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No.65「生きていることに対して常に漠然と罪悪感のようなものを感じています」_Sae

いつもnoteやTwitterを訪れてくださって、ありがとうございます。つかふる姐さんです。
フォロワーの皆さまから寄せられたご相談にお答えする、「つかふる姐さんに聞いてみよう」No.65をお送りします。
(※個人の特定を防ぐため、とこどころ情報を省略・変更してお送りしています)

今回はSaeさまからのご相談です。

「わたしの悩みは、生きていることに対して常に漠然と罪悪感のようなものを感じている、ということです。客観的にこの悩みの原因や解決法を見つけていただけるのであれば、ぜひヒントを頂けたら嬉しく思います」

ご相談の詳細は以下です。

つかふるさま、はじめまして。駆け出しのナレーターのSaeと申します。
つかふるさまのことはプライベートのアカウントでずっとフォローさせて頂いておりました。Twitterやnoteの言葉にいつもパワーを頂いております。特に50代の美人社長さんの記事がとても好きです。

最近昔からの夢が仕事になりつつあり、人生が大きく変わっていこうとしているタイミングなため、そろそろ子供の頃から抱えてきたある悩みとも向き合い解決していきたいとおもっています。ただ、この悩みは今まで身近な人に話してみても誰一人として理解してくれる人がいませんでした。カウンセリングにも通いましたが、あまり実のある時間とは思えず毎回誰にも理解されないんだなあ…と思うばかりでした。

もし、つかふるさまにお話しして、客観的にこの悩みの原因や解決法を見つけていただけるのであれば、ぜひヒントを頂けたら嬉しく思いDMさせて頂きました。ご回答方法は是非noteへの公開にてよろしくお願いいたします。
わたしの悩みは、「生きていることに対して常に漠然と罪悪感のようなものを感じている」ということです。

初めて感じたのは中学1年生の頃でした。特に理由は見当たらず、自分が存在していることに対して、悪いことをしているような申し訳ないような感情が湧いてきて、心臓がギュッと締め付けられます。その罪悪感に似た気持ちは、初めて感じた時から29歳の今に至るまで一日も消えたことがありません。常に心の中にその感覚が雨雲みたいに掛かっていて、時々、発作のように強くなり心臓がギュッとなります。この発作のようなものは、お友達と楽しくランチをしているとき、美容室で髪を綺麗にしてもらってきた帰り道、自分のナレーションした動画が無事公開されて嬉しいとき等、本来は楽しい気持ちや嬉しい気持ちで満たされているはずの時にも関係なく突然起こります。

元々自己肯定感がとても低いタイプだったので自己肯定感の低さからくるものかもしれないと思い、数年前からアドラーの心理学や認知行動療法を取り入れたトレーニングを行ってきました。その甲斐あって、自分自身のことはだめな部分も含めてそのまま受け入れられているように思いますし、仕事に関しても、今の調子で積み上げていけば自分の望む未来は手に入れられると信じることができています。ですが、自己肯定感が上がったことによって薄くなったり消えたりすることはありませんでした。

友達は、楽しいことを考えて忘れよう!夢中になれることを見つけよう!等アドバイスしてくれます。しかし、昨年の夏に会社員を辞めフリーランスになったことで、毎日好きなことや好きなことを続けるための努力に自分の全ての時間やお金を使うようになり、楽しさや充実感という意味では平均的な同世代の人たちに比べ強く感じており満たされているのではないかと思います。

育った環境に問題があるのかとも考えましたが、とても厳しい家庭で育ってはいますが特別親子関係に問題があったようには思えません。高校生の頃に母が亡くなったり震災で家が無くなったりしたことでそこからおよそ10年間うつ状態を経験し、その間は強い希死観念がありましたが、今は治療でほぼ寛解していてその頃の希死観念のようなものはありません。この生きていることに対する罪悪感のようなものとは、少し似てはいますが別物でした。

上記の通り色々と理由を考えてきましたが、これといったものが見つからないところがまたつらいのです。理由があるならばそれを取り除けば良いと考えられますが、理由がないということはやはり存在していることそのものに対して湧いているのかなと…。

子供の頃から集団生活が苦手だったり、容姿に異常な程のコンプレックスを持っていたり、周りの友人がどんどん結婚していくなか子供を持つことへの嫌悪感が強く結婚願望を持てなかったりと、生きづらさを感じることは多々ありますが、その生きづらさによるものなのでしょうか。
最近は脳のバグだと考えなるべく気にしないようにしてきましたが、この先の人生こんなことを感じずに生きていけたらどんなに晴れやかな気持ちなのだろうと、もっと楽しくお仕事をしていけるのだろうな、と考えてしまいます。

