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旅の思い出

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旅の記録のつめあわせ
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#映画感想

物語が生まれる街-スパイダー・マン-

摩天楼は山であり谷だ。 切り立った崖の連なり、影の落ちる峡谷。 谷底から見上げれば、尖った山が天空を削るほどにそびえ立つ。 尾根に立って見下ろせば、狭く深く暗い裂け目に膝が笑う。 そのマンハッタン峡谷を自由自在、蜘蛛の糸にぶら下がり、ターザンみたく駆け巡る。 大きなスイングでビルからビルへ。 しなやかな跳躍、目を奪う速度。 スパイダーマンが大都会に躍動する姿は感動に等しい。 縦方向の直線に比べ、マンハッタンの道は不釣合いなほど狭く感じる。 80階を超えるほどの高層ビルが

公園の住人-シャーロットのおくりもの-

10月の3連休、ある晴れた日。浜離宮公園を散歩する。 以前、汐留の高層ビルの中から、毎日のようにこの公園を眺めていた。 広々として海に臨み、緑が生い茂り、静かな池と刈り込まれた植木が見える。 「離宮」という言葉の響きは、なぜか「竜宮城」を思い起こさせる。 あそこをのんびり散策したら、どんな気分なのだろうと思いながら見ていたのだ。 逆に公園から、私がいつもこちらを眺めていたはずのビルの21階付近を見上げると、その窓は小さすぎて、中に人がいると思うととても不思議な感じがした。

最高のおもいつき-ニューヨーク・ストーリー-

「今年もロックフェラーセンターのスケートリンクがオープン」 あるブログの記事を読んで、私は反射的に思ったのだ。 「そうだ、ニューヨークでアイススケートをしよう」 並び立つ星条旗が風にひるがえる摩天楼の狭間、周囲より1階分くりぬいたように窪んだスペースに、小さなスケートリンクがある。 そのリンクを中心に据えてロックフェラーセンターは立ちはだかっていると言ってもいい。 そこは観光地でもあるしオフィスビルでもあり、ショッピングセンターでもあって、多くの人がビジネスミーティングの

コスモポリタン-ニューヨーク東8番街の奇跡-

つまりニューヨークは、移民の街だ。 歴史的な成り立ちをしてもそうだし、現在においても、マンハッタンの住民の6割は移民一世だと言うのだから、その事実は増殖を続けていると言っていい。 よく言われることだが、タクシーに乗るとそれを如実に体験できる。 決して、英語を母国語とするドライバーに出逢わないのだ。 十中八九、彼らの英語は私に負けず劣らずの片言で、運転の間中はイヤホンマイクの携帯電話で耳慣れない「どこか他の国」の言葉をしゃべりっぱなしと決まっている。 映画「ナイト・オン・プ

アメリカ!-海の上のピアニスト-

毎日同じだった。 誰かが目を上げ彼女を見る。 理解できないことだ。 船には1000人を超える乗客が乗ってた。 金持ちの旅行者、移民たち、得体の知れぬ連中、おれたち。 それなのにいつもたった1人だけが、最初に『彼女』を見る。 何かを食ってたりデッキを歩いてたり、ズボンのベルトを締めてひょいと海のかなたに目をやった一瞬『彼女」を見るのだ。 彼はその場に立ち尽くす。 高鳴る胸の鼓動。 そして誓ってもいいが皆同じことをする。 皆のいる甲板に向き直って、声の限りに叫ぶ『アメリカ

休日の出来事ー釣りバカ日誌ー

私たちは、東海道線を西へ、小一時間向かった。 列車のシートに背をもたせ、他愛ないおしゃべりを続けていても、不思議だけれど海原の風景が目に飛び込んだ一瞬に会話が止む。 その光景は、いっぺんで人を黙らせる。 窓は開いていないのに、潮風が吹いてくるような錯覚もする。 説得力のある、開放感。 その日の天気も好かった。 熱海駅から先、伊豆半島に差し掛かると、列車は各駅停車になる。 二駅乗って、網代という無人駅に降り立つと、改札の外には、想像以上に小さな漁村の様相が広がっていた。

誰もいない朝ーオープン・ユア・アイズー

早朝の空気というのは不思議だ。 それを朝もやと呼ぶのだろうか、煙たさにも似た独特の眩しさに包まれていて、なぜだか耳が遠くなったような感覚がする。 自分と、自分が今いる場所との間にはなじみきらない薄い膜があって、まるで異次元に放り込まれたみたいなのだ。 胎内で夢を見ているみたい。 早起きをした朝も、夜を明かした朝も、そうして一日の予感がくすぐられる。 ジムへ向かうため、地下鉄の出口を松屋の目の前で出て、銀座の街角を早朝に歩く。 休日や夜の溢れかえる雑踏がきれいなまでに消え

