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映画と珈琲

はじめての場所で珈琲を飲んだ。ホテルの中にある珈琲店だった。奥まった場所にある珈琲専用のカウンターでハンドドリップ珈琲を注文した。財布のなかから探し出した500円硬貨をレジの女性に渡した。

白いトレーナーを着た若い男がドリップケトルを慎重に傾けて珈琲を抽出した。白いトレーナーの男はコーヒーサーバーを軽く回してからマグカップに珈琲を注いだ。マグカップを受け取った私は席を探すためにホテルのエントランスに向かった。

エントランスの中央辺りに10人くらいが並んで座れる長いテーブル席があった。長いテーブル席の他には、ゆったりと座れそうな4人掛けソファー席が2セットあった。ソファー席は既に埋まっていたので、長いテーブル席の一番端に座った。私が座った席から10メートルほど離れた場所にホテルのフロントがあり、宿泊客に対する受付業務が粛々と行われていた。正面玄関の自動ドアが開くと、キャリーケースを引いた女性と冷たい風がエントランスに入ってきた。

映画が始まるまであと1時間だった。テーブルの上に開いたノートパソコンで、珈琲を注文したことや、長いテーブル席に座ったことをタイピングしていたら15分が経っていた。私は時間の経過をタイピングするのが好きだった。時間の経過とともに、私の世界ではいろいろなことが起こった。それは些細なことだった。

私が座る席の左隣、一つ席を空けて座っていた女性は、ノートパソコンに向かって、何かをタイピングしていた。タイピングのスピードが上がってくると「パチパチパチパチ」と乾いたタイプ音が聞こえてきた。タイピングのスピードが更に上がって行くと「パチパチパチパチ」は「バチバチバチバチ」と激しくなっていった。

一度小さく息を吐いてタイピングを止めた女は、左手人差し指の側面を額に当てた。考えごとの整理が終わったのか、女はテーブルに置いてあったグラスを左手で引き寄せた。ストローに口をつけると、残り僅かだったアイスコーヒーのグラスから「ズズズッ」と音がした。一瞬周囲を見渡した女は、グラスを遠ざけてからタイピングを始めた。


「何をタイピングしているんですか?」

話かけられた女は、少し驚いた様子だった。タイピングしている指の動きは止まらなかった。

「小説を書いているんですか?」

二度目の声をかけると、女はタイピングを止めて声を発した。

「あぁ、私のこと?、音がうるさかったかしら」

「いえ、それほどでも」

「もう少し静かにするわね」

「何を書いているんですか?」

「あぁ、これ?、そうね、いろいろ」

「いろいろ」

「そう、いろいろ」

私は女が言ったことを考えてみた。

「いろいろ、ですか」

「そう、あなたのことも書いていたわよ」

「私のこと」

「あなたがカウンターで珈琲を注文して、白いトレーナーの男がハンドドリップしてる様子をじっとみていたこと。エントランスに入ってきて、私が座る席の右隣、一つ席を空けた席に座ったこと。私が右隣の席にハンドバックとコートを置いていたけど、あなたの装いからすると、よける必要はないかなと思ったこと。そんなことをいろいろ書いていたの」

「いろいろ」

「そう」

話はそれで終わりだったのか、女は再びタイピングを始めた。

マグカップを持った私は、ぬるくなった珈琲をすすった。

「ねぇ、これから映画を観に行くんでしょ。確か座席はC-3だったわよね。私もこの後、映画を観に行くの。私の席はD-4だから、あなたの右斜め後の席」

「君が観る映画と、私が観る映画は、同じ映画なのかな」

「きっと同じよ。そういう風に私は書いたんだから、きっとそうなるの」

残りの珈琲を飲み干した私はマグカップを持って席を立った。

女はタイピングを続けていた。

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