つかふるさまはこのような感覚を持ったことはありますか?または、周りにいらっしゃったことはありますか?もし、ご自身や周りの方で同じようなご経験があり乗り越えた経験談などがありましたらご共有いただけたら嬉しいです。同じような経験がなくとも、つかふるさまから客観的に見て、これが原因では?こうしてみたらよいのでは?ということがありましたらぜひ教えて頂きたいです。

長くなりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました。これからもTwitterやnoteでのお話楽しみにしております。時節柄、つかふるさまもご自愛くださいませ。


Saeさま、この度はご相談ありがとうございます。
とてもデリケートな心の感覚を言葉にしていただきました。真摯な想いが伝わる文章だったので、私も適当なお返事はしたくないなと思っているうち長い時間が経ってしまいました…(いつものことですね)すみません。

あなたの仰る「罪悪感」について、何度も繰り返し文章を読み返しながら思いを馳せていたのですが、正直なところ、私が理解できているのか自信がもてません。あなたが人生の長い時間かけて理解しきれなかった感情ですから、私にも理解できなくて当然といえば当然なのかもしれません。

叶うことなら一度、美味しいお茶でも飲みながらじっくり時間をかけてお話伺ってみたいのですが、今回は一往復のみのお約束ですから、勝手ながら私の妄想力を駆使してあなたにお返事を書いてみたいと思います。


***


罪悪感。

Saeさまに「つかふるさまはこのような感覚を持ったことはありますか?」と聞かれて我が身を振り返ったのですが、私にもありました。罪悪感。それはもう根深く。

というか、これまであまり意識したことがなかったのですが、この世に生きるすべての人(メタ認知機能がない年齢を除く)が、多かれ少なかれこの「罪悪感」という感情を持っているのではないかと思ったのです。そしてこれに蓋をして生きているのではないかと。直面するにはあまりに辛すぎるから。


罪悪感?何に対する罪悪感なのか?犯罪も犯していないのに?

と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、
私たちが抱えうる「罪悪感」は、実にバラエティに富んでいます。

例えば今日、あなたは何を食べましたか?
昨日は、一昨日は、この一週間、この一年間、生まれてから今まで、どれだけの命を食べましたか。
例えば今日、あなたは何を着ていますか?
その服が手に入るだけの富をあなたが有している一方で、
劣悪な労働環境で僅かな収入のためにそれを作っている人がいることを私達は知っています。
高架下の段ボールの中に眠る人を横目に、私たちは安全な家路に着きます。
生まれながらの障害を背負っている人たちの存在を知りながら、私たちは平均値に収まる人の為に用意された枠の中で生活を送ります。
生まれた国が違うというだけで人としての権利を奪われ、意思を殺され奴隷のように扱われる女性がいるのを知りながら、私たちは社会進出に勤しみます。
食べるものがなく不衛生な環境で死んでいく大勢の子どもの存在を知りながら、私たちは自分の子どものために不妊治療をし、新品のベビーベッドを買い、高価なオーガニック食品を買い与えます。
毎朝のスタバのラテの代わりに募金すれば助かる命があると知りながら、私たちは自分の楽しみのためにそのお金を使います。


そう、私もあなたも、程度は違えど“恵まれている”人間なわけです。
そしてその恵みは、想像を絶する無数の苦しみ、犠牲、不平等の上に成り立っていることを知っている。

だから、いくら楽しく充実した生活を送ったところで、この種の罪悪感は消えることがない。むしろ幸せになればなるほど、富めば富むほど増悪すると言えるかもしれません。


いまあげたのは主に社会生物学的罪悪感ですが、もっと身近な、半径数メートル内で生じる罪悪感もあります。

親の期待に応えられなかった自分。自慢の娘になれなかった自分。他の子と比べて出来の悪かった自分。ミスをして周囲に迷惑をかけてしまう自分。不機嫌な母親を笑顔にできなかった自分。集団の輪の中で空気を盛り下げてしまった自分。目標を達成できない自分。同期のようにそつなくこなせない自分。美しくないせいで男性の気分を害してしまった自分。それでも愛してもらうことを求める欲深い自分。
理性よりも欲望に負けて自分を甘やかしてしまう自分。
思考よりも感情に流されて馬鹿なことをしてしまう自分。
愛されたい、注目されたい、賞賛されたい、認められたい、大切にされたい。
だけど
私みたいな人間がこんな扱いを受けていいわけがない。私みたいな人間に時間を割いてもらって申し訳ない。

これらは毎日泡のように生まれては消えていく、瞬間瞬間の罪悪感です。
知らないうちに積もり積もっていくこともあるでしょう。そしてそれが自分という存在に対する否定を強くするわけです。真綿で首を絞めるように。


Saeさまは中学1年の頃から「罪悪感」を感じるようになったと書いてくれましたね。
中学生になる頃というのは、外界に対する視野も広がり、自己の内界も徐々に確立されてくる時期です。世界の仕組みが理解できるようになり、一方で自分がどう生きるか、どういう存在として在るかということを模索し始める頃と言えるでしょうか。

