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赦す私の文章

私の何かが反応した。怒りの感情がふつふつと湧いてきた。彼女の言葉が私に向かってきた刃のように感じた。その刃は私に対する「指導」の言葉だった。

事実は「私が曖昧に捉えていたルールを厳格に適用するよう、彼女が私に伝えた」ということだった。

私の中に、揺るがない私が在れば、彼女が私に何を言っても、私は揺るがないはずだった。彼女の言葉に私が揺れるのは、私が私を信じていないからだった。信じていないのは、揺るがない私を私が赦していないからだった。揺れた感情から逃げ出さず、感じたことを受け容れて赦すことが、私には必要だった。私のなかに揺るがない私が在っても良いのだと、赦しを私に与えることが必要だった。

メモ書き
私の身体はカフェインに反応していた。珈琲を飲むと鼓動が速くなり、息が浅くなった。随分前から、症状はあった。症状が明確に意識できるようになった。日々の体調に影響していた。
職場の同僚からもらったデカフェのドリップコーヒーを飲んでみた。美味しく飲めた私は、デカフェを飲むことを楽しみに過ごした。午前中に珈琲店に向かいたかったは、ごはん屋さんで、美味しいランチを食べようと思っていたからだった。デカフェの豆を珈琲店で買った私は、デカフェの豆で入れた珈琲を店内で飲んでみた。

これからの人生で、たくさんの私を赦すことができることに、私は気づいた。赦せない私が、まだたくさんある、ということだった。残された時間で、赦せない私を赦して生きていこうと思った。今世で私がすることは、私を赦すことだった。私を赦し続けることだった。私は、生きていこうと思った。生きていく意欲が湧いてきた。私を赦すことは、私がやることで、他の誰かがやれることではなかった。私が私の力を使ってやることで、誰かに頼れることではなかった。誰かが私を赦しても、私が私を赦さない限り、私は赦されることはなかった。私に赦されない私は、いつまでも赦されない存在だった。

感情が揺れて、揺れた感情を観て、感じて受け容れて、私のなかにある、赦せない私を、見つけて感じ取って、私のなかにある、と私が認知して、私のなかに在ることを、私が赦すこと。それを、これから、愚直に、やっていこうと思った。私が望む自由に近づいていくはずだった。私が私を赦すことが、自由の世界につながっていた。私は定まった。私は赦しだった。私は赦しなのだ。私と赦しはイコールだった。赦しは私そのものだった。私は私を赦すために在った。

たどり着いた場所は、とても静かだった。事が起こり、感情が動き、観て感じて、私のなかに在ると認知して、赦す。静けさの中で、次の事が起こり、感情が動き、観て感じて、認知して、赦す…そうして繰り返すことで、私は常に静けさのなかに在ることができた。

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