普請に参加した諸大名が石を運搬した事を示す為に刻まれたと考えられており、ここでは55ヶ所17種類の刻印を見る事ができます。

受付で刻印がある場所の一覧表を見せてもらったけれど、あれ欲しかったな。
自力で探すには大変すぎるので。汗

かつての亀山城石垣跡に沿って積みなおされている石垣。

花明山植物園はまたあとで来ることにして、一度スルーします。

コノハナザクラ

教歌碑・懐古歌碑。

手水舎。

万祥殿

礼拝堂・能楽堂・茶室が融合した建物らしいです。

万祥殿の左側を通り、いよいよ本丸の石垣を見に行くのですが…長くなったので続きはまた次回にします。

 

〇参考にした動画はこちら↓

大本公式チャンネル。
私達が最初に見せられたDVDの内容と同じ動画が、公式で上げられていました。笑

そしてこちらは京都府亀岡市の公式YouTubeチャンネルの動画です。


○参考にしたサイトはこちら↓


65歳のおっさんと1泊2日の旅行に行きます!!