あなたは厳しい家庭で育ったとも仰っていました。
ご両親は正義感の強い道徳的な人だったのでは?正しいことを為しなさい、人に迷惑をかけてはいけません、輪を乱してはいけません…
そんなふうに教えられて育ったのではないですか。

集団生活の苦手さ、容姿へのコンプレックス、子供を持つことへの嫌悪感、結婚願望の薄さ。

あなたは人を押しのけて自分が、自分が、と前に出ることに強い抵抗感があるのではないですか。


あなたが選んだナレーターというお仕事は、誰かの言葉や想いを伝える“媒介“になるお仕事ですね。
発する人と受け取る人の架け橋となり、表現を支え、彩り、豊かに広げていくお仕事ですよね。

あなたが好きだと言ってくれた「50代の美人社長さんの記事」は、“人に与えること”がテーマになっていますよね。


Saeさま、あなたはその重苦しい罪悪感に悩まされながらも、うまく折り合いをつけながら一歩一歩歩んでこられたのではないですか。

私は、あなたの生き方をとても素敵だと思います。
あなたの経験されてきたこと全てに意味があったのだと思います。この「一日たりとも消えたことがなかった罪悪感」も含めて。



あなたはずっとこの「罪悪感」と闘ってきたのですよね。誤魔化したり、蓋をしたりせず、真っ直ぐ向き合ってきた。

ご自身で解決しようと懸命に学び、深い喪失体験を乗り越えて、幸せになろうと懸命に前を向いて頑張ってこられたのですよね。


「自分自身のことはだめな部分も含めてそのまま受け入れられているように思う」
「仕事に関しても、今の調子で積み上げていけば自分の望む未来は手に入れられると信じることができる」

今あなたが手にしているものは、間違いなくあなたが努力によって獲得してきたものです。
あなたにしかわからない苦しみの中もがいて、ご自身の力で手に入れてきたものです。
どうか後ろめたく思わないでください。


「客観的にこの悩みの原因や解決法を見つけていただけるのであれば、ぜひヒントを」

と書いてくださいましたが、
私個人的には、この罪悪感は「使命感」とも名付けられるものなんじゃないかと思うのです。

不平等に恵まれていること、無数のいのちの犠牲の上に生きていること、周囲に支えられていることを知り、
それでも懸命に生きようとすること、幸せになろうとすることにどうしても罪悪感を感じてしまうのなら。

「私は私のいのちを使って、私のできる限りのことをする」

と考えるのはどうでしょうか。

それは単に何かの犠牲になるとか、ボロボロになるまで働くとかそういうことではなく、
自分に与えられた全てに感謝し、受け入れて、自分のもてる可能性の最大限を発揮するということです。

自分を傷つけたり抑えたりする方法ではあなたのほんとうの力は決して生かされません。
あなたが喜びを感じ、幸せになり、最大限の能力を発揮することで、今度は他の誰かに最大限のものを与えることができるということです。

「この先の人生こんなことを感じずに生きていけたらどんなに晴れやかな気持ちなのだろうと、もっと楽しくお仕事をしていけるのだろうな、と考えてしまう」

と書いてくれましたが、
あなたはもうほぼそこまで到達しているのではないかと私は思います。

Saeさん、あなたは、今のご自身の生活やお仕事のなかに、使命のようなものを既に見つけておられるのではないですか。それをいま、夢と呼んでいるのではないですか。

どうかそのまま進んでください。
誰にも遠慮せず、怯むことなく、あなたの可能性を存分に発揮してください。

そうやってあなたがあなたらしく生きることで、
幸せになる人、勇気づけられる人、救われる人が必ずいます。
これまであなたが受け取ったと思うもの、与えられたと思うものはすべて、あなたが誰かに与えることのできるものです。

どうせみんな死ぬ時には何も持っていけません。
たくさん受け取って、たくさん満たされて、恵まれて、幸せになって、
そしてそれを、大切な誰かに、与えて、満たして、幸せにできるように生きましょう。

私たちはたぶん、大きな循環の輪の中にいるのです。
罪悪感を使命感に変えて、この循環を受け入れましょう。

きっと、今よりもっと晴れやかな気持ちで、のびのびと、楽しく生きていけると思います。


***


Saeさん、そして最後まで読んでくださった皆さま、ありがとうございました。

今回も長くなってしまいましたが、
(そしてなんか新興宗教みたいな話になってしまいましたが 笑)
私なりに真摯に考えてお返事を書かせていただきました。

Saeさま、あなたの今後のますますのご活躍とより一層の幸せ、そして心の雨雲からの解放を願っています。


それでは、
また次のnoteで、お会いしましょう。


いつもありがとうございます。あなたの貴重な時間やお金を、このような形で私に使ってくれること、すごいご縁だと感謝しています。私の力の源です。