惚れた腫れたの島暮らし-ナビィの恋-

島の気分をどんなものかと言い例えるならば、この映画を見てみるといい。 どこからともなく音楽が聴こえ、なんにもかもを大して意味のないのことだと笑い飛ばす陽気でゆるやかな踊りを踊る。 「惚れた腫れた」がこの世の重要なことの9割9分を占めると、大きな声で堂々と言い切って拍手喝采を浴びるような、そういう空気。 あくまで私個人の感覚においてだが、モーニング娘。の歌なんかを聴くと、その「惚れた腫れた」至上主義の能天気さに、半ば呆れ、半ば癒されるのだけれど、島暮らしというのはなんだかそう

狼が横切るとき-コラテラル-

雨そのものは音もなく降るが、ブルゾンのナイロンにぶつかればパラパラとやわらかく鳴る。 今朝も北風が強く、頬と耳をひんやりと湿らせる。 葉書を出そうと最寄のポストまで歩く。 集荷は一日に一回きり。 日曜は午後の一度だけ。 銀色の弁をぐいと押し、朱色の箱に葉書を一枚そろりと入れる。 コトリと音を立て落ちる。 この箱の中には今、これきりの一枚。 郵便やさんは毎日、どんな気持ちでこの箱を開けるのだろう。 数日に一度ほどしか開ける意味がなさそうなこの箱を。 今日は開ける意味があ

ちゅら海のそば-ボーリング・フォー・コロンバイン-

音がないのは宇宙のようで、ちゃんと空気があるかどうかを繰り返し確認してみたくなる。 プレアデス星団を見たのは久方ぶりで、こぼれそうな星屑を腕いっぱいに抱きしめたくなる。 海と空が、ブルーから乳灰色へ連続的につながる。 テラスの柱と廂の直線に切り取られた、まるみのあるニュアンスが島の時間を讃えている。 何をするためでもなく、ただ少し遠くに来たのだが、同じ国とは思えない。 国境線は本質でないのだから、たぶん違う国なのだろう。 映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」の中で知

タイムスリップギャップ-12モンキーズ-

薄曇り、北風の朝。 モーターの音、島の唄。 この島に来て4日目なのだが、もしかしたら随分長い時間を過ごしてしまったのではないかという錯覚がする。 時の流れがゆるやかなのだ。 することもない。 音がない。色がない。 もしかしたら東京は、早回しのようなスピードでぎゅるぎゅると音を立てて疾走し、私がその流れに戻ったときには、最早何年かの時が経ってしまっているかもしれない。 もしそうだとしたらどうしよう。 きっと私は職を失って、友人も私を忘れかけているかもしれない。 部屋は引

証人-Shall we dance?-

リメイク映画というのは嫌いでない。 同じテーマも作り手が違えば、どんな作品に仕上がるのかということには興味がある。 背景となる時代が違うなら、それはそれで興味深い。 ちょっとしたモチーフが現代版で少しずつ違っているのを観察するのが面白い。 国が違なるリメイク、というのもまた面白い。 最近の有名なところでは「リング」なんかがそうだし、「Shall we ダンス?」をアメリカでリメイクした「Shall we dance?」もそうだ。 先週、「Shall we dance?」

旅先での相談事-最後の恋のはじめ方-

「一秒ごとに表情が変わるね」 まじまじと顔を覗き込みながら言う。 だったら、その一秒ごとの表情を見逃さないでね。 海の表情も、くるくると変わる。 昼過ぎまではあれほど穏やかだった水面が、今はざわめきたっている。 垂れ込める雨雲が何度となく断続的なスコールを呼んでいる。 移り変わる表情を見逃したくないから、飽くこともなくただ海を眺める。 変化することは楽しい。 変化するものを眺めるだけでも楽しい。 何もない島なので、何もせずに過ごしている。 むしろ、ちょっとした風や光

奈良散策-リトル・ブッダ-

奈良を訪れたのは3回目のことだ。 小学校の修学旅行が初めてのときで、それから5年ほど前だったか、名古屋で知り合った友人が奈良の出身で、帰省の折に遊びにおいでよと言われて立ち寄ったのが二度目だった。 今回は、両親が年末にどこか行こうと言い出して、どこにするどこにすると、ああだこうだ言っていた末に、どういうわけか結局決まった旅先である。 京都や奈良というのは案外と年末年始は空いているものだと、京都の大学を出た会社のマネージャーが言っていた。 まさにそういう流れに乗った。 そう